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黒田官兵衛とはどんな人?年表で簡単に解説!性格は?功績は?死因は?

黒田官兵衛(1546(天文15)〜1604(慶長9))は、戦国時代から江戸初期にかけて活躍した武将です。
竹中半兵衛と並んで、豊臣秀吉の参謀として有名です。

大河ドラマ『軍師官兵衛』では、岡田准一さんが演じられたことでも話題になりました。

そんな官兵衛ですが、どのような人だったのでしょうか?
この記事では、黒田官兵衛の年表を見ながら、その性格や功績、死因についてなど簡単に解説していきます。

黒田官兵衛とはどんな人?年表で簡単に解説!

黒田官兵衛とはどのような人だったのでしょうか?
ここでは、官兵衛の年表を見ながら、その生涯について簡単に解説していきます。

黒田官兵衛の年表

黒田官兵衛(くろだかんべえ):1546年(天文15年)〜1604年(慶長9年) 享年59歳

父:黒田職隆

母:小寺政職養女

妻:櫛橋光

子:長政、熊之助

養子:一成、松寿丸

【黒田官兵衛の年表】

  • 1546年(天文15年):0歳
    播磨国姫路にて、黒田職隆の嫡男として生まれる
  • 1559年(永禄2年):14歳
    母が亡くなり、引きこもって和歌や連歌に耽溺する
    →円満から諭され、文武両道への道を歩みだす
  • 1567年(永禄10年):23歳
    主君である小寺政職の姪・櫛橋光を正室に迎え、家督を継いで姫路城主となる
  • 1569年(永禄12年):25歳
    姫路城に攻め入ってきた赤松政秀の兵を10分の1の兵力で撃退し、世に官兵衛の名を轟かせる
  • 1578年(天正6年):34歳
    主君・信長に謀反の噂がある荒木村重を説得しに単身で乗り込むが、捕縛され約1年間幽閉される
  • 1580年(天正8年):35歳
    三木城を陥落させ、1万石を賜り、大名となる
  • 1582年(天正10年):38歳
    中国大返しを秀吉に勧め、山崎の戦いにて勝利する
  • 1587年(天正15年):43歳
    秀吉から豊前6郡を与えられ、馬ヶ岳城に入る
  • 1589年(天正17年):45歳
    家督を息子・長政に譲る
    名を黒田如水と改める
  • 1600年(慶長5年):56歳
    関ヶ原の戦いに乗じ、九州をほぼ平定する
  • 1601年(慶長6年):57歳
    福崎の地を福岡と改称し、福岡城の築城を始める
  • 1604年(慶長9年):59歳
    伏見藩邸にて死去
    崇福寺に葬られる

黒田官兵衛の家族構成は?

官兵衛は、1546年(天文15年)に播磨国姫路にて、父・黒田職隆と母・小寺政職養女の嫡男として生まれました。

そして、14歳の時に、母親を亡くしています。

その後、23歳の時に、小寺政職の姪である櫛橋光を正室に迎えます。
2人の間には、長政と熊之助の2人の子が生まれました。

また、官兵衛はこの時代には珍しく、妻は正室一人のみで、側室は作っていませんでした。
そのため、血の繋がった子供は2人のみということになります。

その他には、養子として一成と松寿丸を迎えています。

\ 黒田官兵衛の子孫に関しては、こちらの記事で詳しくまとめています /

黒田官兵衛は幽閉されたことがある?

官兵衛は34歳の時、その手腕を見込まれて、主君だった織田信長に対して謀反の疑いのある荒木村重の説得を頼まれます。
そして、単身村重の居城である有岡城へと乗り込むのですが、逆に捕縛されてしまい牢屋へと幽閉されてしまうのです。

官兵衛が幽閉された期間はなんと約1年間。
有岡城陥落後に、官兵衛は奇跡的に救出されましたが、その際の官兵衛は、長い間不衛生な環境にいたため、頭髪は抜け、足腰は弱まり、変わり果てた姿となっていました。

また、幽閉されていた時、なかなか帰ってこない黒田官兵衛を、織田信長は裏切ったと勘違いし大激怒してしまいます。そして、官兵衛の息子である長政を殺せと豊臣秀吉に命令するのです。

しかし、この時秀吉の参謀で、官兵衛と共に「両兵衛」と称されていた竹中半兵衛は、官兵衛が裏切るはずがないと信じ、主君に内緒で長政を匿うことにしました。

無事に官兵衛が戻ってきた頃には、竹中半兵衛はすでに病死して会えなかったのですが、この件を聞いて半兵衛に大変感謝したそうです。

そして、官兵衛はこの後から、半兵衛への感謝の気持ちをわすれないために、竹中家の家紋である「餅紋」を使うようになったと言われています。

黒田官兵衛の功績は?

