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野口英世の手のやけどの原因は?何歳のとき?手術はできた?やけどの影響は?

野口英世(1876(明治9)〜1928(昭和3))は、日本の医師で細菌学者です。

主に細菌学に従事し、黄熱病や梅毒の研究で世界的に有名になりました。千円札の肖像にもなっており、すぐに顔を思い浮かべられるという人も多いでしょう。

そんな野口英世ですが、実は手にやけどがあったと言われています。
やけどの原因は何だったのでしょうか?
この記事では、野口英世のやけどの原因や、手術はできたのか?その後の影響について簡単に解説していきます。

野口英世は左手にやけどを負っていた?

野口英世は、左手にやけどを負っていました。
やけどの原因は何だったのでしょうか?
また、英世の人生にやけどの影響はあったのでしょうか?
ここでは、野口英世のやけどについて簡単に解説していきます。

野口英世のやけどの原因は囲炉裏に落ちたこと?

野口英世は、1歳半の頃、自宅の囲炉裏に落ちてしまい、そのときに左手にひどいやけどを負ってしまいます。

畑仕事をしていた母が、英世の泣き声を聞きつけ急いで戻ってきたのですが、野口英世の家はとても貧しかったため、医者の元へ連れて行くことはできませんでした。

そして、自然治癒に任せた結果、英世の左手は指同士が癒着し、こぶのようになってしまいました。

こうして、英世は左手が自由に使えないというハンディキャップを背負うことになるのです。

野口英世はやけどで家業を継げず勉学に勤しんだ?

野口英世は、やけどのせいで左手が自由に使えなくなってしまいました。

そして、そのせいで家業である農家を継ぐことは困難になってしまいました。

母親は、農家になれないのなら学問の道に進むしかないと考え、英世を小学校へ通わせることにします。本当は貧しかったため、学校に通わせるようなお金はなかったのですが、英世が勉学に集中できるようにと、必死で人一倍働いたと言われています。

しかし、野口英世のやけどは悪い意味で目立ってしまい、「てんぼう、てんぼう」と左手のことを周りからからかわれ続けました。

一生懸命勉強していた野口英世でしたが、そのことに耐えきれず、とうとう不登校になってしまいます。学校へ行かずにフラフラとしていたのですが、ある日その姿を母親に見つかってしまいました。

英世は怒られると思いましたが、母親は怒るどころか泣いて詫びたそうです。

「ゆるしておくれ。やけどをさせてしまったのはお母ちゃんのせいだ。辛いだろうがここで勉強をやめてしまったらせっかくの苦労も何にもならない。お前の勉強する姿を見ることだけが楽しみなんだ。我慢しておくれ」

母親に泣きつかれた野口英世は、心が激しく動かされ、これ以降単に学校に行くだけではなく、猛勉強をするようになったのです。

猛勉強の結果、英世は常にトップクラスの成績を取り続けていました。

野口英世はやけどの手術の影響で医者を目指した?

野口英世は、家が貧しくて手術費用が工面できず、やけどを治すことができないでいました。

しかし、野口英世は高等小学校4年生の頃、「ぼくの左手」という自分の手への劣等感を抱く、複雑な思いを綴った作文を書きます。

その作文の一部が以下のものです。

「僕はたとえ片手が不自由でも、きっと立派な人間になってみせるという、大きな希望を持っています。けれども時にはフト、こんなかたわの手では、いくら努力しても一人前になれないのではないかと考えると、目の前が真っ暗になるような気がします。……僕はどうかして物が握れるようになりたいと思います。いっそ自分の小刀で、この指を一本一本、切り離してやろうかと何度考えたかもしれません…」

この作文は、恩師である小林栄先生を始めとする、他の教師や生徒の気持ちを動かしました。

そして、英世のために寄付金を集めてくれたのです。
皆が集めてくれたお金で、英世は左手の手術をすることができ、無事に左手の指を切り離すことに成功しました。

野口英世はこのことにとても感激します。

そして、このことがきっかけで英世は医術の素晴らしさを知り、医学の道へ進みたいと考えるようになったのでした。つまり、野口英世が医学の道に進んだのは、やけどの影響があったということになりますね。

野口英世はどんな生涯を送った?

赤ちゃんの時にやけどを負ってしまい、そのコンプレックスと戦う日々だった野口英世でしたが、その人生はどのようなものだったのでしょうか?
ここでは、野口英世の生涯について簡単に解説していきます。

野口英世の生涯を簡単に解説

野口英世は、福島県三ツ和村三城潟(現在の猪苗代町)にて、父・野口佐代助と母・シカの長男として生まれました。

最初は清作(せいさく)と名乗っていたそうです。

1歳半の頃に囲炉裏に落ちて左手にひどいやけどを負い、長男でありながら農家を継ぐことができなくなった英世は、母親のすすめで勉学に励むことにします。

高等小学校4年生の時に書いた作文「ぼくの左手」が、周りの人の心を動かし、英世のための寄付金を集めてくれます。そのおかげで、英世は左手の手術を受け、指を切り離すことに成功。
英世はこのことに深く感激し、医学の道へ進もうと決意します。

その後、英世は通常は数年かかると言われていた医術開業試験をたった1年でパスし、わずか20歳という若さで医師免許を取得します。

ちなみに、この頃に清作から英世に名前を変えています。

しかし、左手がいくら指が切り離せたからと言っても自由に使えるようになったわけではなく、触診に苦戦しました。
また、医術を深く学びたいという気持ちも湧いたこともあり、英世は開業医ではなく、研究者の道に進むことにしたのです。

研究者となった野口英世は、アメリカに渡り、主に細菌学について研究していました。
その研究熱は凄まじく、「ノグチはいつ眠るのか?」と他の所員から言われるくらいでした。

研究論文も多数発表し、ノーベル賞の有力候補にも選ばれました。

日本においては、帝国学士院より恩賜賞が授与されました。

また、野口英世は、アメリカで妻・メアリーと出会い結婚しています。

その後も、世界各地を研究のために回っていましたが、アフリカに行った際に黄熱病にかかり、治療の甲斐も虚しく1928年に51歳で亡くなりました。

野口英世の家は貧しかった?

