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織田信長の性格は?実は優しかった?逸話からみる信長の人物像

織田信長の性格は?実は優しかった?逸話からみる信長の人物像

冷酷で、自らを第六天魔王と呼ぶなど残忍なイメージのある織田信長。
鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」の句にも表されている通り、残忍で冷酷な人だったという印象を持っている人も多いのではないでしょうか?
今回は、現在残されている逸話から信長は一体どんな性格だったのか?をみていきたいと思います。

冷酷なイメージは実は作られたものだった?

神仏も恐れずに比叡山焼き討ち、女子供をも容赦無く手に掛けるなど、冷酷で残虐なイメージがある織田信長。本当に信長は冷酷で残虐だったのでしょうか?
数多く残されている逸話からみていくと、信長は一概にも冷酷だったとはいえないようです。では、なぜそのようなイメージができたのでしょうか?詳しくみていきましょう。

比叡山延暦寺 焼き討ち (Wikipediaより)
  • 敵の首をつまみに酒を飲んだ
    岐阜での宴の際の出来事。挨拶に来ていた近隣大名などが帰った後、身内のものだけで宴を再開。その際に、前年に討ち取った「朝倉義景あさくらよしかげ」「浅井長政あざいながまさ」「浅井久政あざいひさまさ」の首を薄濃はくだみにしたものを持って来させ、それをみながら酒を飲んだと言われています。薄濃とは、金銀の粉などで装飾したもののことをいいます。この逸話が誇張され、“その頭蓋骨を加工して盃にして酒を飲んだ”と言われることもあります。
    実際にそうした盃で酒を飲んでいたとしたら、想像もつかないほど恐ろしい話ですね。。
  • 生きたまま首を切って処刑した
    信長は、「杉谷善住坊すぎたにぜんじゅぼう」という鉄砲の名手に暗殺されかけたことがあります。幸い軽くかすめた程度だったようですが、怒った信長は善住坊を生きたまま首だけ残して土に埋め、その首をのこぎりで切り処刑したと言われています。
  • 宗教を弾圧し、女子供がいたにも関わらず火を放ち焼き討ちにした
    信長は「宗教を弾圧する一環として比叡山を焼き討ちにした」と聞いたことがある人も多いと思います。でも、実際には信長は宗教を弾圧しようとはしていません。現にキリスト教の布教を許可したりしていますから。では、なぜ比叡山は焼き討ちにされたのでしょうか?

    当時、寺社仏閣つまり宗教団体は非常に強い権力を持っていました。関所を設けて税を徴収したりすることで莫大な財を蓄え、他宗は悪だとみなし争いを起こしていました
    そんな宗教団体に対して、信長は「武器や金儲けをするのはやめて、宗教は宗教らしく他を救うことに専念するように」と何度も促していたのです。
    そのことが原因で、石山本願寺と戦ったり、比叡山を焼き討ちにしたのです。女子供をも焼き討ちにしたというのは事実ですが、当時の宗教団体は財や権力を傘に、何でもありなほどデタラメなことをしていることが多かったのです。
    この信長による宗教団体の弾圧の後、日本では宗教が政治に関わることがなくなったと言われています。
    世界中の戦争の多くは、宗教が絡んでいることが多い中、信長がこうした宗教団体を討ったことは非常に重大な決断だったことがみてとれますね。

実は部下からも尊敬される優しい性格だった?

信長には当然厳しい一面もありますが、実は部下や部下の妻、そして庶民にも優しく慕われ尊敬されていたという逸話もたくさん残されています。

信長から秀吉の嫁「寧々」に宛てた手紙
信長から秀吉の嫁「寧々」に宛てた手紙
  • 秀吉の妻「寧々」が、秀吉の浮気について相談したところ仲裁の手紙を送っている。
    「こんなにいい奥さんがいながら浮気をするなて、あのはげねずみ(秀吉のこと)はとんでもない。今後あなたのような美しい妻を妻を迎えるのは難しかろうに・・・」とこの寧々に宛てた手紙は有名ですね。しっかりと部下の妻に対しても気遣いのできる、優しい上司ということ路でしょうか。
  • 祭りの時に庶民と共に踊った、安土城も階級を問わず招待して内覧させた。
    また、自ら女装して踊るなど、周りのものを楽しませるために自ら盛り上げ役を買っていたという話もあります。周りにも気遣いできるタイプだったんですね。
  • 成果を出した部下には、しっかりと褒美を与えていた。
    将軍 足利義昭あしかがよしあきに宛てた手紙(十七ヶ条のご意見書)に
    「一、以前からよく働いてくれているものには褒美を与えず、新参者には与えているそうですね。それは非常に不公平であり、評判も悪いようです。」
    と書いてあるほどです。しっかりと働き、成果をあげたものに対してはそれ相応の対価を褒美として渡す。実際に、明智光秀あけちみつひでは国を任されたりしてます。相応の対価をもらえるとなると、人は頑張るものですよね。
  • 乞食にも情けをかけた
    山中の猿」と呼ばれた乞食に対して、木綿20反を用意し「木綿を売り小屋を建てさせ、負担にならないように一年に1、2度麦や米を与えてやるとどうだろう」と街のものに伝えたという逸話が残っています。
    この山中の猿と呼ばれた乞食は、先祖が常盤御前ときわごぜんを殺したために障害を持って生まれてきて、その地にずっと住み着いていたと言われています。そんな貧しい曰く付きの者に対しても、情けをかけるなんて優しい性格が伝わってきますね。