黒田官兵衛は、豊臣秀吉の参謀として支え続けました。
具体的にはどのようなことをしていたのでしょうか?
ここでは、官兵衛の功績について簡単に解説していきます。

黒田官兵衛は若い頃、織田信長につくように主君に進言した?

黒田官兵衛の出身地である播磨国は、当時勢力を拡大していた織田信長と毛利輝元に挟まれている土地でした。
ここで、官兵衛の主君でもあった小寺政職が生き残ってくためには、どちらかに付く必要がありました。そこで、官兵衛は政職に
「守りの毛利よりも、攻めの織田に付きましょう」
と信長に味方するように進言します。

政職もこれを聞き入れ、信長側につくことになるのですが、官兵衛は信長が天下を取れる器であることを見抜いていたのかもしれませんね。

ちなみに、官兵衛は小寺氏の使者として岐阜城へ行き、信長に謁見した際に、信長から褒美として名刀「へし切長谷部」を拝領したと言われています。

黒田官兵衛は数々の戦で知将ぶりを発揮した?

黒田官兵衛は戦国時代屈指の軍師であったと言われています。
その知将ぶりは様々な戦で発揮されました。

【黒田官兵衛の主な戦】

■英賀(あが)の戦い
英賀の戦いとは、毛利一門小早川氏の武将・乃美宗勝(のみむねかつ)を総大将とした約5000の兵が英賀の浦に攻めてきたのを官兵衛が迎え撃った戦になります。
毛利勢が約5000の兵に対して、官兵衛が動員できる兵はわずか500でした。

この圧倒的な戦力差を前に、官兵衛は2つの策を立てます。

1つ目は、奇襲です。
英賀の浦に上陸した毛利勢は、長時間船に揺られていた疲れがまだ残っており、体勢が整っていないだろうと踏んでのことでした。

2つ目は、近隣の農民たちに旗や幟をもたせ、背後の山に待機させたことです。
奇襲によって混乱に陥っていた毛利勢でしたが、なんとか体勢を整えようとします。

しかし、そんなところに、背後からおびただしい数の旗や幟が立ち上がるわけです。

これを見た毛利勢は、大援軍が来たと勘違いし、戦意を喪失し退却することになりました。この圧倒的な戦力差をひっくり返してみせた官兵衛の評価はさらに高まり、これ以後は秀吉の軍師として活躍していくようになります。

中国平定
幽閉から解放された官兵衛は、秀吉の中国平定に付き従います。
まず、別所長治の三木城を陥落。そして、翌年には吉川経家の鳥取城へ出兵します。
さらに、その翌年には、毛利氏の武将・清水宗治が守る備中高松城を攻略していきます。この中でも三木城と鳥取城への攻略には兵糧攻めを、備中高松城には水攻めを官兵衛の策により実施しています。

兵糧攻めについては、過酷すぎると評されており、

・三木の干し殺し
・鳥取の渇殺し(かつえごろし)

などと語り継がれています。両合戦とも、飢えを徹底させた結果、城内では人の屍を食したなんて話も伝わっています。

■中国大返し

本能寺の変で、秀吉の主君である織田信長が亡くなってしまいました。

そこで官兵衛は秀吉に「天下が取れる、好機です」と、中国大返しを提言します。
これを受けて、秀吉は毛利氏と急遽和睦を取り付け、畿内へ向けて軍を反転させます。そして、山崎の戦いにて明智光秀を討ち取り、天下統一に向けて大出世を果たすのです。つまり、官兵衛の進言があったからこそ、秀吉は天下統一に近づいたと言っても過言ではないでしょう。

■四国平定

黒田官兵衛はその知将ぶりを四国を平定する際にも発揮しています。
敵将・長曾我部元親は、讃岐植田城(現在の香川県高松市)に敵を誘導し、阿波国(現在の徳島県)に本陣を置いて、夜戦で挟撃しようと策略していました。

しかし、官兵衛はその作戦を見抜き、阿波国への攻撃を最優先にするように進言します。その結果、元親が引きこもっていた白地城を豊臣軍は包囲することに成功します。迎え討とうとした元親でしたが、家臣の説得もあり、講和を受け入れることになりました。元親は、官兵衛の知略にまけたことにたいへん悔しがっていたと伝えられています。

■九州平定

黒田官兵衛は九州平定の際にも、作戦指揮を担当しました。
はじめに、毛利・吉川・小早川軍と共に、豊前小倉城(現在の福岡県北九州市)を攻略します。

その後、豊前松山城(現在の福岡県京都郡苅田町)では、豊前の諸将が降伏していきました。

こうして、官兵衛はわずか1年足らずで豊前内の主要な城をすべて攻略したのです。

その後、島津氏の降伏により九州平定は完了するのですが、度重なる戦により博多の町は荒廃を極めていました。そこで、官兵衛は秀吉の命により博多の復興を始めます。

官兵衛が実施した「太閤町割り」と呼ばれる都市整備は、整然とした碁盤の目のような街並みを生み出しました。それは今も福岡市博多区冷泉町や御供所町に面影を見ることができます。

このように、官兵衛は日本有数の都市である博多の基礎を築いたのです。

黒田官兵衛は「三大築城名手」の一人として称されている?

