石田三成の最後の戦い「関ヶ原の戦い」なぜ家康に挑んだのか?原因や結果を簡単に解説!
石田三成(1560(永禄3)〜1600(慶長5))は、安土桃山時代に活躍した武将です。
豊臣秀吉の家臣として秀吉のことを支え、その死後も豊臣家を五奉行として支え続けました。
そんな石田三成は、その生涯の最後に関ヶ原の戦い(1600(慶長5))に挑み敗れその生涯に幕を下ろしました。。石田三成は関ヶ原の戦いで徳川家康と戦ったのですが、なぜ石田三成はこの戦いに挑んだのでしょうか?そこには、石田三成の譲れない思いがあったのです。
この記事では、石田三成と関ヶ原の戦いについて簡単に解説していきます。
目次
石田三成の最後の戦い「関ヶ原の戦い」
石田三成は、その生涯の最後に関ヶ原の戦いに挑みました。
それでは、その関ヶ原の戦いとはどのような戦だったのでしょうか?
ここでは、関ヶ原の戦いについて簡単に解説していきます。
関ヶ原の戦いはどんな戦だった?
関ヶ原の戦いは、1600年(慶長5年)に美濃国不破郡関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われました。総勢約15万人が参加した戦いで、その規模の大きさや影響から、「天下分け目の戦い」と言われることもあります。
戦いのきっかけは、豊臣秀吉の家臣だった石田三成と徳川家康の対立です。
豊臣秀吉の亡き後、豊臣家中心の国家を守ろうとする石田三成と、天下を取ろうとする徳川家康が対立したのです。
石田三成率いる西軍は8万2千、徳川家康率いる東軍は7万4千もの兵士が参戦しました。
\ 関ヶ原の戦いについてはこちらの記事でも詳しく紹介しています /
関ヶ原の戦いは西軍の敗北に終わった?
関ヶ原の戦いに参戦したのは、約15万人でした。これだけの規模の戦ですから、長期戦になると予測されていましたが、蓋を開けてみたらわずか6時間で決着がつく短期戦となりました。
なぜそんなことになったのかというと、西軍として参戦していた一部の武将が、開戦後に西軍を裏切り、東軍側に寝返ったからです。
この西軍の裏切りの背景には、徳川家康が事前に西軍の武将に手紙を送り、寝返るように勧誘していたという背景があります。
【西軍から寝返った武将】
- 小早川秀秋
- 脇坂安治
- 小川祐忠
- 赤座直保
- 朽木元綱
石田三成のことを嫌う武将も多かったので、三成を倒すために家康についたという武将もいました。
結果、大量の裏切りにあった西軍は負けてしまうのです。
そして、徳川家康はこの戦いに勝利したことにより、邪魔するものがほぼいなくなり、後に江戸に幕府を開くことになります。
石田三成は関ヶ原の戦いの後、捕縛され処刑された?
関ヶ原の戦いで、西軍の石田三成は東軍の徳川家康に負け、敗走します。
石田三成は、一旦近江国浅井郡(現在の滋賀県)に逃れて、再建を図ろうとしたのです。
この際、三成は農民である与次郎太夫に匿われ、身を潜めていました。
与次郎太夫からしたら、三成は旧領主であり、かつて飢饉が起きた際に救ってくれた命の恩人だったので、恩を返せるチャンスだったわけです。
しかし、三成を匿っていることが名主にバレてしまい、差し出すようにと迫られてしまいます。
三成は与次郎太夫の好意に感謝し、自ら捕縛を申し出ることにしました。
与次郎太夫に迷惑がかからないようにしたわけですね。こうして、三成は捕縛され、斬首されてしまいました。享年41歳でした。
\ 石田三成の最後の様子に関しては、こちらの記事でも詳しく解説しています /
石田三成陣跡が現在も笹尾山にある?
関ヶ原の戦いにて石田三成が陣をひいた場所が、現在でもきちんと残されています。
決戦の地の北西に位置する小さな山は笹尾山と言います。
そこに「石田三成陣跡」の碑があるのです。
ここには合戦時、敵の攻撃からの防御として使用された竹矢来・馬防柵が復元されています。
三成が当時見ていたであろう光景が垣間見えるかもしれません。
笹尾山・石田三成陣跡
住所:岐阜県不破郡関ケ原町大字関ヶ原4008
駐車場20台有り
石田三成はなぜ関ヶ原の戦いに挑んだ?
石田三成が親友の大谷吉継に関ヶ原の戦いのことを持ちかけた際、
吉継は「勝ち目がないからやめておけ」と忠告したと言われています。
しかし、石田三成は親友の忠告を聞かずに関ヶ原の戦いに挑んだのです。
勝ち目の薄い戦に、三成はなぜ挑んだのでしょうか?
ここでは三成が関ヶ原の戦いに挑んだ理由について簡単に解説していきます。
石田三成は徳川家康の暴走を止めようとした?
豊臣秀吉の死後、徳川家康は最大勢力であることを利用して好き放題やり始めます。
例えば、
秀吉は特定の大名が大きな力を持たないように、大名間の勝手な婚姻を厳禁としていましたが、家康は秀吉の死から半年も経っていないうちに、伊達政宗や福島正則らと私婚を結ぶ動きを見せます。
このときは、前田利家や三成らがなんとか止めることに成功しましたが、その後家康に唯一対抗できるストッパーであった前田利家が病により死んでしまいます。
そして、家康は徳川を中心とする新たな世界を作るために、再び動き出すのです。
石田三成は非常に忠義に厚い人物でしたので、豊臣家を中心とする国家の維持をしようとしました。これを守るためには、家康を排除しなくてはなりません。そのため、三成は家康に戦いを挑むことになったのです。
石田三成は徳川家康が会津征伐に行っている間に西軍を結成した?
