織田信長と武田信玄の関係。敵同士ではなく実は協力関係にあった?
織田信長と武田信玄。二人は戦国時代を代表する大名であり、それぞれ名将として、日本人ならその名を知らない人はいないほど有名な人物です。ほぼ同じ時期に日本を圧巻していた二人にはどんな共通点があったのでしょうか?
今回は、織田信長と武田信玄の関係について詳しくみていきましょう。
目次
信長が最も恐れた男「武田信玄」
「風林火山の旗印」に、数々の戦いに勝利してきた武田信玄、当時最強と言われた武将です。そんな武田信玄は一体どんな人物だったのでしょうか?
武田信玄はどんな人?
武田信玄は、宣教師フロイスの残した記録には「信長が最も恐れた男」との記述があります。なぜ信長はそれほどまでに信玄を恐れていたのでしょうか?その理由をみていきましょう。
信玄は、1521年甲斐国の守護「武田信虎」の嫡長子として生まれました。『甲陽軍鑑(武田家の戦略・戦術などをまとめた書)』によると、1536年に元服して初陣を圧倒的勝利で飾り、父 信虎を駿河に追放し19代目 武田家の家督を継ぎます。父「信虎」が築いた甲斐国を手に入れた信玄は、そこから勢力を拡大していきます。
・風林火山の旗印
・当時最強と言われていた騎馬隊を有していた
・圧倒的な強さ、生涯70回もの戦さを繰り広げわずか3敗しかしなかった
・上杉謙信と5回も戦う(川中島の戦い)
・1572年 三方ヶ原の戦いで圧倒的な勝利(徳川・織田軍)
生涯で3回しか負けてないというのは、もはや圧倒的な強さですね。その強さは全国に信玄の名を轟かせた一つの理由でもあります。
また、信玄はこんな名言を残しています。
この名言からもわかるように、非常に人を大事にする人物だったようです。
信玄は父を追放して家督を継いでいますが、命は奪っていません。しかもその父には莫大な生活費を送っていたと言います。
当時は家族内で争うことは多く、負けた方は命を奪われることが普通でしたが、追放にとどめ生活の支援もするなんて人を大事にする人柄がみてとれますね。
武田信玄に関しては、こちらの記事でも詳しく解説しています。
武田信玄の年表。甲斐の虎と呼ばれた男は一体どんな人物なのか?簡単に解説!>>
武田信玄の名言19選!現代にも活かせる名言を、逸話を交えて徹底解説!>>
織田家と武田家の関係性
信長は当時最強と言われていた武田信玄。当時勢いに乗り勢力を拡大し始めていた信長とも友好的な関係を築いています。
1565年、信長は姪を養女にして武田勝頼(信玄の息子)に嫁がせて友好的関係を結んでいます。その姪は男児を出産後になくなりましたが、その後信長の嫡男「織田信忠」と信玄の娘「松姫」は婚約しています。この婚約はのちの三方ヶ原の戦いで、信長との友好的関係が破られたため破談になっていますが、当時お互いに友好的関係を築こうとしていたんですね。
そんなほぼ同時代の最強武将だった信長と信玄ですが、実は生涯で一度も戦っていません。(正確には織田軍と武田軍は戦っていますが)。信玄も信長も互いに優れた戦術を持ち領土を拡大していった優秀な武将です。友好的関係を結ぶことで余計な争いをしないようにしていたのです。
信玄の裏切り?なぜ信玄は信長包囲網に参加したの?
信長と信玄は、友好的関係を続けていましたが、1572年 足利義昭の命に応じて信長包囲網に参加しています。互いに娘を嫁がせて友好関係を築いていたはずの信長と信玄。なぜ信玄は将軍義昭の命に応じて信長討伐へと向かったのでしょうか?
きっかけは桶狭間の戦い?
信玄は1554年、駿河・遠江を治めていた「今川義元」、相模を治めていた「北条氏康」と甲相駿三国同盟を結びます。要は、互いの領地をまもり友好的な関係を築いていきましょうといった同盟です。互いの娘が嫡子に嫁ぐ婚姻同盟として成立していました。
- 義元の娘「嶺松院」が信玄の息子「武田義信」
- 信玄の娘「黄梅院」が北条氏康の息子「北条氏政」
- 北条氏康の娘「早川殿」が今川義元の息子「今川氏真」
というように、 互いの娘を互いの息子に嫁がせることで友好関係を成立 させていたんです。
戦国時代は、いつ隣の国が攻めてくるかわかりませんから隣国とはよほどの理由がない限り争わないようにしていたんですね。
しかし、今川義元が桶狭間の戦いで信長に討ち取られてしったことで、同盟にひずみが生じ始めます。
義元の跡を継いだ今川氏真は、信玄の宿敵ともいえる上杉謙信との同盟を模索します。これを聞いた 信玄は激怒し、同盟を破棄し、義元の娘を今川家に送り返し、駿河へと侵攻を始めました。
それはそうですよね、同盟国が宿敵と仲良くし始めようとしているのを聞くと、「今までの同盟関係はなんだったんだ!!」ってなっちゃいますよね。
ちなみに今川家の属国だった松平家(のち徳川家康)も今川家から独立しており、信玄と共同で今川家の領土を攻めています。
つまり、この家康との共同作戦は、武田・徳川軍vsかつての三国同盟の仲間だった、今川・北条+上杉謙信だったんですね。
きっかけは家康だった?三方ヶ原の戦いこうして起こった!
