織田信長の家臣まとめ。家臣一覧からみる織田信長の強さの秘密!
戦国時代、尾張国の大名から勢力を拡大し天下統一を目の前に本能寺の変で没した織田信長。戦国時代を代表する、人気もある大名ですね。織田信長には、明智光秀、豊臣秀吉などをはじめとした非常に優秀な家臣たちがいたのです。今回はその織田信長の家臣には、一体どんな武将がいたのか?また、家臣たちの配置から見る信長の戦略についてまとめてみました。
目次
信長に仕えた家臣たち
信長の家臣には、もちろん父「信秀」の代から仕えていた家臣もいれば、豊臣秀吉のように農民から成り上がった家臣もいます。まずは、有名どころの家臣たちをみていきましょう。
信長の父「信秀」の代から織田家に仕えていた家臣たち
佐久間信盛 -1528?〜1582年-
佐久間信盛は、信長の父「信秀」の代から織田家に仕えていた家臣の一人。幼い頃の信長に重臣として仕え、信秀の没後に起こった織田家の家督争い「稲生の戦い」の際も一貫して信長につき、もそのまま信長に仕え続け主だった合戦に参加している。
石山本願寺の戦いが長期化したことなどを理由に1580年に信長から19ヶ条の折檻状を突きつけられ追放された。その後は、高野山にて平穏に余生を送ったと言われています。
・自分の力で何ともならないのなら、なぜ指示を仰がない?それは怠慢だ。
・大まかに言えば、欲深く、気難しく、良い人を抱えようともしない、その上物事をいい加減に処理している。だからこのようなことになったのだ。
・信長の代になり30年奉公してきた間に、信盛の活躍は比類無しと言われるような働きは一度もない。
能力主義を徹底していた 信長らしい と言えばそうですが、非常に厳しいことが書いてありますね。
柴田勝家 -1522?〜1583年-
柴田勝家も、信長の父「信秀」の代に若い頃から仕えていた家臣の一人です。信秀の没後には、信長の弟「信行のぶゆき」の側につき稲生の戦いでは信長の敵として戦い破れています。その後、信長に放免してもらい、以後信長に仕えています。
信長に仕え始めた頃はあまり活躍の場はなかったといいますが、武力に非常に長けていたため、最終的には信長の重臣となり活躍しています。
信長の没後、「賤ヶ岳の戦い」で秀吉と戦い、妻のお市(信長の妹)と共に自害しています。
キリスト教宣教師のルイス・フロイスによると、
- 信長の重立ちたる将軍二人中の一人
- はなはだ勇猛な武将であり、一生を軍事に費やした人
- 信長の時代の日本で最も勇猛な武将であり、果敢な人
と、非常に強く勇敢な武将だったと書かれています。
また、賤ヶ岳の戦いで撤退した後、離れていった家臣たちを責めることもなく恨み言も言わず、最後まで生き延びることを願ったと言われており、強く勇敢で、そして人情味溢れる人物だったことが読み取れますね。
丹羽長秀 -1535〜1585年-
丹羽長秀は、もともと斯波氏しばしの家臣だったが、1560年から信長に仕えている。稲生の戦いでも信長につき、その後も今川義元との「桶狭間の戦い」でも従軍しています。
当時、越前や若狭を(現在の福井県)を治めていた朝倉義景討伐にて活躍し、1573年に若狭国を与えられ信長の家臣としては初めての国持大名となった。
また、政治面でも安土城の総奉行を務めるなど非常に優秀な人物だった。
本能寺の変の後、秀吉と共に山崎の戦いで明智光秀を討った。
そして、信長の跡取りを巡る「清洲会議」では、池田恒興と共に秀吉の推す三法師様を支持し、その後の賤ヶ岳の戦いでも秀吉の側につき戦っています。
この時、長秀は織田家の再興を目的として秀吉側につきましたが、秀吉には全くその気が無く、失望したといわれています。その後、秀吉より大きな所領を与えられやく123万石の大名となった。
長秀の最後は、寄生虫による病気のため、自害したとも言われています。信長の家臣の中でも、武力政治力ともに非常に長けており、信長にとっては無くてはならない存在だったようです。三谷幸喜監督の映画「清洲会議」でも小日向文世さんが演じ、一同を仕切る姿が描写されていますね。
村井貞勝 -生誕不明〜1582年-
村井貞勝はあまり戦さに出ていないため、意外と知られていませんが、信長の側近として活躍した家臣です。1556年頃にはすでに信長に仕えており、稲生の戦いの後、土田御前の依頼を受け、柴田勝家らとの和平交渉を行ったと言われています。
貞勝は、行政手腕に非常に長けており、信長が将軍 足利義昭と共に上洛した際にも共に京都へ行き、その後も京都に残り諸政務にあたったといわれています。