関ヶ原の戦いが始まる少し前、徳川家康は命令に従わず、軍備を整えだした上杉景勝を謀反の疑いがあるとし、景勝を討伐するために、大軍を率いて会津に出陣しました。
徳川家康の暴走を止める機会を伺っていた石田三成は、これをチャンスと見て、打倒徳川の兵を挙げます。
この際、三成は各武将に、『内府違いの条々』という文書を送りつけます。
その内容は、
- ・「上杉景勝が謀反を企んでいる」と決めつけて悪者扱いした
- ・誓いを裏切ってまた勝手な縁組をした
- ・ルールを無視して勝手に大名に知行を与えた
- ・北政所を追い出して家康が住み着いた
- ・五奉行、五大老が相談して決めるべきことを一人で勝手に行っている
上記のようなことを十三カ条にして綴っていました。
これを受けて、多くの武将が石田三成に協力してくれることになり、こうして西軍が結成されるのです。
そして、西軍が結成されたことを聞いた家康は、会津討伐をあっさりと中止し、三成と激突することになりました。
石田三成はなぜ関ヶ原の戦いに負けた?
関ヶ原の戦いの開戦時、石田三成率いる西軍は8万2千、徳川家康率いる東軍は7万4千と、兵力では西軍が勝っていました。
しかし、蓋を開けてみると結果は西軍の敗北で終わりました。
なぜ三成は関ヶ原の戦いに負けてしまったのでしょうか?
ここでは、石田三成が関ヶ原の戦いに負けた原因について簡単に解説していきます。
石田三成が関ヶ原の戦いに負けたのは、周りから嫌われていたから?
石田三成は真面目過ぎて融通が利かない一面もあったようで、一部の武将たちから嫌われていました。そして、あまりにも嫌われすぎた結果、暗殺されそうになったことがあります。
それは豊臣家の重臣・前田利家の死後、1599年(慶長4年)のことです。
石田三成の暗殺を企んだのは、なんと豊臣家の古くからの家臣で「武断派」と呼ばれる人たちでした。秀吉が天下を統一し、平和な世の中になった当時、武断派が活躍できる場面は少なく、文治派である三成が活躍しているのが気に食わなかったのです。
そのため、豊臣家を仕切ろうとする三成のことを、排除しようとしました。
武断派の7人(加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、藤堂高虎、浅野幸長、蜂須賀家政)は、石田三成の屋敷を襲撃します。
三成はなんとか屋敷から脱出し、不本意ながらこの場を丸く収めることができるであろう徳川家康の屋敷に逃げ込み助けを求めます。
この時、家康はあくまで豊臣家を支える大名の一人として中立の立場を取りました。
そして、武断派の人たちを鎮めることに成功するのです。
しかし、三成はこの騒ぎを収束させるためという理由で、家康に引退させられてしまいます。
こうして、三成は暗殺騒動により、政治の中心から遠ざけられてしまったのでした。
殺したくなるほど嫌いな相手と手を組みたいとは思いませんよね。
そのため、同じ秀吉の家臣でも、三成に協力しようとする武将が少なくなってしまったのです。
むしろ、ムカつく三成を倒そうとして家康側につく武将もいたとか…。これが関ヶ原の戦いに敗北した理由として挙げられるでしょう。
石田三成が関ヶ原の戦いに敗れた決め手は、小早川秀秋の裏切りだった?
関ヶ原の戦いが始まってしばらくは互角の戦いが繰り広げられますが、あることがきっかけで、西軍は大きく崩れていくことになります。
それが、小早川秀秋による裏切りです。
秀秋は、最初西軍についており、1万5千もの兵を率いるいわゆる主力でした。
しかし、その秀秋が突然東軍に寝返り、西軍を攻撃してきたのです。
このとき、秀秋の横に布陣していたのが、大谷吉継でした。
秀秋の大軍が裏切って攻撃してくるだけでも相当の痛手だったのですが、そこにさらに吉継の配下として参戦していた、脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱の4隊までもが秀秋の裏切りに呼応して吉継に襲いかかったのです。
この4隊でだいたい4500人ほど。
つまり、秀秋の軍と合わせれば、1万9500人もの裏切りがあったわけです。このことが、西軍の敗北を決定的なものにしました。
このように、石田三成が嫌われていたが故に、大きな裏切りが起こり、西軍は敗北してしまったのです。
石田三成にもっと求心力が備わっていれば、数で有利だった西軍が勝っていたかもしれませんね。
まとめ:石田三成は豊臣家への忠義のために関ヶ原の戦いに挑んだ
石田三成は、豊臣秀吉の死後、天下を取ろうと暴走する徳川家康を止めるために、関ヶ原の戦いに挑みました。三成は、豊臣家を中心とする国家を守ろうとしたのです。そこには、三成の豊臣家への強い忠義が感じられます。
今回の内容をまとめると、
- 石田三成は、徳川家康が天下をとろうと暴走し始めたので、それをとめるために関ヶ原の戦いに挑んだ
- 石田三成は真面目過ぎるが故に融通が利かず、一部の人達からは嫌われていた
- 嫌われていたが故に、関ヶ原の戦いの開戦後に裏切る武将たちが大量に現れた
- 関ヶ原の戦いに西軍は敗北し、石田三成は捕縛され処刑されてしまった
関ヶ原の戦いで敗れた後、捕縛され、様々な場所で罪人として引き回しにあった三成でしたが、その間決して下を向くことはなかったと言われています。
自分のしたことは絶対に間違っていなかったと、固い意志のようなものがあったのかもしれません。死ぬ間際まで自分の忠義を貫き通した三成は、やはりさすがとしか言い様がないでしょう。