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【織田信長の城まとめ】安土城から信長にゆかりのある城を徹底解説!

【織田信長の城まとめ】安土城から信長にゆかりのある城を徹底解説!

日本を代表する建築物の一つ「城」。戦国時代を代表する織田信長も、幼少の頃より一城の主で、そこから勢力を拡大していきました。今回はそんな織田信長にゆかりのある城について、生まれたお城、居城したお城、信長が築いたお城をまとめてみました。

信長ゆかりの城一覧

信長は、生まれてから本能寺で自害するまで7つの城にゆかりがあります。ここではそれぞれ信長にゆかりのある城を時系列でみていきましょう。

生誕の地「勝幡城しょばたじょう

信長の出生地 「勝幡城址」の碑

1534年、信長はこの勝幡城しょばたじょうで生まれたと言われています。※那古野城で生まれたという説もありますが、近年では勝幡城が有力なようです。
この勝幡城は、清洲三奉行の一家「織田弾正忠家おだだんじょうのじょうけ」当主だった織田信定が築城したと言われています。この地域はもともと塩畑しおばたと呼ばれていましたが、縁起が悪いという理由で、信定?信秀?が勝幡しょばたに変えたと言われています。
信長の父信秀のぶひでは、この勝幡城を拠点として商業圏だった津島で財力を強めながら勢力を拡大していったと言われています。
勝幡城があったとされている場所は、現在「織田弾正忠朝臣信定古城跡」と書かれている碑と「文化財史跡勝幡城址」と書かれている碑が残されており、周辺には信長生誕の地とされた観光スポットがいくつかあります。

青年期を大うつけとして過ごした「那古野城なごやじょう

那古野城は、1532年信長の父 信秀が今川氏豊いまがわうじとよから城を奪い、まだ幼かった信長に譲ったと言われています。信長はその後、この那古野城で大うつけと言われた青年期を過ごしています。
信秀は、引越し好きというか勢力を拡大しながら居城を転々としていて那古野城を信長に譲った後、自らは古渡城ふるわたりじょうを築城し勢力拡大に励んでいたといいます。
ちなみに、信長は20歳を過ぎるまで那古野城に住んでいたと言われており、信長が最も長く居城したお城です。
現在は、那古野城があったことを示す碑は残っていますが、その構造を示すものは残されていません。

元服を行った「古渡城ふるわたりじょう

古渡城址(Wikipediaより)

信長の父信秀が築城したお城です。信秀はこの古渡城を拠点として経済拠点「熱田湊」方面を攻めていたと言われています。1548年信長はこの古渡城で元服げんぷく(成人の儀式)しています。
この古渡城は、信長が元服した後に織田家の争いの場となり城下町は焼けてしまいました。その影響もあり信秀が他に居城を移したためその後は廃城となりました。現在はお寺(東本願寺別院ひがしほんがんじべついん)が建っています。

桶狭間の戦いへ出陣した「清洲城きよすじょう

復元された清洲城

信長の父信秀が、清洲奉行として居城していた城です。信秀の死後、信長はこの清洲城に大改修を加えて居城しています。あの今川義元いまがわよしもととの桶狭間の戦いおけはざまのたたかいへ出陣したのもこの清洲城です。
信長の没後、信長の跡取りを決めたたといわれている清洲会議もこの清洲城で行われています。この清洲会議のあとは、信長の次男「信雄のぶかつ」が相続しています。
1600年 関ヶ原の合戦では、東軍の後方拠点としても活用されました。
現在残っている天守は、1989年 清須町の町制100周年を記念して建てられた鉄筋コンクリート造の模擬天守で、中は歴史資料館となっています。

信長が初めて築城した「小牧山城こまきやまじょう

尾張国おわりのくに(現在の愛知県)をほぼ統一した信長は、斎藤龍興さいとうたつおきが支配する美濃みのう(現在の岐阜県)を攻略するために1563年に小牧山城を築城し、本拠地を清洲城から移しました。つまり、この小牧山城は初めて信長が築城した城です。
標高約86mの小牧山全体を城にしたもので、山頂に建てられた本丸は石垣で固められ、三層の天守がつくられました。また、城下町も整えられ、家臣たちの屋敷が山裾には並んでいました。天守からは龍興がいる稲葉山城いなばやまじょうを眺めることができたようで、信長は天守から稲葉山城を眺めのモチベーションをより高めていたのではないしょうか。

【小牧山城をめぐる信長のエピソード】

信長は小牧山に城を築こうと思っていましたが、家臣たちが清洲城から移ることを嫌がることを予想していました。そこで、信長は「二宮山(にのみやさん)に城を築く」と発表したといいます。(小牧山より遠い場所にあります)すると予想通り家臣たちは猛反対。そこで信長は「では、小牧山に変更する」と告げると、家臣たちは「二宮山よりは近くなった」と反対しなくなったそうです。

先により遠い場所を告げて、近く感じさせることで反対意見をなくすなんて。信長の知的な一面が見えるエピソードですね。

この小牧山城は美濃攻略の4年間しか使用されず、その後は一度廃城になります。信長の没後、1584年、豊臣(羽柴)秀吉徳川家康が戦った「小牧・長久手の戦いこまき・ながくてのたたかい」では、家康が本陣を置いて秀吉と戦いました。
ちなみに現在の小牧城の天守は1967年に当時の様子を想像して再現されたようです。

天下布武へ勢力拡大を始めた「岐阜城ぎふじょう

岐阜城

1567年斎藤龍興との戦いに勝利した信長は「稲葉山城いなばやまじょう」と美濃を手に入れました。当時の稲葉山城の城下町は井口いのくちと呼ばれていましたが、信長が居城するとともに「岐阜」と改名し稲葉山城も「岐阜城」と改めました。