野口英世の家は、父親が大酒飲みであったため、母親・シカが働くしかなく、非常に貧しい家庭環境でした。しかし、やけどを負わせてしまった後悔から、シカは英世をなんとか学問の道へと進ませるために小学校へと入学させました。

小学校といえども、当時の福島の片田舎の小学校は、裕福な家庭の子供しかまだ通うことができず、貧しい家庭の子供は英世しかいませんでした。

新しい教科書すら買えない、手にはひどいやけどという英世は、周りの子どもたちからからかわれ続けることになりました。

一時は不登校になってしまう英世でしたが、シカの真摯な思いを受け止め、そこから勉学によりいっそう励みます。

当時は尋常小学校での4年間が一般的に受ける教育であり、その上の高等小学校には経済的に余裕のある子供しか進学できませんでした。

しかし、野口英世の猛烈な勉強っぷりに感心した、猪苗代高等小学校の先生である小林栄先生が資金援助してくれたおかげで進学できたのです。

母シカの深い愛もあり、英世は貧乏ながらも無事に高等小学校まで通うことができたのでした。

野口英世の死因は黄熱病?

研究者となった野口英世は、世界各地を研究のために回っていました。

あるとき、英世が南米で作った薬では、アフリカの黄熱病は治らないという連絡が入ります。

それを受けて、英世はアフリカのアクラへ出張します。

そこでも英世は黄熱病と必死に向き合い、予防法と治療法に目処をつけますが、帰国の打ち合わせに入った段階で、英世は黄熱病にかかってしまいます。

懸命に治療をしますがその甲斐なく、1928年に

「私にはわからない…」

という言葉を残し、51歳の短い生涯を閉じました。

野口英世の人生を支えた人たち

やけどというコンプレックスを持っていた野口英世の人生は決して順風満帆なものではありませんでしたが、その英世を支えて励まし続けてくれた人たちがいます。

ここでは、野口英世の人生を支えた人たちを簡単に解説していきます。

野口英世は母なしでは医学者にはなれなかった?

野口英世の偉大な功績は、母親であるシカがいなくては到底達成できるものではありませんでした。

シカは、「自分の不注意で英世にやけどを負わせてしまった」という後悔し続けていました。

農家を継げないのなら、何としても学問で身を立てさせてやらなければならないと考えたのです。シカは自らが人の何倍も働き、英世を家事から遠ざけ、勉強だけに集中できる環境づくりをしました。

当時は、子供であっても、一家の貴重な労働力と考えられていたので、英世を一切の家事から遠ざけるシカの配慮をよく思わない人も周りにはいました。

しかし、シカはそうした声に耐え、英世が勉強に集中できる環境を与え続けました。

また、勉強が思うように進まず弱音を吐く英世に対しても、

「学問で身を立てなければ、お前は生きていくことができないのだよ」

とやさしく言い聞かせ続けたそうです。

このように、シカは英世が挫けそうになっても必死に支え続けたのでした。

後に英世は、自分を責め続けた母に対し、

「この母なくして医学者である自分はない」

と語っています。それくらい、シカの深い愛は英世のことを支え続けたのでしょう。

野口英世は小学校の先生の影響で教師になりたかった?

野口英世は、シカが頑張って働いたおかげで尋常小学校へは行くことができました。

しかし、その上級学校である高等小学校へは、当時経済的に余裕のある家庭の子供しか通うことができませんでした。

そのため、本来であれば英世は進学することはできなかったのですが、英世の才能を見込んだ猪苗代高等学校の先生である小林栄先生が、英世に進学を奨め、自らの私財を投げ売ってまでの資金援助もしてくれたのです。このおかげで、英世は高等小学校に通えることになります。

小林先生は4年間英世の担任を勤め、また、左手の手術においても手助けをしてくれました。

英世はそんな先生の姿に憧れ、自分も教師になりたいと考えるようになりました。
最初から医学の道を目指していたわけではなかったということですね。

しかし、手術後も左手の不自由さが残っていたため、英世は仕方なく教師への道を諦めることにしたのです。

まとめ:野口英世はやけどというコンプレックスを乗り越えて医学者の道に進んだ

野口英世は赤ちゃんの時に囲炉裏に落ちてひどいやけどを左手に負ってしまいました。しかし、その影響で医学者の道に進もうと決心したのでした。

今回の内容をまとめると、

  • 野口英世は1歳半のときに囲炉裏に落ちて左手にやけどを負った
  • 家が貧しかったため、やけどをすぐに治すことが難しかった
  • やけどがあったため、家業である農家を継ぐことはできなかった
  • 肉体労働ができない代わりに、学業に専念した
  • 最初は学校の先生を目指していたがやけどのため断念。その後、医学の道に進もうと決心する
  • 医学者として黄熱病などの研究で世界的に有名になるまでになった

幼少期にそんなひどい目にあってしまったら、そのまま親に反抗してひねくれてしまってもおかしくないのに、英世は母親からの愛情をしっかりと感じ取り勉学に励みました。

それほど、野口英世の人生にとって母親の存在というものは大きかったのでしょうね。

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