源頼朝が征夷大将軍にこだわった理由は?いつ、どのような経緯で任命されたのか?
源頼朝といえば鎌倉幕府をひらき、1192年に初代征夷大将軍ということは皆さんご存じでしょう。
しかし源頼朝は、平氏を亡ぼした後すぐに征夷大将軍にたわけではありません。
今回は、源頼朝がなぜ征夷大将軍にこだわったのか?そして、いつどのような経緯で任命されたかを解説します。
目次
源頼朝が征夷大将軍という役職にこだわったのはなぜ?
清和天皇から続く、清和源氏の流れを汲む源頼朝。
源平合戦、壇ノ浦の戦いで平家を亡ぼし、鎌倉幕府をひらきましたが、源頼朝は簡単には征夷大将軍になれませんでした。
そもそも源頼朝はなぜ征夷大将軍になりたかったのでしょうか。
詳しく見ていきましょう。
源頼朝が征夷大将軍になったのはいつ?
源頼朝のターニングポイントとなった戦いと言えば1185年(文治元年)の壇ノ浦の戦いが有名です。
この戦いで、源氏が平家を亡ぼし政権を奪取しました。
かつては「いい国作ろう鎌倉幕府」という語呂合わせで有名な、1192年(建久3年)に鎌倉幕府が成立したとされていましたが、近年では源氏が平家を滅亡させた1185年(文治元年)が「いい箱つくろう鎌倉幕府」となっており、鎌倉幕府の始まりとされています。
壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼしてから7年後、1192年(建久3年)に頼朝は征夷大将軍に任命されました。
源頼朝が征夷大将軍に任命されるまで7年もかかったのは、朝廷と頼朝の政治的な攻防があったからなんです。
そもそも征夷大将軍とはどんな役職?
征夷大将軍とは、当時の新しい官職で、朝廷に従わずに敵対していた東北地方の部族「蝦夷」を征討するために、朝廷のトップである天皇の軍事代行者として任命された役職です。
「征夷」は、蝦夷を征討するという意味なんです。
奈良時代の末期に大伴弟麻呂(758年(天平宝字2年)~811年(弘人2年))が初代征夷大将軍に任命されました。
源頼朝は平氏を滅亡させたのち、後白河上皇に謁見し権大納言と右近衛大将に任命されました。しかし、源頼朝はその役職をすぐに辞任しています。
その理由は、これらの役職は朝廷の近く(京都付近)に滞在することが必須で、源頼朝は自由に動くことができなかったのです。
源頼朝は、朝廷ではなく武士が政権を握ることを強く望んでいたため、朝廷から離れた場所で活動できる征夷大将軍という役職にこだわっていたのです。
源頼朝が征夷大将軍になるまでの経緯をご紹介
源頼朝が征夷大将軍に就任するという野望を実現する上で、重要な人物となるのが後白河上皇です。
1185年(寿永4年)の壇ノ浦の戦いで源氏が平氏を滅ぼしましたが、
後白河上皇は、「武士が権力を持つと平清盛のように朝廷を脅かす存在になるのではないか」と恐れていました。
そのため、武士を中心とした幕府(政権)を確立したかった源頼朝と、それを恐れた朝廷との間に政治的な攻防が生じました。
源頼朝は、右近衛大将の役職は望んでいなかった?
1190年(建久元年)、源頼朝は初めて後白河上皇に謁見することになります。
この時に何について話されたのは記録として残っていませんが、源頼朝は権大納言、そして右近衛大将にも任命されています。
権大納言は宮中の官職のひとつで、右大臣、左大臣に次ぐ天皇の側近です。
右近衛大将は宮中の警護などを司る役職のトップです。
つまり、天皇の側近として宮中の警護をする責任者ということになります。
朝廷は、武士が権力を握ることを恐れていたので、自分たちの目の届く範囲に配置し管理することを望んでいました。
その意図を知った源頼朝は、一度は受けたその役職を辞しています。
一方、征夷大将軍は京都から離れた関東に常駐するため、ある程度自分の裁量で物事を決定できる立場にあります。
源頼朝は征夷大将軍になり自ら政治を行い武士を中心とした幕府を確立したいという野望をもっていたので、朝廷に近くにいる必要がある右近衛大将という役職では不都合があったのです。
後白河上皇の崩御。そして征夷大将軍へ
源頼朝は征夷大将軍になることで、朝廷の力が及ばない武家政権を作りたいという野望がありました。
その思惑を見破っていた後白河上皇は、源頼朝を征夷大将軍に任命しません。
しかし、そんな後白河上皇も1192年(建久3年)に崩御します。
