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奈良時代の年表を簡単に解説!どんな時代?何が起きた?活躍した人は?

奈良時代(710年(和銅3年)〜794年(延暦13年))は、元明天皇によって平城京に遷都されてから、桓武天皇によって平安京に遷都されるまでの84年間のことを指します。

「平城時代」とも呼ばれたこの時代では、天皇中心の中央集権国家が目指されていました。

そんな奈良時代には、具体的にはどのようなことがあったのでしょうか?

この記事では、奈良時代の年表を見ながら、どんな時代であったのかを簡単に解説していきます。

奈良時代はどんな時代だった?

奈良時代は、平城京に遷都されるところから始まり、天皇中心の中央集権国家を目指していました。

そんな奈良時代は実際、どのような時代だったのでしょうか?

ここでは、奈良時代の年表を見ながら、どんな時代だったのかを簡単に解説していきます。

奈良時代は何年から何年まで?

奈良時代は、そもそも何年から何年までなのでしょうか?

広義では、710年(和銅3年)に元明天皇が平城京に遷都してから、794年(延暦13年)に桓武天皇によって平安京に都が遷されるまでの84年間だと言われています。

しかし、狭義では、終わりの時期が、784年(延暦3年)に桓武天皇によって長岡京に都が遷されるまでの74年間を指すという場合もあります。

いずれにしても、奈良時代は、都が平城京にあった時代ということですね。

奈良時代の年表

  • 710年(和銅3年)
    元明天皇が平城京に遷都する
  • 712年(和銅5年)
    『古事記』が完成する
  • 720年(養老4年)
    『日本書紀』が完成する
  • 723年(養老7年)
    三世一身法が制定される
  • 724年(神亀元年)
    聖武天皇が即位する
  • 729年(神亀6年)
    長屋王の変が起こる
  • 740年(天平12年)
    藤原広嗣の乱が勃発する
  • 741年(天平13年)
    国分寺建立の詔が発布される
  • 743年(天平15年)
    大仏造立の詔が発布される
  • 757年(天平勝宝9年)
    養老律令が施行される
  • 765年(天平神護元年)
    恵美押勝の乱が勃発する
    道鏡が太政大臣禅師となる
  • 784年(延暦3年)
    桓武天皇が長岡京に遷都する
  • 794年(延暦13年)
    桓武天皇が平安京に遷都する

奈良時代は仏教が栄えた時代だった

奈良時代、特に聖武天皇が在位していた期間は、天然痘の流行や自然災害があり、国内が非常に不安定でした。

そこで、聖武天皇は仏教で日本を安定させる鎮護国家を願って、「国分寺建立の詔」と「大仏造立の詔」を発布します。

これにより、日本各地で国分寺と金剛の大仏建立が始まるのです。

その結果、日本全土で仏教が非常に栄えていくこととなりました。

ちなみに、大仏造立の詔によって造られた大仏が、現在も奈良県の東大寺にある盧舎那仏の原型となっています。

奈良時代に起きた主な出来事は?

奈良時代は仏教が栄えた時代でした。

それでは、具体的には、奈良時代ではどのような出来事があったのでしょうか?

ここでは、奈良時代に起きた主な出来事を簡単に解説していきます。

唐の影響を受けた平城京が誕生した

701年に大宝律令が完成した関係で、急速な中央集権化が進められていき、その結果「藤原京」が手狭になり、710年に元明天皇によって平城京への遷都が行われました。

平城京の町並みは、唐の首都「長安」を模倣し、その規模は東西約4.3km、南北約4.8kmでした。そして、大内裏を中心として、碁盤の目のように貴族の私邸や寺社、庶民の住宅が混在する構造となっていました。

この平城京で、天皇中心の専制国家・中央集権を目指していた、それが奈良時代です。

激しい権力争いの中で藤原氏が権力を強めた

奈良時代の権力は、藤原氏とその他が交互に担っていくこととなります。

簡単に流れを見ていくと、

藤原不比等→長屋王→藤原四子→橘諸兄→藤原仲麻呂(恵美押勝)→道鏡→藤原百川

以上のような流れで、激しい権力争いが繰り広げられていました。

中でも、注目したいのが藤原不比等です。

奈良時代初期の元明・元正天皇は女帝で、自然と太政大臣の発言力が強まっていきました。そしてこの際、実質的に最上位の地位にあったのが、右大臣・藤原不比等でした。

奈良時代の基本路線は、この藤原不比等によって作られたと言っても過言ではありません。

さらに、藤原不比等は自身の娘を文武天皇と結婚させるなどして、天皇との結び付きを深めていきました。

このことが、後に絶大な権力を握ることとなる藤原家の基盤となっていくのです。

荘園が生まれ始めた

奈良時代は、主に米などの穀物が貨幣の役割を担っていました。朝廷は租によって納められた収穫物を財源とし、庶民の生活も米の収穫量によって左右されていたのです。

そして、農耕地は班田収授法に則って、国が人民に「口分田」を支給する方法が取られていました。

しかし、平城京の造営などによる労役や、人口増加による割り当てられる口分田の面積の減少などにより、庶民の生活は次第に苦しくなっていきます。

生活に苦しくなった庶民は、生活を維持できず、土地を捨てて逃げるという人まで出てきてしまい、当然朝廷の収入も激減してしまいました。

そこで、奈良時代では、様々な土地政策が実施されます。

  • 百万町歩開墾計画
  • 三世一身法
  • 墾田永年私財法

これらの政策を通して、農耕地は増加し、開墾した者は、永久に私有地として所有できるようになりました。

すると、ここで動きを見せたのが、豪族や有力寺社などの富裕層でした。

流民などを集めて、一気に開墾活性化し、私有地争奪戦を開始したのです。

このようにして開墾された土地のことを「初期荘園」と言います。

初期荘園は、いずれも私有地のため、朝廷の財政難はあまり解消されることなく、それどころか富は一部の有力者や寺社に集まり、政治に影響を及ぼすようになっていってしまうのです。

