織田信長の妻「濃姫(帰蝶)」の謎多き人生。7人の側室・子供達との関係は良好だった?

織田信長の妻「濃姫(帰蝶)」の謎多き人生と信長との関係性

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戦国武将といえば真っ先に名前が出てくると言っても過言ではない「織田信長」。戦さにも強く、キリスト教の布教を許可したり、楽市楽座で商売を活性化させたりとまさに戦国時代のカリスマです。今回は、そんな織田信長の妻「濃姫(帰蝶)のうひめ きちょう」はいったいどんな人だったのか?信長との関係はどうだったのか?そして濃姫の最後についてまとめてみました。

織田信長の妻「濃姫(帰蝶)」はどんな人?

現在放映中の大河ドラマ「麒麟がくる」でももちろん登場する織田信長の妻「濃姫」。もともと沢尻エリカさんが演じる予定だったことでも話題になりました。信長協奏曲では柴崎コウさんが演じるなど、信長関連のドラマなどでは大変重要な人物です。織田信長の妻ということで華やかに思うかもしれませんが、呼び名についても「濃姫のうひめ」「帰蝶きちょう」「胡蝶こちょう」「安土殿あづちどの」「鷺山殿さぎやまどの」など複数あったり、出生や人生の最後についても複数説あり、非常に謎の多い人物なんです。
複数ある呼び名の中で最も有名な呼び名「濃姫」という呼び名は、美濃国の姫という意味だという説が有力です。戦国時代は特に女性に関する記録がないので、正確なとろこは不明ですが。。
詳しくみていきましょう。

織田信長の側室や家系図に関してはこちらの記事でもご紹介しております。

織田信長の妻「濃姫」の出生について

濃姫は1535年、当時、美濃国を治めていた「斎藤道三さいとうどうさん」とその正室である小見の方おみのかた/こみのかたとの間に生まれたといわれています。年齢的には信長の一つ年下です。この小見の方は、東美濃の名家である「明智家」の出身で、明智光秀の叔母にあたるといわれています。つまり、この説でいくと、明智光秀といとこの関係ということになります。
実際には、明智光秀の出生に関しても謎が多いため諸説あります。そして、道三と小見の方の唯一の子といわれています。

織田信長の妻「濃姫」はどんな人生を送っていた?

濃姫の父は「マムシと呼ばれた男 斎藤道三」です。油売りから一大出世して美濃を治めるまでになった、下克上の代名詞とも言える人物です。欲しいものがあると、どんな手を使ってでも手に入れる、そんなタイプだったのではないでしょうか?濃姫はそんな父 道三のもとでいったいどんな生活を送っていたのでしょうか?
この時代特有というか、女性に関する記録はほとんど残っていません。濃姫(帰蝶)の出生は1535年だったのだろうということ以外、ほとんどが謎に包まれています。

夫と死別、15歳でバツ2?

戦国時代は、13〜15歳で成人と見なされており、若くして結婚するのは当たり前の時代でした。結婚と言っても今のように恋愛結婚ではなく、ほとんどが政略結婚の時代です。実は濃姫は、父 道三に存分に利用された悲劇の姫だったのです。

最初の夫:土岐八郎頼香ときはちろうよりたか

当時の美濃国の守護大名だった、土岐(とき)氏と争いの真っ最中だった斎藤道三は、美濃国を乗っ取る計画の一環として、土岐八郎頼香に嫁がせました。いわば娘を人質にするようなものですかね?思いっきり政略結婚ですね。
そんな娘の夫に対しても、道三は容赦しません。自分が国を乗っ取るためには手段を選ばない、まさにマムシ。織田信長の父「信秀」との戦さの最中にどさくさに紛れて刺客を送りこみ、自害に追い込みました。
10歳にして夫を失い未亡人となるなんてほんと悲劇です。しかもその黒幕が自分の父だったなんて本当に衝撃的ですよね。