黒田官兵衛は、軍師の顔とは別に、築城の名手としての顔も存在していました。

それは、加藤清正、藤堂高虎と並び「三大築城名手」と称されるほどでした。

【黒田官兵衛が築城に携わった城】

  • 妻鹿城(1577年(天正5年))
    秀吉に姫路城を譲った後、自らの居城として修復
  • 篠ノ丸城(1580年(天正8年))
    織田信長から山崎1万石を与えられ、自らの居城として修復
  • 大阪城(1583年(天正11年))
    秀吉の名により縄張り
  • 中津城(1587年(天正15年))
    秀吉から豊前12万石を与えられ、城を築く
  • 高松城(1588年(天正16年))
    縄張り
  • 広島城(1589年(天正17年))
    縄張り
  • 名護屋城(1591年(天正19年))
    築上総奉行として縄張りを担当
  • 梁山倭城(やんさんわじょう)(1597年(慶長2年))
    朝鮮出兵の際の居城として築城
  • 福岡城(1601年(慶長6年))
    関ヶ原の戦いの功績により長政が家康から筑前52万石の加増移封を受け、城を築く

黒田官兵衛の築城技術は本当に素晴らしく、同じく三大築城名手の一人である加藤清正が
「自分の作った城は3日ほどで落城してしまうが、官兵衛殿の作った城は30日は落ちない」
と絶賛していたほどでした。

黒田官兵衛の死因は?

黒田官兵衛は享年59歳、死因は病死と言われています。
それはどんな病気だったのでしょうか?
また、官兵衛の辞世の句はどのようなものなのでしょうか?
ここでは、官兵衛の死因や辞世の句を簡単に解説していきます。

黒田官兵衛は梅毒で死んだ?

黒田官兵衛は、病死だったと言われていますが、それがなんの病気だったかまでは判明していません。しかし、一説には梅毒にかかって死んだのではないかという説もあります。

その理由としては、

  • 有岡城の事件後、官兵衛の頭には大きな瘡があった(梅毒によるゴム腫の症状か)
  • 有岡城の事件後、官兵衛には歩行障害があった(梅毒性脊髄炎の症状か)
  • 死ぬ間際に人が変わったように家臣たちを罵り始めた(梅毒の第4ステージ、脳や神経への症状か)

以上が挙げられています。

また、梅毒が大陸より持ち込まれたのは1512年のことで、当時の流行り病となっていました。
そのため、官兵衛が梅毒にかかっていたとしてもおかしくはないのです。

しかし、一時は梅毒説が有力だったものの、近年そうではなかったのではないかと見直されてきています。

先程挙げた理由を否定する根拠としては、

  • 頭の瘡
    有岡城幽閉時、非常に不衛生な環境であったため、頭にノミやシラミがいたのではないか
  • 歩行障害
    幽閉時の栄養失調や心理的ストレスによるものではないか
  • 死ぬ間際の罵詈雑言
    官兵衛から長政にスムーズに世代交代するための作戦だったのではないか

以上が挙げられています。

そのため、官兵衛の病名ははっきりと特定できないままです。

\ 黒田官兵衛の死因に関しては、こちらの記事で詳しくまとめています /

黒田官兵衛の辞世の句は?

黒田官兵衛の辞世の句:
「おもひおく 言の葉なくて つひにいく みちはまよわじ なるにまかせて」

現代語訳:
この世に残しておくような言葉はもうない。今はあの世への道も迷うことなく、心静かに旅立つだけである

この辞世の句から、官兵衛は自分の人生に悔いが全くないことが伺えます。

幼くして母を亡くしたり、幽閉されたりと波乱万丈な人生を歩んできた官兵衛でしたが、晩年は連歌を嗜むなど落ち着いた生活を送っていたようです。

そのため、充実した人生を生ききった官兵衛の気持ちがよく表されている辞世の句と言えるでしょう。

黒田官兵衛のお墓はどこにある?