平城京を中心に天平文化が花開いた

奈良時代は、遣唐使などの影響によって、国際色豊かな仏教文化が日本へともたらされました。唐を中心に、インドやペルシアなど、世界各地の影響を包含して生まれたのが天平文化です。

聖武天皇が在位していた天平年間に最盛期を迎え、平城京を中心に、壮大で華麗な建造物や仏像などが次々と造られました。

代表的なものとしては、東大寺大仏殿の盧舎那仏像や、唐招提寺の鑑真和上坐像などが挙げられます。

また、この頃には、山上憶良や大伴家持といった著名な歌人も次々と現れ、奈良時代末期には日本最古の和歌集である『万葉集』が成立しました。

奈良時代に活躍した人は?

奈良時代には、様々な権力者がいましたが、その他にも活躍していた人々がいます。

ここでは、奈良時代に活躍した人を簡単に解説していきます。

聖武天皇

聖武天皇(701年〜756年)は、奈良時代を代表する天皇です。

聖武天皇の頃になって、ようやく律令に基づいた天皇中心の政治が定着しました。

在位中は、日本各地で自然災害や天然痘が流行するなど、非常に国内が不安定だったため、聖武天皇は仏教を手厚く保護することにします。

この時期は、ちょうど遣唐使で留学した僧が多く帰国して、仏教が日本全国で定着した時期でもあったのでちょうどよかったのでしょう。

鎮護国家を作るために、「国分寺建立の詔」と「大仏造立の詔」を発布し、日本各地に国分寺や国分尼寺を建てさせました。

そして、その中心として平城京に東大寺を建立し、そこに現在でも見られる「奈良の大仏」を造らせたのです。

奈良時代に仏教が栄えたのはこの天皇のおかげといっても過言ではないでしょう。

行基

行基(668年〜749年)は、河内国の渡来人の家系に生まれた僧です。

行基の功績といったら、何と言ってもこの時代に、一般の民衆に仏教の布教を行ったことでしょう。

この当時、仏教は国を守護安定させるものとの考えがあり、ほとんどの僧は寺で仏教を学問として研究するのが主流でした。そして、一般の民衆へ布教することは禁じられていました。

そんな中、行基は諸国を回って、用水の池や橋を作りながら、身分を問わずに教えを説いていったのです。

はじめのうちは、危険な人物と思われ、行基は朝廷から取り締まられてしまいます。

しかし、多くの民衆や地方豪族の尊敬を集めていた結果、朝廷も危険な行動をしているわけではないと判断し、後に取り締まりを緩めてくれています。

また、聖武天皇が「大仏造立の詔」を出した際、多くの人々の支持と労働力が必要だったのですが、それがなかなか集まらずに大仏造立はなかなか進みませんでした。

そこで白羽の矢が立ったのが行基です。朝廷は、多くの人々に慕われていた行基を、日本の仏教の最高峰である大僧正に任じて、大仏造立の責任者としました。

行基の働きもあり、大仏造立は順調に進むようになりましたが、行基自身は大仏が完成する前に亡くなってしまいました。

鑑真

鑑真(688年〜763年)は、唐の長安で、僧となる者に戒律を与える教えの有名な僧侶でした。

当時、日本の僧が唐に留学して正式な修行を受けるためには、戒律を与える資格を持った僧から、戒律を与えられていなければなりませんでしたが、日本にはその資格を持った僧がおらず、遣唐使の留学僧は留学の際に困っていたのです。

そして、そんな中声をかけられたのが鑑真です。

日本に資格を持った僧を送って欲しいと頼まれた鑑真は、弟子に声をかけるのですが誰も名乗り出るものはいませんでした。

そこで、鑑真は自ら日本に渡ることを決意しましたが、最初はなかなか皇帝の許可が降りませんでした。やっとの思いで許可を得て渡航するも5回も失敗し、6回目の渡航でようやく日本に着きました。

しかし、日本に着いた頃には、鑑真は原因不明で失明してしまっていたのです。

自身の生涯をかけてまで日本にやってきてくれた鑑真は、聖武天皇に歓迎され、奈良に唐招提寺を開きます。

そして、正しい仏教を伝えて、多くの日本人の僧を育てたのです。

まとめ:奈良時代は政府の保護のもとで仏教が栄えた時代だった

奈良時代では、聖武天皇のもと、全国に国分寺が建てられるなど、仏教が非常に栄えた時代でした。また、激しい権力争いが起きている中、着実に藤原氏が力をつけていった時代でもありました。

今回の内容をまとめると、

  • 奈良時代は、710年(和銅3年)に平城京に遷都してから、794年(延暦13年)に平安京に都が遷されるまでの84年間
  • 奈良時代は、聖武天皇を中心に、仏教によって国を安定させようとしていた
  • 奈良時代には、激しい権力争いがあったが、着実に藤原氏が力をつけていった
  • 奈良時代は、様々な土地政策を行った結果、荘園が生まれ始めた
  • 奈良時代は、唐を中心にインドやペルシアなど、世界各地の影響を包含して生まれた天平文化が栄えた

現在を生きる私達にとっても、東大寺の奈良の大仏と言ったら馴染み深いものではないでしょうか?それが大昔の人々が国の平和を願って造られたものだと考えると、また違った見方ができるかもしれませんね。

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