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源頼朝の妻「北条政子」とはどんな人?悪女だった?源頼朝との仲は悪かった?

源頼朝の妻「北条政子」とはどんな人?悪女だった?源頼朝との仲は悪かった?

鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻「北条政子」は、日本三大悪女の一人とされています。彼女は本当に悪女だったのでしょうか?源頼朝との仲は悪かったのでしょうか?
今回は、日本初の武家政権をひらいた夫と共に、激動の時代を懸命に生き抜いた源頼朝の妻「北条政子」とは一体どんな人だったのか?本当に悪女だったのか?源頼朝との仲は悪かったのか?をエピソードを交えてご紹介します。

※ちなみに日本三大悪女の他の二人は日野富子ひのとみこよどです。

源頼朝の妻「北条政子」とはどんな人?年表でみる波乱の生涯

源頼朝の妻 北条政子はどのような人だったのでしょうか?

北条政子
1157年(保元2年)伊豆国生まれ
父:北条時政ほうじょうときまさ 母:伊東祐親の娘
夫:源頼朝
子:大姫、源頼家、乙姫、源実朝
伊豆国に流刑されていた源頼朝と結婚。
夫の源頼朝を支え続け、頼朝の死後も尼将軍と呼ばれながら鎌倉幕府をまとめた。

源頼朝の妻「北条政子」の年表

1157年(保元2年)0歳
伊豆国(現在の静岡県)で、北条時政の長女として誕生

1177年(治承元年)20歳
伊豆国に流刑されていた源頼朝と出会い、恋愛結婚する

1178年(治承2年)21歳
第一子の大姫を出産する。

1180年(治承4年)23歳
夫の源頼朝が平氏を討つために挙兵し、源頼朝と共に鎌倉に移り住む

1182年(養和2年)25歳
第二子の万寿(源頼家)を出産する。

1186年(文治2年)29歳
第三子の乙姫を出産する。

1192年(建久3年)35歳
夫の源頼朝が、後鳥羽天皇ごとばてんのうより征夷大将軍に任命される
第四子の千幡(源実朝)を出産

1197年(建久8年)40歳
第一子の大姫が20歳で病死

1199年(建久10年)42歳
源頼朝が亡くなり、長男の源頼家が18歳で鎌倉幕府の2代目征夷大将軍に就任
北条政子は出家して尼になる
第三子の乙姫が14歳で病死

1203年(建仁3年)46歳
第四子の源実朝が12歳で、鎌倉幕府の3代目征夷大将軍に就任

1204年(元久元年)47歳
第二子の源頼家が23歳で亡くなる
(死因は、病死とも暗殺とも)

1219年(建保7年)62歳
第四子の源実朝が暗殺される
京都から2歳の三寅(藤原頼経ふじわらのよりつね)を迎え、鎌倉幕府の4代目征夷大将軍とし
北条政子が後継人として将軍の代行を行う

1221年(承久3年)64歳
朝廷との対立により承久の乱じょうきゅうのらんが起こる
北条政子は、演説により鎌倉幕府の武士達をまとめ勝利へ導く

1225年(嘉禄元年)68歳
病死

源頼朝と北条政子の関係は?仲は悪かった?

源頼朝と北条政子は10歳違いの年の差夫婦でした。
二人の関係はどのようなものだったのでしょうか。

二人の関係は、北条政子の方が源頼朝に執心なイメージが強くあるようです。
源頼朝の一周忌には、北条政子は除髪した自分の髪で、曼荼羅を刺繍して奉納したと言われています。

また、源頼朝が妾に子どもを産ませることを非常に警戒しており、妾の家を壊して鎌倉から追い出すなどといった、過激な方法で対応していたようです。

しかし、決して二人の関係性が悪かった訳ではなく、結婚して15年後も子供が生まれたり、長女が亡くなり憔悴して後を追おうとした北条政子を、源頼朝が懸命に引き留めたといわれています。
源頼朝の弟 源義経みなもとのよしつねの恋人だった静御前に対して激怒し、殺害しようとした源頼朝のことを北条政子が取りなしたこともあります。