また、信長が義昭を追放し京都を支配下においた後、1573年京都所司代に任命され、京都に関する行政の全てを任されていました。
本能寺の変の際、信長の長男「信忠」と共に二条城に籠り明智軍と戦ったが、信忠と共に討死しました。
キリスト教宣教師のルイス・フロイスは、貞勝を「都の総督」と呼び「尊敬できる異教徒の老人であり、甚だ権勢あり」と評しています。
当時の政治の中心京都をまかせていたなんて、信長にとって非常に信頼の置ける家臣だったことが見て取れますね。
ちなみに、秀吉が名乗っていた「羽柴」という苗字は、丹羽長秀の「羽」、柴田勝家の「柴」をとったものとも言われています。秀吉は、「丹羽長秀の有能さと柴田勝家の勇猛さを兼ね備えたい」とでも思っていたのでしょうか?このような逸話が生まれるなんて、それほど信長の家臣は有能だったということでしょう。
織田軍の配置からみる信長の戦略
信長は天下統一に向けて、積極的に領土拡大を行っていました。また、近隣諸国から攻めいられないように自国の領土を守る必要もありました。ここでは、信長がどのように領土を守り、どのように攻めていたのかを、軍の配置から見ていきましょう。
明智光秀・細川藤孝による近畿地方の治安維持
1579年に明智光秀が丹波と丹後を平定したのち、この地方の平定と治安維持の軍が結成されました。明智光秀を司令官として細川藤孝・近江衆・山代衆・丹波衆・丹後衆・大和衆と、5カ国をまたいで構成されており、近畿地方の治安維持に務めたと言われています。
明智光秀 -生誕不詳(諸説あり)〜1582年
明智光秀は、将軍足利義昭を信長に紹介したことがきっかけで、信長に仕えた。信長から絶大な信用を得ていたが、本能寺の変で謀反を起こし信長を討つ。その後、山崎の戦いにて秀吉に敗れた。
キリスト教宣教師のルイス・フロイスによると、
- その才知、深慮、狡猾さにより、信長の寵愛をうけた
- 己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。
- 友人には、「人を欺くために72の方法を体得し学習した」と吹聴していた
- 殿内にあっては彼(光秀)はよそ者であり、外来の身であったのでほとんどの者から快く思われていなかった
と、非常に頭が良く、信長からも絶大な信頼を受けていたということがみてとれます。信長が本能寺の変で、光秀で謀反をしったとき「是非に及ばず」と言ったのは、「光秀に謀反を起こされたならしょうがない」といった意味が込められていたんですかね。
細川藤孝(幽斎) -1534〜1582年
細川藤孝(幽斎)は、もともと13代将軍 足利義輝に仕えており、義昭の上洛をきっかけに信長に仕えた。ちなみに本能寺の変の際、明智光秀に誘われていたが断ったといわれています。
羽柴(豊臣)秀吉による中国地方への侵攻(vs毛利軍)
1577年に羽柴(豊臣)秀吉軍は播磨(現在の兵庫県南西部)に進出、荒木村重あらきむらしげ等の謀反などありながらも、1580年に無事に平定しました。この頃に秀吉による対毛利軍を目的として
「秀吉・但馬衆・因幡衆・尾張衆・近江衆・播磨衆(黒田官兵衛など)により編成されたと言われています。この時には、すでに因幡・但馬も支配していたため、当時中国地方を治めていた毛利氏と激しい合戦を繰り広げていました。
羽柴(豊臣)秀吉 -1537〜1598年
羽柴(豊臣)秀吉は、百姓の身分から信長に仕え、どんどんと頭角を表し最終的には天下統一を成し遂げた人物です。信長の家臣の中で最も出世した人物です。
本能寺の変の時はちょうど中国地方の毛利軍との合戦の最中でしたが、信長の悲報を聞きわずか10日間で約230kmの距離を約20,000の兵士を連れて京都へ向かった「中国大返し」は、日本史上屈指の大強行軍です。そして、京都へ戻った秀吉は、山崎の戦いで信長の仇である光秀軍を撃破し、信長の跡取りを決めるための「清洲会議」で三法師様を担ぎ出し、織田家の覇権を握り、関白となり天下を統一を成し遂げました。
黒田官兵衛 -1546〜1604年
黒田官兵衛は、秀吉がその才能を最も評価し「官兵衛がその気になれば、自分が生きている間に天下をとるだろう」と言わしめた軍師の一人です。官兵衛は、信長の時代から秀吉に仕え、本能寺の変の際、秀吉の「中国大返し」の立役者とも言われています。
織田信孝による四国地方への侵攻(vs長宗我部軍)
本能寺の変が起こる少し前、織田軍による四国侵攻(vs長宗我部)が決定れました。その司令官として抜擢されたのが信長の三男 織田(神戸)信孝です。
