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石田三成の最後!何故関ヶ原の戦いに挑んだ?死ぬ間際に見せた信念とは?

石田三成(1560(永禄3)〜1600(慶長5))は、安土桃山時代に活躍した武将です。

豊臣秀吉の家臣として秀吉のことを支え、その死後も豊臣家を五奉行として支え続けました。
そんな石田三成は関ヶ原の戦いにて敗北し、捕縛され処刑されてしまいます。
この記事では、石田三成の最後について簡単に解説していきます。

石田三成の最後の姿を簡単に解説!

石田三成は関ヶ原の戦いに敗北し、捕縛され処刑されてしまいました。
石田三成が処刑されるまでどのような経緯があったのか?
ここでは、石田三成の最後の姿を簡単に解説していきます。

石田三成は関ケ原の戦いに敗北し、捕縛され処刑された?

豊臣秀吉の死後、天下を取ろうと徳川家康が暴走し始めます。

それは、秀吉が生前に作った法を破ったりなどしており、石田三成以外にそれを止められるような人物はいませんでした。そのため、石田三成は豊臣家を守るために、徳川家康と対峙することを決心します。これが関ヶ原の戦い(1600)です。

結果として三成は家康に負け、敗走することになります。
一旦近江国浅井郡(現在の滋賀県)に逃れて、再建を図ろうとしたわけですね。

この際、三成は農民である与次郎太夫に匿われ、身を潜めていました。
与次郎太夫からしたら、三成は旧領主であり、かつて飢饉が起きた際に救ってくれた命の恩人だったので、恩を返せるチャンスだったわけです。

しかし、三成を匿っていることが名主にバレてしまい、差し出すようにと迫られてしまいます。

石田三成は与次郎太夫の好意に感謝し、自ら捕縛を申し出ることにしました。

与次郎太夫に迷惑がかからないようにしたわけですね。こうして、三成は捕縛され、斬首されてしまいました。享年41歳でした。

石田三成の辞世の句・最後の言葉は?

【石田三成の辞世の句】

「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」

現代語訳:
「明日の明け方には消されるあの篝火は、私が生涯をかけて忠誠を尽くした豊臣家の命運のようだ。私が死んだら、篝火が消えるように、豊臣家は徳川家康に滅ぼされるだろう」

石田三成は、秀吉亡き後の豊臣家を守れるのは自分だけだと考えていたのでしょう。
そのため、自分が死んだあとのことを憂いていたわけですね。
この石田三成の辞世の句からは、いかに三成が豊臣家のことを大事に思っていたのかがよくわかりますね。

【石田三成の最後の言葉】

「大志を持つものは、最期の時まで命を惜しむものだ」

処刑の直前、石田三成は喉が渇き、警護の人に水を求めました。

しかし、水はもらえず、代わりに渡されたのは、近くの民家にあった干し柿でした。

三成はそれを「柿は痰の毒だからいらない」と断ったのです。

警護の人たちは「これから死ぬというのに今更毒断ちして何になる」と笑いました。

しかし、三成は笑われても、「大志を持つものは、最期の時まで命を惜しむものだ」と相手にしませんでした。

もう後は処刑されるだけという時になっても、三成は万が一生き残ったあとのことを考えて、体のために柿を断ったのです。
最後の時まで、石田三成は生きることを諦めていなかった証と言えるでしょう。

石田三成は何故関ヶ原の戦いに挑んだのか?

石田三成が徳川家康と対立して起きたのが関ヶ原の戦いです。

三成の親友・大谷吉継はこの戦いが始まる前、三成に勝てる確率は低いからやめたほうがいいと助言したと言われています。

しかし、これを聞いても、三成の決意はゆらぎませんでした。

何故三成は勝てる見込みのない戦に挑んだのでしょうか?
ここでは、関ヶ原の戦いが起きた原因や、その結果などを簡単に解説していきます。

石田三成は徳川家康を止めるために戦いに挑んだ?

豊臣秀吉の死後、徳川家康は最大勢力であることを利用して好き放題やり始めます。

例えば、秀吉は特定の大名が大きな力を持たないように、大名間の勝手な婚姻を厳禁としていました。しかし、家康は秀吉の死から半年も経っていないうちに、伊達政宗や福島正則らと私婚を結ぶ動きを見せます。このときは、前田利家や三成らがなんとか止めることに成功しました。

しかし、その後家康に唯一対抗できるストッパーであった前田利家が病により死んでしまい、家康は徳川を中心とする新たな世界を作るために、再び動き出すのです。

石田三成は非常に忠義に厚い人物だったので、豊臣家を中心とする国家の維持するためには、家康を排除しなくてはなりません。そのため、三成は家康に戦いを挑むことになったのです。

\ 関ヶ原の戦いの原因に関しては、こちらの記事でも詳しく解説しております /

石田三成は関ヶ原の戦いの前に暗殺されそうになった?