源頼朝とは恋愛結婚だった

源頼朝と北条政子は、当時としては非常に珍しく恋愛結婚でした。
政略結婚や、親の決めた相手と結婚することが当たり前だった時代です。
しかも、二人の結婚前の関係は、源氏側の罪人と平家側の監視役の娘という禁断の関係性だったのです。 
北条政子が3歳の時、平治の乱で敗北した源頼朝が伊豆国に流刑され、父の北条時政が監視する役になります。
こうして源頼朝と北条政子が出会い、その後二人は恋仲になります。

曽我物語そがものがたりという軍記物語の中に、北条政子と源頼朝のなれそめについてのエピソードが存在します。

二人の関係を知った父・北条時政は、当然大反対します。そして北条政子にあきらめさせるために、伊豆国の豪族との結婚話を進めてしまうのです。
しかし北条政子は一途に源頼朝を思い続けます。
結婚当夜、こっそりと屋敷を抜け出し、雨の中一人で走って源頼朝の元へと逃げ出したのです。
この北条政子の情熱的な行動がきっかけで、父・北条時政も二人の結婚を認めるようになります。
結婚を認めるということは、源頼朝の味方になると決断したことに他なりません。
小さな伊豆の豪族にすぎない北条時政にとって、当時は強大な力をもつ平清盛と反目する決断は、非常に重たいものだったに違いありません。
もしも、北条時政が二人の結婚を認めなかったら、北条家は伊豆国の小さな豪族のまま歴史の中に埋もれていたことでしょう。
北条家のその後の繁栄は、北条政子の熱烈な情愛から始まったのですね。

北条政子は、源頼朝の浮気を疑っていた?

北条政子の一途で情熱的な愛情は、源頼朝の浮気を許しませんでした。
これも、当時では珍しい女性像といえます。
当時の有力武家は、一族を増やすためにも、多くの妾をもつのが当たりまえだった時代です。実際、北条政子の父も源頼朝の父も多くの妾がおりますし、源頼朝の祖父は20人以上もの子がいます。

源頼朝にも、他の女性のもとに通うことが当然と思う感覚があったと思います。
しかし、北条政子はそんな夫の行動を容認できませんでした。
北条政子が第二子を出産するために家を空けている間に、源頼朝は「亀の前」という女性を鎌倉の近くに呼び寄せました。亀の前は伊豆国にいた時から頼朝に仕えていた女性で、穏やかな性格の彼女を頼朝はとても可愛がっていたようです。

第二子の万寿(源頼家)を無事に出産し、鎌倉に戻ってきた北条政子は、源頼朝の浮気に激怒します。

北条政子は、自分の継母の父である牧宗親まきむねちかに命じて、亀の前の住んでいた鎌倉の家を破壊し、亀の前を鎌倉から追い出したのです。
北条政子は、常に源頼朝が浮気しないかを気にしていたのですね。

北条政子のエピソードからみる人物像

北条政子はどのような人だったのでしょうか。今も残るエピソードから、北条政子の人物像を見ていくことにしましょう。

謎に包まれた源頼朝の死、そして尼将軍と呼ばれた北条政子

1199年(建久10年)に源頼朝が52歳で亡くなります。
源頼朝の死因は謎に包まれています。
落馬の怪我がきっかけで亡くなったという説や、糖尿病説、脳卒中説、暗殺説や亡霊説まで様々な説が存在します。

死因は何であれ、この年に源頼朝が亡くなったのは確かなようで、同じ年に、長男の源頼家が18歳で鎌倉幕府の2代目征夷大将軍に就任します。
それまで将軍の妻として御代所みだいどころとよばれていた北条政子は、出家して尼になり、尼御代あまみだいと呼ばれるようになりました。