黒田官兵衛は病気療養のため亡くなった時は、京都の伏見にいました。
そこから博多に戻ってきた官兵衛の亡骸は、キリシタン墓地に隣接する林の中に埋葬されました。

その場所は、今は崇福寺となっており、官兵衛を始めとする歴代福岡藩主のお墓が存在しています。

官兵衛と息子の長政のお墓は、仲良く並んで配置されています。

【黒田官兵衛のお墓がある崇福寺】

場所:福岡県福岡市博多区千代4-7-79(地下鉄「千代県庁口」から徒歩5分)

見学時間:10:00〜16:00(毎週土曜日、日曜日、及び休日のみ)

料金:無料

黒田官兵衛の性格がわかるエピソード

黒田官兵衛は非常に頭の切れる軍師でした。

そのため、主君に天下を狙っていると邪推されたり、家臣からの信頼が厚すぎて世代交代に不安があったりしたようです。
そこで、官兵衛はどのような行動を取ったのでしょうか?
ここでは、官兵衛の性格がわかるエピソードを簡単にご紹介してきます。

黒田官兵衛は主君を裏切らないことを証明するために隠居を決意した?

黒田官兵衛は優秀過ぎるが故に、主君である秀吉に疑われたことがあります。
あるとき秀吉が
「自分の死後、天下を取るのは誰か」
という問いを家臣たちにしました。

その問いに家臣たちは、徳川、上杉、前田、毛利といった諸大名の名前を挙げます。

しかし、秀吉はそれを笑って否定し、「おそらく官兵衛だ」と言い放ったのです。

秀吉は、官兵衛には野心があり、自分さえいなくなれば天下を狙うであろうと考えていたわけですね。このことを聞いた官兵衛は、自分に野心がないことを示すために隠居を決意します。

しかし、それは許されず、その後も官兵衛は秀吉に仕えることになります。

秀吉はずっと官兵衛を警戒し、官兵衛が大きな功績を残しても、ひたすら冷遇し続けました。

それでも、官兵衛は忠義を果たし、秀吉に野心がないことを示すために、その冷遇に甘んじていたのです。官兵衛の忠義心の厚さがよくわかりますね。

黒田官兵衛は黒田家の未来のために気が狂ったふりをした?

死ぬ間際、黒田官兵衛は突然家臣たちを罵り始めたことがあります。

突然の乱心に家臣たちは激しく動揺しました。

それまで官兵衛は家臣たちを罵るようなこともなかったため、病気のせいでおかしくなってしまったのだと考えた家臣がほとんどでした。

しかし、これは実は官兵衛の作戦でした。

官兵衛が死んでしまったら、当然次は息子である長政が家を継ぐことになります。

しかし、中には官兵衛への信頼が厚い故に、「長政に任せて大丈夫なのか…?」と不安になってしまう家臣もいました。

「やはり官兵衛じゃないと…」と家臣たちに言わせないためにはどうしたらよいのかと官兵衛は考えた結果が、家臣たちをひたすら罵るという行動でした。

そうすることにより、官兵衛への信頼はガタ落ちし、中には官兵衛のことを嫌う家臣もでてきました。つまり、官兵衛は自分の名誉や評価を犠牲に、長政へスムーズに代替わりできるようにしたのです。

ちなみに、家臣たちから官兵衛をどうにかしてくれと頼まれた長政は、「もう少しだけ寛容な態度をとってほしい」と官兵衛にお願いします。そこで官兵衛は長政に対し、

「これはそちのためにしているのだ。乱心ではない。これはわしが諸臣にいやがられて、一日も早く長政の代になるとよいと思わせるためだ」
(これはお前を思ってのこと。気が狂ったわけではない。これは、私が家臣に嫌われ、1日も早く黒田長政の代になると良いと思わせるためにしたのだ。)

と答えました。

人の心の動かし方を心得ており、他人には思いつかないような奇策を実行できる官兵衛は、やはり名軍師であったと言えるでしょう。

まとめ:黒田官兵衛は忠義に厚く、頭の切れる軍師であった

黒田官兵衛は様々な戦でその知将ぶりを発揮し、豊臣秀吉のことを支え続けました。
また、自分の息子のこともとても大切にしており、息子のためにわざと気が狂ったふりをして、世代交代をスムーズにできるようにするということもしていました。

今回の内容をまとめると、

  • 黒田官兵衛は若い頃、主君に織田信長につくように促すなど、先を見通す力があった
  • 謀反の疑いのある荒木村重を説得に行くが、捕縛され約1年間幽閉された
  • 数々の戦でその知将ぶりを発揮し、豊臣秀吉を支え続けた
  • 黒田官兵衛は、加藤清正、藤堂高虎と並んで三大築城名手と称された
  • 最期は病死だった
  • 世代交代をスムーズに行うために、死ぬ間際家臣たちを罵るなどした

官兵衛は冷静に物事を判断し行動できる人物でした。

しかし、冷遇されても秀吉に文句を言わず仕え続けたり、自分の評価を下げてでも息子に信頼が移るように行動したりなど、目標のためなら自己犠牲は厭わない人物でもあったのかなと感じました。

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