二番目の夫:土岐次郎頼純ときじろうよりずみ

しかし、濃姫には夫を亡くした悲しみにひたる間も無く、道三のさらなる政略のために利用されます。織田信秀との戦いのどさくさに紛れて天敵を倒した道三は、頼香の甥にあたる土岐次郎頼純を形上の守護職に就け、その頼純に濃姫を嫁がせたのです。当時、濃姫(帰蝶)は12、3歳だったといわれており、いわば思春期の真っ只中です。一体どんな心境だったんでしょうね。
そんな結婚から1年あまりたった1547年、さらに追い討ちをかけるように頼純は急死してしまいます。直接的な死因は明らかになっていないようですが、道三に暗殺されたともいわれています。

一度ならず二度までも、父道三の政略結婚に利用され、さらにその夫を父に殺された。しかも当時は12、3歳です。濃姫の悲しみ深い心中は考えるだけでも切なくなりますね。

なぜ、濃姫は織田信長に妻として嫁いだの?

15歳にしてバツ2、それも実の父親に夫を暗殺された濃姫は、またしても父道三に政略結婚をさせられることとなります。
当時、信長の父「信秀」と大垣城(現在の岐阜県)を巡って何度も争っていた道三。しかし、何度争っても決着はつかず、最終的には和睦の道を選ぶことになります。その和睦のために濃姫(帰蝶)は織田信長との縁談が決まります。
この結婚の裏にも、道三の思惑があったといわれています。また、信秀側にも、当時勢いのあった道三を利用して勢力を拡大しようという思惑があったといわれています。

この時代特有というか、政略結婚のお手本のようなものですね。
道三は、織田信長に濃姫(帰蝶)を嫁がせる際に短刀を渡し、「もし信長が何か企んだり、不審な動きをするとこの刀で刺すように」と告げたといわれています。それを受けた濃姫(帰蝶)は承諾するとともに、「もしかするとあなたを刺すかもしれません」と告げたといわれています。
そりゃそうですよね、濃姫からすると三度目の結婚、若干15歳でです。しかも前夫は父に暗殺されたんです。「もういい加減にして」という気持ちもあったかもしれませんね。
大河ドラマや映画などでは、非常に気が強い女性として描かれることが多い濃姫、当時はこのくらいの気概が必要な時代だったとも言えますが。

織田信長と濃姫の関係。仲は良かったの?

こうして三度目の正直というか、織田信長の妻(正室)となった濃姫。当時の記録によると普段、何もないときは二人で山頂に住んでいたという記録が残っています。夫婦仲はどうだったのかわかりませんが、平穏な日々を過ごしていたのではないでしょうか?

絵本太閤記えほんたいこうき」「武将感状記ぶしょうかんじょうき」に残されている有名なエピソードがあります。
結婚して1年くらいした時、濃姫が眠りについた後、信長は毎晩どこかへ出かけて朝方に戻るという不審な行動を1ヶ月あまり続けたことがありました。
自分が寝た後に旦那が出かけ、朝方に戻ってくる、まさに浮気以外の何者でもない気がしますよね?
もちろん、浮気を疑った濃姫が信長に尋ねると、信長は「道三の家老が謀反を起こそうとしている。その家老からの連絡を待っているのだ」と濃姫(帰蝶)に伝えたといいます。
まさか、「父の家老が裏切ろうとしているなんて…」もちろん濃姫(帰蝶)は父 道三にこのことを伝え、道三はこの家老を罰したと言われています。

実はこの話は、信長の策略で道三の兵力を弱らせるのが目的だっだんです。
このエピソードからも、浮気を疑うほど信長を思っていたのが伺えます。しかも父道三に対してもしっかりと報告をする、父思いの一面も見受けられます。
また二人には子供はできませんでしたが、通説によると側室が産んだ「信忠」を嫡男として迎え可愛がったのではないかといわれています。

謎の多い織田信長の妻「濃姫」の最後。濃姫はどこへ行った?