1219年(建保7年)に第四子の源実朝が暗殺されると、鎌倉幕府は京都の摂関家から2歳の三寅(藤原頼経)を迎え、4代目征夷大将軍とします。
まだ2歳の幼児であることから、北条政子が後継人となり、将軍の代行を行うようになります。
この時から、北条政子は尼将軍あましょうぐんと呼ばれるようになりました。
北条政子が62歳の時でした。

次々と呼び名が変っていったことは、彼女の人生の境遇が次々と変化し、激動の人生であったことに他ならないことを示していますね。

源頼朝の死因についてはこちらの記事に、詳しくまとめてあります

>>源頼朝の死因は?落馬?病気?怨念?それとも暗殺?謎に包まれた源頼朝の死因

北条政子と呼ばれるようになったのは、1218年からだった

北条政子が生きている時は、彼女が北条政子と呼ばれることは、ほとんどなかったようです。
御代所や尼御代、尼将軍といった肩書きで呼ばれていました。

政子という名前が初めて記録に残ったのは、源頼朝が亡くなって20年近くたった、1218年(建保6年)のことです。
朝廷から従三位じゅうさんみという位を授与されることになり、即席で作った記録用の名前が政子だったのです。
ちなみに名前の由来は、父の北条時政の「政」の文字を一文字とったものとなります。

北条家の政子として北条政子と呼ばれることが一般的になったのは、実は昭和に入ってからのことなんです。

北条政子は源頼朝の妻として、将軍として評価されていた?

現代、日本三大悪女の一人ともされる北条政子ですが、彼女が「悪女」とされたのは、江戸時代に入ってからのことでした。

それまでは、夫や子の亡き後も鎌倉幕府を支え続けた賢女とされて、非常に高い評価を得ていたようです。
江戸時代になると、儒教の影響によって、批判的な評価を得るようになりました。
嫁ぎ先の源家が子どもの代で滅び、実家の北条家が鎌倉幕府の中枢に取って変わった部分が、妻としていかがなものかとされたのです。
また、この頃から北条政子の嫉妬深さも批判の対象となってきました。

北条政子は嫉妬深かった

北条政子の、夫の浮気を許さない行動は、一途で嫉妬深い性質のものとする一方で、実は自分の立場を保守するための冷静な判断であるという説もあるのです。

源頼朝は清和源氏のひとつの河内源氏の嫡男として生まれます。皇族女子が祖先にいる非常に高い身分の御曹司だったのです。
一方、北条政子は伊豆国の小さな豪族の出にすぎません。
源頼朝の正室としては、あまりに身分が低かったのです。
加えて、当時は家を継ぐのは、長子ではなく正室の子どもというのが一般的になっていました。
事実、源頼朝も生まれ順では三番目ですが、正室の子ということで敵男として育てられています。

北条政子が自分の子を後継ぎにするためには、正室であり続けることが大切だったのです。
高貴な出の妾がもしも子を産んでしまえば、相手の家の力であっという間に自分は正室追われ、自分や子どもの立場が悪くなってしまうのです。
そのために、北条政子は妾の存在に敏感になっていたとも考えられるわけです。

まとめ:源頼朝の妻「北条政子」は妻として、尼将軍として鎌倉幕府を牽引していた

源頼朝の妻「北条政子」は、妻として夫を一途に愛し続けただけでなく、夫の作った鎌倉幕府を夫や子どもの死後も守り続けました。
今回の内容をまとめると、

  • 北条政子は強い情愛と男勝りの性格をもつ女性だった
  • 源頼朝と北条政子は恋愛結婚で、晩年まで二人の関係は悪くなかった
  • 北条政子は源頼朝や子どもの死後も、尼将軍として鎌倉幕府を支え続けた
  • 実は北条政子と呼ばれていたのは1218年からで、定着したのは昭和から

愛情と行動力と冷静さを併せ持つ、スーパーウーマンだったのだなと感じました。
2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、北条政子の役を小池栄子さんが演じるようですね。力強い演技で、どのような北条政子を演じるのか今から楽しみです。

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