本能寺の変が起こった時、信孝は丹羽長秀と共にどのように四国を攻めるか準備を進めていたと言われています。この四国侵攻は、信長が本能寺の変で討たれたため、頓挫しています。
織田(神戸)信孝 -1558〜1583年
織田(神戸)信孝は、信長の三男として生まれましたが、伊勢国の北部を治めていた神戸氏が信長に降伏したことから、神戸氏の養子となりのちに神戸家の家督を継いでいます。信長の没後、信長の跡取りを決める「清洲会議」にて三法師様が跡取りと決まると、その後見人となり、岐阜城と美濃国を与えられましたが、その決定を不服として秀吉と争い最後は自害しました。
柴田勝家・前田利家・佐々木成政による北陸方面への侵攻(vs上杉軍)
1576年、柴田勝家が加賀(現在の石川県)平定を任されたことから、当時北陸方面を支配していた上杉軍への対策として編成されました。
柴田勝家を中心として、前田利家・佐久間盛政・佐々木成政らが勢力を拡大し、近隣国を取り込み肥大化していきました。本能寺の変が起こった時、勝家は上杉景勝と戦っている最中でした。
前田利家 -1538?〜1599年
前田利家は、若い頃から信長に仕え、加賀百万石の祖といわれています。
信長が、弟と家督を争った「稲生の戦い」や「桶狭間の戦い」「森部の戦い」などで功績をあげ、信長からも非常に寵愛されていたと言われています。柴田勝家に従軍し、各地を転戦して功績をあげます。
信長の没後、勝家と共に秀吉と争いますが、のちに秀吉に臣従し、豊臣五大老の一人となりました。また、経済や文化にも非常に精通しており、現在の金沢が伝統文化が残る街となっている礎を築いたともいわれています。
滝川一益による関東方面の鎮定(vs北条氏との交渉)
1582年甲州征伐(武田征伐)にて武田一族を滅ぼし、信長より上野国(現在の群馬県あたり)や信濃の領土をもらい、関東御取次役を命じられた。関東の侵攻というよりも、主に北条氏や近隣諸国との外交関係を担っていたと言われています。
滝川一益 -1525〜1586年
滝川一益は、柴田勝家・丹羽長秀・明智光秀と並び、織田四天王と呼ばれていました。戦さに強く、その戦闘態勢は非常に巧みで「進むも退くも滝川」と評されていた。鉄砲の扱いが非常にうまく、1575年の長篠の戦いでは鉄砲隊の指揮官としてその才能を発揮し、信長の勝利を後押しした。
本能寺の変で信長が討たれことを知り、急いで駆けつけるも「山崎の戦い」「清洲会議」にも間に合わず、さらには信長の葬儀にも秀吉の指令で出席できませんでした。
その晩年は、出家し茶人として過ごしたともいわれています。
信長と家臣たちとの関係性
信長には、明智光秀や豊臣秀吉の他にもたくさんの優秀な家臣たちがおり、それぞれ役割を持って各地の侵攻を行ったり、治安維持に勤めたりと、その範囲は非常に多岐にわたっていました。では、信長は家臣たちとどのような関係性を築いていたのでしょうか?
信長は家臣を信用していなかった?
信長と家臣との関係性を表す逸話を紹介します。
当時、日本でキリスト教の布教活動をしていたイエズス会の宣教師ルイス・フロイスはその著書で、「家臣のいうことは聞かず、自分で判断していた」「家臣たちには絶対服従を求めた」と記載しています。
また、父「信秀」の代から信長に仕えていた佐久間盛信を追放するなど、長年勤めていた家臣といえども、容赦無く切り捨てています。
とは言え、全く信用していなかったのかと言うとそうではないようです。
松永秀久は2度も信長を裏切っていますが、信長はその都度話し合い、秀久を許しています。最終的には自害していますが、自分を裏切ったものを許すなんて信用がなければできないことですよね。
また、本能寺の変で明智光秀の謀反を知った信長が「是非に及ばず」と言ったのは、心から信頼を寄せていた「光秀が裏切ったのならしょうがない」という風にも取れます。
いつ、敵から攻められるかわからない緊迫した時代の中、周りの家臣には本当に信頼の置けるものを配置していたのではないでしょうか?
まとめ
今回は、織田信長の家臣たちと、各方面の織田軍がどのような構成でどのような役割を果たしていたかを見てきました。
こうしてみると、非常に優秀な人材が揃っていたんですね。天下統一が近かったのも納得です。
しかし、信長の没後に秀吉がわずか3年で関白にまでのし上がり、天下と統一したのも、信長の家臣団が優秀だったからこそ、その礎の上に成り立ってると感じます。