信玄と共同で今川の領土を攻めた家康との関係が悪化してきます。
信玄と同盟を結び、共に今川の領土(駿河・遠江)を攻めた家康は、 駿河は武田の領土、遠江は徳川の領土 と思っていました。この同盟の際のすれ違いが家康と信玄との間に大きな溝を作ってしまうことになります。
信玄は今川の領土を吸収したいと思っていたので、家臣だった秋山虎繁(あきやまとらしげ)が、兵を従えて遠江を侵攻していきます。この遠江の侵攻に対して家康が激怒してしまいます。
そりゃそうですよね、だって家康は遠江は自分の領地だと思ってますから。。。この時、家康の怒りを知った信玄は、虎繁を撤退させることを約束しますが、家康の怒りは治りませんでした。
結果、家康との同盟は破綻し、ついに家康まで敵対してしまうことになってしまいます。
こうして信玄vs織田・徳川の連合軍が対峙することになります。
一方、当時の信長は将軍「足利義昭」と対立しており、怒った義昭は信長包囲網を組み、信長と対決していました。
そんな義昭からの要請に応じる形で信玄もこの包囲網に参加します。これが三方ヶ原の戦いの始まりです。織田・徳川連合軍といっても、信長は信玄と同盟関係にありましたから、信長ははじめのうちは援軍を送らなかったと言われています。
しかし、武田軍が信長の領地の一部であった岩村城を占拠すると、信長と信玄の同盟関係は事実上崩壊し、信長もこの戦いに参戦したのです。
しかし、信長は義昭の信長包囲網により他の戦さも進行中でしたから、信玄の策略と武田軍の勢いには勝てず、織田・徳川連合軍はわずか2時間で大敗したのです。
信玄の没後、なぜ長篠の戦いで争ったの?
ほぼ同時代を生きたカリスマ大名「織田信長」と「武田信玄」。二人は生前中に戦場で直接戦ったことはありませんでしたが、信玄の死後「長篠の戦い」で信長は「武田勝頼」と戦っています。長篠の戦いは一体どのような戦いだったのでしょうか?詳しくみていきましょう。
長篠の戦いはどのような戦いだったのか?
信長包囲網を打破し、将軍足利義昭の企みを退け着々と勢力を拡大していった信長は、武田家に対しても厳しい姿勢を貫きます。
武田信玄の死後、長篠城(現・愛知県)は徳川家康に支配されていました。
その家康が治めていた長篠城を奪還しようと武田家を率いる武田勝頼と戦ったのが長篠の戦いです。
織田・徳川連合軍 約30,000 VS 武田軍15,000の戦いです。
武田軍は、当時最強とも言われる騎馬隊を有し戦いに挑みますが、信長は騎馬隊を防ぐために馬防柵をたて、その後ろに3,000の鉄砲を有した鉄砲隊を3列に配置し戦いました。
当時の鉄砲は一度発砲すると次の発砲までに筒を掃除し火薬と弾薬を詰めるといった作業があり、連続で発砲することはできませんでしたが、そのロスタイムを隊列制にすることで補ったことで、騎馬隊を撃破したといわれています。
この戦いに勝利した信長は、天下統一に向けてさらなる躍進を遂げていくきっかけとなった戦ともいえます。
長篠の戦い、武田勝頼の最後に関しては、こちらの記事でも詳しく解説しています。
武田勝頼に子孫はいたの?武田家は本当に勝頼を最後に滅亡したのか?>>
まとめ
今回は、ほぼ同時期を生きたカリスマ「織田信長」と「武田信玄」の関係性をみてきました。どちらも自国の領土を拡大し、戦さに強く、先見性もあるカリスマ武将だったことがみてとれます。
簡単にまとめると、
- 武田信玄は圧倒的強さを誇り、信長からも恐れられていた
- 信玄も信長のことは気にしており、友好関係を保とうとしていた
- 信玄の裏切りにより、織田軍と武田軍は対決下したが、二人は直接対峙はしていない
- 信玄の死後、武田軍は長篠の戦いで信長と争ったが敵わなかった
こうしてみると、信玄がもし病死してなかったら?信長と直接戦っていたら?なんて考えてロマンが広がりますね。