当時の女性に関する資料は、非常に少なく濃姫に関する資料も同様にほとんどありません。出生もそうですが、濃姫の最後に関する資料もほとんどありません。信長の没後に太田牛一が書いた「信長公記しんちょうこうき」(信長の一代記)にも結婚した(織田信長の妻となった)という記述はあるものの、他の記録はほとんど残っていません。そんな濃姫は信長と結婚した後、どうやって最後を迎えたのでしょうか?

離縁されていたの?

「信長公記」に結婚したという記述以降、濃姫の最後に関する記述がないのは織田家と縁が切れたためだという説があります。

道三も亡くなり、政略結婚の意義を失ったため濃姫(帰蝶)との婚姻関係は無用となり追放され、母型の叔父「明智光安」の明智城に身を寄せたという説もあります。

しかし、道三の側室の一人は、信長の妹の一人だったため斎藤家との縁を切る理由はないという説もあります。

本能寺の変で一緒に戦ったの?

映画や大河ドラマなどでよく描かれている、濃姫が本能寺の変で織田信長と共に敵兵と戦い戦死する場面。つまり、本能寺の変の時に、妻であった濃姫(帰蝶)も本能寺におり信長と共に戦い敵に討たれたという話です。しかし、この話に関する記録は残っておらず小説や脚本による創作だといわれています。
民間に伝わる話では、本能寺の変のあと、生き残った信長の家臣の一人が、濃姫の遺髪を京から持ち出し、埋葬したといわれる濃姫遺髪塚(のうひめいはつづか西野不動堂)があります。もしこの説が本当であれば、享年48歳ということになります。

長生きしたの?

大正時代にまとめられた「妙心寺史」によると、1583年6月2日に信長公夫人主催で信長の一周忌を行ったという記録があり、豊臣秀吉の主催とは別の一周忌法会とは別のものであるため、この信長公夫人が濃姫ではないかという説があります。この信長公夫人が濃姫だったとするなら、本能寺の変ののちも濃姫は生きていたということになります。

また、1587年に信長の次男「信雄のぶかつ」がまとめた織田信雄分限帳おだのぶかつぶんげんちょうにでてくる「安土殿」が、濃姫ではないかとする説もあります。この安土殿説は、安土城の「安土」という土地名を冠されていることから、身分の高さと信長との縁の深い濃姫ではないかといわれています。この安土殿が濃姫であるならば、この時点でも生存していたことになります。

織田信長を支えた7人の側室たち。

織田信長には、正室(正妻)の濃姫、7人の側室を合わせると8人の妻がいました。信長には、合計で20人の子供がいますが、信長と正室の濃姫との間には子供はおらず、家督を譲った織田信忠も側室との間に生まれた子供です。
それぞれの側室と子供たちをみていきましょう。

織田信長の家系図_信長を支えた8人の妻たち

生駒吉乃いこまきつの

子供:織田信忠おだのぶただ織田信雄おだのぶかつ徳姫とくひめ(徳川信康(徳川家康の長男)の正室)

生駒家宗の長女として生まれ、結婚していたが夫が戦死し実家に戻っていたところを信長に見初められて側室となったと言われています。

信長は、この吉乃に一目惚れ?し出会ってから頻繁に吉乃の家に通ったり、側室でありながら正室と同等の扱いをしたなどのエピソードが残っています。

吉乃は信長との間に3人の子供を授かりますが、産後の肥立ちが悪く亡くなっています。残酷なイメージのある信長ですが、吉乃が亡くなった時は涙を流して悲しんだと言います。

坂氏さかし

子供:織田信孝おだのぶたか

織田信長の三男 織田信孝の母です。出生は不明、いつから信長の側室になったのかも不明です。
実は、織田信長の三男と言われている織田信孝ですが、次男の織田信雄おだのぶかつよりも20日早く生まれていたとされています。坂氏よりも吉乃の方が立場が上のような扱いをされていたため(身分の差?)信長への報告を遅れさせて三男になったと言われています。