【岐阜の由来】

古代中国の文王が岐山きざんという山を中心として800年近く天下泰平を収めたことから、岐山の「」をとり、孔子の生誕地「曲阜きょくふから「」をとり岐阜と名付けられたといわれています。信長はこの岐阜城を本拠地とした頃から「天下布武」の印を使い始めており、天下統一の拠点としてこの名前には相当な想いが詰められていることが見て取れます。

信長は、山頂に本丸(居館)をつくりその本丸から城下町を眺めるのが好きだったと言われています。この岐阜の城下町では、楽市楽座を行い商売を活性化させたり、家臣や兵士たちを住まわせて(農兵分離)いつでも戦さができる体制を整えたりしています。信長の天下統一への道がいっそう加速したのがこの岐阜城ではないでしょうか。

ちなみに、信長は山頂に居館をつくっていますが、毎日山を登り下りするのは大変だったので山の麓にも御殿をつくりそこで生活をすることが多かったようです。
信長が築いた岐阜城は、1601年に徳川家康によって廃城され、1956年に再建築されたものが現在残っています。

信長の全てを結集した「安土城あづちじょう」

安土城イメージ(Wikipediaより)

信長の集大成とも言える安土城、安土桃山時代と時代の名前にもなっているほど時代を象徴するお城です。1576年から築城開始して約3年かけて1579年に完成しました。近江(現在の滋賀県)の琵琶湖の東岸に位置し、信長の天下統一に向けての本拠地となりました。
標高約199mの安土山全体を城としており、城全体は石垣で固められており、当時としては非常に近代的なお城だったと言われています。
また日本初の本格的な天守が築かれた城で、地上6階(地下1階)、金箔で飾られた屋根瓦や、赤や青の柱や壁があり非常に豪華な城でした。中でも信長が住んだと言われる天守は、内外ともに金箔で装飾されており信長の権力を象徴するかのような造りだったといわれています。

【安土城のエピソード】

1581年のお盆の日、信長は安土城の天守に色とりどりの提灯をつるしライトアップしました。また家臣たちにも松明(たいまつ)を持たせ、城へ続く道をライトアップさせ、光り輝く安土城を演出したと言われています。

このライトアップを見た民衆は大変驚き、信長の権力の偉大さを感じたことでしょう。しかしこの安土城は、1582年本能寺の変の少し後に原因不明の出火で焼け落ちてしまっています。出火の原因は明らかになってませんが、織田家の誰かが火を放ったなど様々な噂があります。
現在もその天守を含む具体的な姿にについての調査は行われおり、当時の資料などから様々な復元案も出ているそうです。

信長の城を徹底解説!信長がおこした城の革命

信長は、「楽市楽座」「農兵分離」「戦闘スタイルの革新」「キリスト教の布教の認可」など様々な改革を行っていますが、実はお城や城下町にも革命を起こしています。ここでは、信長が行った城の革命をみていきましょう。

石垣で城を固める!現代の城の基礎は信長から始まった

現代残っているお城は石垣で固められているイメージが強いですが、実はこの石垣でお城を囲うスタイルは信長の築城した安土城から始まったと言われています。安土城は、観音寺城を見本とし、総石垣で普請ふしんされた城郭で石垣の上に天守がある日本で初めてのスタイルのお城です。この時に培われた築城技術が全国に普及し、日本全国に築城された近世城郭の見本となりました。

信長の城下町はここが違う

楽市楽座

信長は「楽市楽座」で城下町での商売を自由化しました。市場で税金を取らず、同じ商売をする人の組合を禁止して、誰でも自由に商売をできるようにしたのです。これにより各地から商売人が集まり経済は活性化、税金がかからない分、一般庶民でも容易に商品を購入できるようにして城下町を反映させました。

家臣たちを城下町に住ませた

信長の城下町には、その地方それぞれの家臣たちを住まわせました。そして農兵分離で専業兵士を住まわせていたので、いつ戦さが起こっても迅速に出陣できたのです。

信長の城下町は、楽市楽座で経済を活性化して結果として信長の財力を強め、家臣や専業兵士を済ませることでいつでも出陣できる体制を整える。まさに信長の合理主義を象徴するような城下町です。信長の強さの秘密は城下町にもあったんですね。

信長の城はなぜ復元されないのか?

信長にゆかりのあるお城で現存しているのはありません。
清洲城は想像で作られた鉄筋コンクリート造ですし、岐阜城も信長が住んでいたものとは違うようですし、安土城や他のお城は石垣などがわずかに残っているだけです。

なぜ復元されないのでしょうか?
それは復元には条件があり、その条件を満たしていないと簡単には復元できないようになっているのです。
そして、その条件には確実な資料に基づいて当時の工法で復元することが含まれています。当時の技法というと、木造建築、そして当時の資料が現存しているかどうかがポイントなんです。
当時と同じ木造建築はまだしも、当時の確実な資料が残っているかなんてなかなかハードル高いですよね。まして安土城に関しては地上6階建です。建築基準法では木造の高層建築は建てられないことになっていますので、安土城を復元するのは限りなく難しいですね。
どこかで当時の資料が発見され、3DプリンターなどでVRなどで見れるかどうかが限界のようですね。歴史好きとしては見てみたいところですね。

まとめ

今回は信長にゆかりのある城を時系列でまとめてみました。

  • 信長の居城した城、築城した城は跡地となっていたり、想像で復元したもので当時の様子は想像するしかない。
  • 信長は城にも、城下町にも革新的なシステムを導入していた

信長はただ天下統一を目指していただけでなく、城下町の仕組みからも見えるように、天下を統一して平和な世の中を夢見ていたのかもしれませんね。

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