とにかく合理的!判断力が非常に優れていた

信長は、とにかく判断が早く的確で、非常に合理的だったと言われています。

相撲を楽しむ織田信長
相撲を楽しむ織田信長(Wikipediaより)
  • 能力があるものは家臣として採用した
    信長はたとえ敵として戦った相手でも、優秀とみれば家臣として迎え入れています。信長の家臣として有名な柴田勝家しばたかついえ」もかつては戦った間柄です。他にも、敵ではありませんが、豊臣秀吉とよとみひでよしなんて農民の出身ですからね。
    また、信長が好んで開催していた相撲大会で優勝したものは家臣として採用するなど、能力があるものはどんどん採用する、そして成果をあげたものはどんどん出世する、まさに実力主義を採用していたんですね。
  • 鉄砲の導入など、新しいものを採用し活用した
    信長は、幼い頃に長槍を作ったり、鉄砲を活用したりと新しいものを積極的に取り入れていきました。
    特に鉄砲は、戦さに置いて敵との距離を保ちながら攻撃できる武器ですが、当時は量産することが困難だったり、鉄砲は一度撃つと次の攻撃までに時間がかかるなどデメリットも多かったようです。しかし、信長は鉄砲隊を隊列制にしたことで、ロスタイムを無くし連続で攻撃できるようにするなど、戦略面でも常に合理化を実現していました。
  • 兵農分離でいつでも戦さができる体制を整えた
    当時は、農業と兵士の兼業兵士が多かったため、戦さに大量の兵を送り込むのは非常に大変でした。しかし、信長は農兵分離で専業兵士を雇い、城下町に住まわせていたことでいつでも大量の兵を連れて戦さをすることができました。信長の強さ理由の一つには、この農兵分離があります。
  • 楽市楽座で商売を自由化し、結果として財を得た
    信長は、自分の領土で楽市楽座をとりいれていました。楽市=自由にものを作れる楽座=自由に販売することができる、楽市楽座の仕組みを導入し、関所を無くしたことで税金を排除していきました。
    誰でも商売ができ、関所もないので税金がかからない分、販売価格も安くできるため、庶民が気軽にものを買えるようにしたのです。今までよりも安く、いろんなものが買えるようになると結果として商売が活性化され、信長も財を得る。当時は非常に画期的なことだったんです。

外国人フロイスからみた信長

当時、日本でキリスト教の布教活動をしていたイエズス会の宣教師「ルイス・フロイス」はその著書の中で信長に関して多くの記録を残しています。一部抜粋してみました。

睡眠時間は短く、起床は早かった

戦さを好み、常に鍛練に励み、名誉に富み、正義感が強かった

急に激昂げきこうする(怒ることがある)が、普段はそうでもなかった

人から侮辱されることを極度に嫌った

家臣のいうことは聞かず、自分で判断していた

身分の低い者とも親しく話をした

簡単にまとめると、

  • 普段は非常に真面目で優しく、規則正しく、自分に対しても厳しかった。
  • 人から指図されることは嫌いで、自分で物事を判断していた
  • 分け隔てなく、一般庶民とも話をするような気さく人だった

    といったところでしょうか?
    天下布武を掲げていただけあって、自分の信念「こうあるべきだ」というものをしっかりと持って生活していたんでしょうか?

まとめ

今回は、信長の性格について色々な逸話からみてきました。
簡単にまとめると、

  • とにかく合理的で、何事においても効率化を追求していた
  • 自分に敵対する者には非常に厳しく冷酷
  • 自分に対して友好的な者には優しかった

    冷酷なイメージだけだった信長ですが、こうしてみるとやっぱりリーダーとしての資質を兼ね備えた非常に優秀な人だったんですね。

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