石田三成は関ヶ原の戦いの敗戦を受けて処刑されることになりますが、実はその前にも暗殺されそうになったことがあります。

それは前田利家の死後、1599年(慶長4年)のことです。

三成の暗殺を企んだのは、なんと豊臣家の古くからの家臣で「武断派」と呼ばれる人たちでした。
豊臣秀吉が天下を統一し、平和な世の中になった当時、武断派が活躍できる場面は少なく、文治派である三成が活躍しているのが気に食わなかったのです。
そのため、豊臣家を仕切ろうとする三成のことを、排除しようとしたのです。

加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、藤堂高虎、浅野幸長、蜂須賀家政の7人は、三成の屋敷を襲撃しましたが、三成はなんとか屋敷から脱出し、不本意ながらこの場を丸く収めることができるであろう徳川家康の屋敷に逃げ込み助けを求めます。

この時、家康はあくまで豊臣家を支える大名の一人として中立の立場を取りました。

そして、武断派の人たちを鎮めることに成功するのです。

しかし、三成はこの騒ぎを収束させるためという理由で、家康に引退させられてしまいます。

三成という敵もいなくなった徳川家康の暴走はさらに加速。政治に関わることもできなくなり、家康の暴走も激しくなり、三成はただ見ているだけでは我慢できなくなったのでしょう。
このこともあり、三成は家康に戦いを挑んだのです。

関ケ原の戦いの命運を握ったのは小早川秀秋の裏切りだった?

石田三成は、豊臣家を守るために立ち上がりました。そして、起こったのが関ヶ原の戦いです。

開戦時には、徳川家康率いる東軍が7万4千人、三成率いる西軍が8万2千人と、数では西軍有利で始まりました。戦いが始まってしばらくは互角の戦いが繰り広げられます。

しかし、あることがきっかけで、西軍は大きく崩れていくことになります。
それが、小早川秀秋による裏切りです。

秀秋は、最初西軍についており、1万5千もの兵を率いるいわゆる主力でした。
しかし、その秀秋が突然東軍に寝返り、西軍を攻撃してきたのです。

このとき、秀秋の横に布陣していたのが、大谷吉継でした。
秀秋の大軍が裏切って攻撃してくるだけでも相当の痛手だったのですが、そこにさらに吉継の配下として参戦していた、脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱の4隊までもが秀秋の裏切りに呼応して吉継に襲いかかったのです。この4隊でだいたい4500人ほど。つまり、秀秋の軍と合わせれば、1万9500人もの裏切りがあったわけです。このことが、西軍の敗北を決定的なものにしました。

ちなみに、敗戦後に石田三成は捕縛されてしまうわけなのですが、そんな三成を見に来た小早川秀秋に、「お前が裏切るとは思えなかったのは私が馬鹿だった。しかし、道理を捨てて人を騙して裏切ったことは、武将として恥だ。後世に笑われてしまうべきだ」と言い放ったと言われています。

\ 関ヶ原の戦いについてはこちらの記事でも詳しく紹介しています /

石田三成の死ぬ間際のエピソードを簡単に解説!

石田三成の死ぬ間際には、三成の人柄がわかるような様々なエピソードがありました。
ここでは、三成の死ぬ間際のエピソードを簡単に解説していきます。

石田三成の死ぬ間際に情けをかけた人達がいる?

関ヶ原の戦いに敗北し、捕縛された石田三成。その姿はあまりにもかわいそうなものだったとか。
そんな三成に対して、情けをかけた人達がいます。

・水野勝成
水野勝成は、徳川家康のいとこであり、福山藩初代藩主です。
勝成は、三成が市中引き回しをされている際に、三成に編笠をさしかけたそうです。
実は、勝成は三成の差し金により父親を殺されています。
本来であれば、恨んでいてもおかしくはないはずです。しかし、それでも情けをかけたのは、あんなにも毅然と振る舞っていた三成が、今はこうして引きずり回されている、その落差に、武士として見過ごせないものがあったのかもしれません。

・黒田長政
黒田官兵衛の子である黒田長政は、幼い時に殺されそうになったことがあります。
それは、父・官兵衛が敵の説得に行ったはずが、幽閉され帰ってくることができず、信長に裏切ったと疑われたことがきっかけでした。裏切りに怒った信長は、人質になっていた長政を処分するように命じたのです。このときに竹中半兵衛が長政をこっそりと匿ったというのは、有名な話です。