養観院ようかんいん

子供:羽柴秀勝はしばひでかつ相応院そうおういん蒲生氏郷がもううじさとの正室)

出生は不明で、いつから信長の側室になったのかも不明ですが、年齢から考えると信長の側室だった時期は吉乃と同時期だったのではないかと言われています。
秀勝は、信長の四男として生まれましたが、1576年(天正4年)に羽柴秀吉はしばひでよし(のちの豊臣秀吉)の養子となりました。
高野山にある、信長・秀勝の供養塔は養観院が建立したとも言われています。

於鍋おなべ

子供:織田信高おだのぶたか織田信吉おだのぶよし於振の方おふりのかた

近江国の士豪 高畑源十郎の四女として生まれ、近江国 八尾山城主の小倉実房に嫁いでいたが、実房が戦死したのち織田信長の側室となったとされています。本能寺の変の後は、秀吉の庇護下におかれ、秀吉の正室ねねに支えたと言われています。

春誉妙澄大姉

子供:永姫えいひめ前田利長まえだとしながの正室)

前田利長の正室となった永姫を産んだと言われていますが、ほとんど記録がなく確認ができていません。出自も不明、春誉妙澄大姉というのも戒名で本名も不明、まさに謎に包まれた女性です。時は戦国時代なので、女性の記録がほとんど残っていないというのが事実です。永姫は加賀百万石の前田利長の正室となっているので、本能寺の変のあとは、娘のもとへ身を寄せたのでしょうか?資料がないため正確なところは不明です。

慈徳院じとくいん

子供:三の丸殿さんのまるどの(羽柴秀吉の側室)

羽柴秀吉の側室となった三の丸殿を産んだ慈徳院は、元々は織田信長の嫡男 信忠の乳母だったと言われています。本能寺の変のあとは、妙心寺内に大雲院という搭頭を建立し、本能寺の変の際に自害した信忠を弔ったとされています。

土方氏ひじかたし

子供:織田信貞おだのぶさだ

信長の父、織田信秀の代から仕えていた土方雄久ひじかたかつひさの娘と言われており、九男 織田信貞を産んだとされています。土方氏も出自や経歴は不明です。

織田信長には、正室の濃姫以外に7人の側室がいたことが記録から明らかになっていますが、他にも側室がいたのではないかという説もあります。信長には合計で20人の子供がおり、母が不明な子供が8人もいます。戦国時代なので、女性の記録がほとんど残っておらず確認できないのが現状です。
今では、戸籍でしっかり管理されているので、女性の記録が残っていないというのは考えられませんが、時代的にしょうがないのかもしれませんね。

織田信長とその子供達との関係は、特に記録には残っていません。信長は20人の子供がいて、本能寺の変の後に自害したものや、秀吉の反対勢力につき処罰されたものなど様々です。逆に戦国の世をうまく生き抜き江戸時代まで生きた子供もいます。戦国時代を代表する人物と言っても過言ではない織田信長の血筋は現代にもしっかりと受け継がれています。

織田信長の側室や家系図に関してはこちらの記事でもご紹介しております。

まとめ

今回は、織田信長の妻「濃姫」の人生と信長との関係性、他の側室・子供達との関係性についてまとめてみました。
簡単にまとめると、

  • 父 斎藤道三の政略結婚に利用され、15歳時点ですでにバツ2だった
  • 織田信長とは初婚ではなく、濃姫にとっては3人目の夫だった
  • 濃姫の最後は不明、本能寺で一緒に戦ったのか、それとも長生きしたのか?
  • 信長には正室の濃姫以外にも7人の側室がいた
  • 信長の子供には母が不明な子供が8人もいる

こうしてみると、濃姫に関する資料だけでなく、側室に関する資料も非常に少なく、当時の女性のことを知るのは難しいのかもしれません。

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