そして、同じく1192年(建久3年)に即位した後鳥羽天皇によって、源頼朝は念願の征夷大将軍に任命されたのです。
大まかな流れをまとめると
・1185年(文治元年)
壇ノ浦の戦いで平家を亡ぼす(鎌倉幕府の成立)
・1190年(建久元年)
頼朝が初めて後白河上皇に謁見、権大納言、右近衛大将に任命される
・1190年(建久元年)
権大納言、右近衛大将を辞任する
・1192年(建久3年)
後白河上皇が崩御
・1192年(建久3年)
後鳥羽天皇が即位し、源頼朝が征夷大将軍に任命される
という流れになります。
源頼朝の死後、征夷大将軍を継いだ頼朝の実子の悲劇
念願の征夷大将軍に任命された源頼朝ですが、征夷大将軍に任命されたわずか7年後、1199年(建久10年)に亡くなってしまいます。
源頼朝の死後、征夷大将軍の座を継いだのは長男の源頼家です。
しかし、源頼家は、執権政治を狙っていた北条家によって暗殺されてしまいます。
その源頼家の後を継いだ源頼朝の次男 源実朝も、源頼家の子供に暗殺されてしまい、源頼朝の直系の子孫は途絶えてしまいました。
源頼家は北条家によって暗殺された
源頼朝が死亡した後、頼朝の妻 北条 政子の弟である北条義時が鎌倉幕府内で力をつけていました。
後鳥羽上皇が朝廷へ権力を取り戻そうと承久の乱を起こし、政権奪回を試みますが失敗に終わります。
この戦いに勝利した北条氏は執権政治を確立していくのです。
源頼朝の長男の源頼家も将軍にはなりますが、その時すでに幕府の実権は北条氏が握っている状態です。
そんな中頼家は病を発症してしまい、将軍職を剥奪されてしまいます。
そして、源頼家がまだ生きているにも関わらず、
「頼家が死亡したため弟の源実朝が 跡を継いだ」
という報告が都に届き、源実朝が将軍に任命されています。
無事に病床から回復した源頼家は、弟が将軍に任命されたことを知って激怒し、
北条を倒すため挙兵しようと試みましたが、賛同するものがほとんどおらず、源実朝に将軍職を奪われてしまいました。
将軍職を剥奪された源頼家は 伊豆国修禅寺に幽閉された後、北条氏に暗殺されてしまいました。
源実朝は頼家の子供によって暗殺された
鎌倉幕府 第2代征夷大将軍の源頼家が追放され、源実朝はわずか12歳で第3代征夷大将軍に任命されました。
就任当初は北条氏が執権として政治を行ったものの、源実朝は成長するにつれ政治に関与するようになります。
源実朝には子供がいませんでしたが、1206年(建永元年)母親の北条政子の計らいで、兄である源頼家の息子 公暁を猶子(養子)としました。
1218年(建保6年)、源実朝は武士として初めて右大臣に就任しました。
その翌年、右大臣就任を祝うべく鶴岡八幡宮に拝賀します。
その帰り道、「親の敵はかく討つぞ」と叫ぶ公暁に襲われ亡くなってしまいます。
1219年(建保7年)実朝 享年28歳という若さです。
ここで頼朝から始まった源氏将軍の流れが途絶えてしまいました。
源実朝は、養子に迎えた公暁に殺されてしまうなんて悲劇ですね。
源頼朝の家系図に関しては、こちらの記事で詳しく解説しています。
>>源頼朝の家系図をわかりやすく解説。先祖には誰がいる?兄弟は?子孫は?
まとめ:源頼朝は、朝廷の力の及ばない武家政権をつくるために征夷大将軍にこだわっていた。
源頼朝は武士を中心とした武家政権を確立するため、あくまで征夷大将軍にという役職にこだわっていました。
しかし、征夷大将軍に就任し、鎌倉幕府をひらいた源氏の将軍はわずか3代で終わってしまったのです。
今回の内容をまとめると
- 後白河上皇は武士が権力を持つことを恐れ、源頼朝を征夷大将軍に任命しなかった
- 源頼朝は、権大納言と右近衛大将に任命されるもすぐに辞職し、自ら政治を行い武家政権を作るため征夷大将軍にこだわっていた
- 源頼朝の長男 源頼家も、征夷大将軍になったが北条氏によって暗殺された
- 第3代征夷大将軍になった源実朝も、頼家の子供によって暗殺された
念願の征夷大将軍になったものの、息子は暗殺されてしまう。
次男に至っては源頼朝の孫が、息子を暗殺するという結末。
なんとも切ない結果ですね。
源頼朝の生涯に関しては、こちらの記事で詳しく解説しています。
>>源頼朝の年表を中学生にもわかるように簡単に解説!一体どんな人物だったのか?
源頼朝の家系図に関しては、こちらの記事で詳しく解説しています。
>>源頼朝の家系図をわかりやすく解説。先祖には誰がいる?兄弟は?子孫は?