しかし、いくらその当時の技術力が低いからと言っても、別の少年の首を持ってこられて、「これが長政の首です」と言われても、疑われてしまいますよね。「顔が全然違うじゃないか」などと言われてしまったらおしまいです。
ここで長政の死を隠蔽する半兵衛を手助けしたのが三成です。

長政の首を確認する役目は石田三成でした。

そして、三成は届けられた首を見て、それが別人のものだとわかっていつつも、秀吉に取り次いだそうです。
何故そのようなことをしたかといえば、三成も半兵衛同様、官兵衛が裏切るはずがないと信じていたからです。主君の命に逆らうのは、最悪自分の立場を悪くしてしまいます。

しかし、仲間を信じ、そのために2人は長政を匿ったのです。こうして、長政はなんとか生き延びることができました。

以上のことから、長政は三成に恩があったわけです。
途中対立してしまった2人でしたが、三成が捕縛されているところに、長政がやってきます。

長政は少し手前で下馬し、ゆっくりと三成に歩み寄ると、

「勝敗は兵家の常とはいえ、五奉行筆頭の貴殿が、このような境遇になろうとは……。さぞやご無念でござろう」

と語りかけ、自らが羽織っていた陣羽織をそっと三成に着せました。

それまでは顔をあげて堂々としていた三成でしたが、このときばかりは思わず涙を流したと言われています。

徳川家康に咎められるかもしれないのに、自分に情けを見せた長政の情に、感慨深いものがあったのかもしれませんね。

石田三成は最後まで自分の信念を貫いた?

石田三成は非常に忠義に厚い人物でした。その証拠として、こんなエピソードがあります。

三成が捕縛された後、徳川家康と対面する時がありました。

このとき、三成の他には、ともに捕まっていた安国寺恵瓊(あんこくじえけい)と小西行長もいました。
3人は引き回しにあった後だったので、みすぼらしい格好をしていました。

それをさすがに可哀想と思った家康は、3人に小袖を与えたのです。

このとき、安国寺恵瓊と小西行長はその小袖をもらいましたが、三成だけは違いました。

三成はその小袖を見るなり、「贈り主は誰か」と警護の人に尋ねます。

それに対して警護の人が「江戸の上様からである」というと、

三成は「上様とは大坂の秀頼公をおいて他にはいない。いつから家康が上様となったのか」

と言って、受け取りを拒否したのです。

敵の情けは受けず、自分の忠誠を誓った人を裏切るようなことはしない、そんな三成の確かな信念がよく現れているエピソードですね。

石田三成の墓はどこにある?

処刑された石田三成の首は、三条河原にて晒された後、かねてから親交のあった臨済宗の僧侶・春屋宗園(しゅんおくそうえん)と沢庵宗彭(たくあんそうほう)に引き取られたのです。

そして、胴体とともに、京都の大徳寺三玄院に葬られました。

しかし、江戸時代にはその存在は知られていませんでした。

なぜなら、家康が三成の墓を許さず、土中に埋もれさせてしまっていたからです。

これが発見されたのは、1912年(明治45年)の改葬が行われたときでした。

この際に、墓石の下から骨が見つかったのです。その見つかった骨は、小柄で胴体と首が繋がれていました。これは、当時の斬首された人を埋葬する方法でした。

三玄院は非公開であるため、現在三成の墓を拝観することはできません。

しかし、門前にある「石田三成公御墓地」という石碑だけは見ることができます。

大徳寺
住所:京都府京都市北区紫野大徳寺町53
営業時間:10時〜16時30分

まとめ:石田三成は関ヶ原の戦いで敗北し処刑されたが、己の信念を最後まで貫いた

石田三成は、負けるとわかっていても秀吉への忠義のために家康に戦いを挑み、そして敗北して処刑されてしまいました。しかし、死ぬ間際まで自分の信念を決して曲げませんでした。

今回の内容をまとめると、

  • 石田三成は秀吉の死後、暴走する徳川家康を止めるために戦うことを決心した
  • 関ヶ原の戦いでは、仲間の裏切りにあい敗北してしまった
  • 石田三成は、捕縛され斬首され、その首は晒された
  • 石田三成は死ぬ間際まで、自分の信念や忠義を曲げることはなかった

負ける戦だとわかっていても、友情をとり一緒に戦うことを選んだ大谷吉継。

このことから考えても、三成が命をかけてもいいと思えるほどの人物であったことが伺えます。そんな絆を信じて戦っていた彼らが、仲間の裏切りによって命を落としていったことを考えると、切なくてたまらなくなりますね。

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