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野口英世の功績を簡単に解説!何をした?世界的に有名になったのは何故?

野口英世(1876(明治9)〜1928(昭和3))は、明治から昭和のはじめにかけて活躍した医師で細菌学者です。主に細菌学の研究に従事し、黄熱病や梅毒の研究によって世界的に有名になりました。
千円札の肖像としても馴染み深く、その顔を見たことがあるという人も多いでしょう。

そんな野口英世は、どのような功績を残したのでしょうか?この記事では、野口英世の功績について簡単に解説していきます。

野口英世の功績を簡単に解説!

野口英世が残した功績は大きく分けると5つあります。

ここでは、その英世の5つの功績を簡単に解説していきます。

【野口英世の功績】

  • 梅毒菌の培養に成功
  • 梅毒菌を梅毒患者脳内で発見
  • 黄熱病の病原体の特定
  • オロヤ熱とペルー疣が同じ病気であると証明
  • 多数の感染症の病原体を特定

野口英世の功績1|梅毒菌の培養に成功

まず挙げられるのが、梅毒菌の純粋培養に世界で初めて成功したことです。

梅毒という病気は、15世紀末には存在していました。非常に古くからある病気で、多くの歴史上の偉人たちも感染したと言われています。

そのため、梅毒のことを研究する人はたくさんいました。

その人達も試行錯誤を繰り返し、梅毒の培養を試みていましたが、誰一人として成功することはありませんでした。

そんな中で、野口英世が梅毒菌の培養に成功したということは、世界中に衝撃を与えました。そして、野口英世の名を世界中の医学会へと知らしめることになるのです。

野口英世の功績2|梅毒菌を梅毒患者脳内で発見

野口英世は梅毒についてもう1つ大きな功績を残しています。

それは、梅毒菌を梅毒患者の脳内で発見したということです。

これはどういうことかというと、当時進行性麻痺・脊髄癆(せきずいろう)は梅毒患者の末期の症状であるということは認められていたのですが、それを証明することはできていなかったのです。

つまり、進行性麻痺・脊髄癆と梅毒菌との因果関係を見いだせていなかったということですね。

野口英世は進行性麻痺の患者の脳内から梅毒菌を発見します。

発見するにあたり、野口英世はそれを確定するために数え切れないほどの標本を顕微鏡で確認しました。その努力が無事に梅毒菌を見つけることに繋がったというわけですね。

また、この功績は、野口英世の功績の中でも最大の功績と言われており、これを受けてノーベル医学・生理学賞の候補となりました。

野口英世の功績3|黄熱病の病原体の特定

野口英世と言えば、黄熱病の研究が特に取り上げられることが多いです。

野口英世は黄熱病の研究の結果、黄熱病の病原体を特定したのです。

この当時、エクアドルで黄熱病が大流行していました。
その死亡率はなんと30〜50%。
エボラ出血熱と同等の死亡率で、非常に危険な感染症と言われていました。

そこで、英世はエクアドルに赴き、現地で黄熱病の研究を始めるのです。

野口英世の研究の結果、黄熱病の病原体の特定に成功し、英世はその細菌を元にワクチンを開発します。そのワクチンは野口英世の名前から、「野口ワクチン」と呼ばれるようになりました。

そして、このことは当時の世界のトップニュースとなったのです。

野口英世の功績4|オロヤ熱とペルー疣が同じ病気であると証明

野口英世は、オロヤ熱とペルー疣(いぼ)というまったく症状の異なる2つの病気が同じ病気であると証明しました。

オロヤ熱は溶血性貧血により重篤な症状を引き起こす病気で、ペルー疣は手足に数センチに及ぶ疣ができる病気です。

症状が全く違うため、この2つが同じ病気であるなど考えられていませんでした。

一時期はペルーの医学生が同じ病気であることを主張していましたが、それもハーバード大学によって否定されていたのです。

しかし、英世はこの2つの病原体を特定・分離し、猿を使った実験により同じ病気であることを証明してみせたのです。

この証明をする際にも、英世は膨大な量の患者の血と疣のサンプルを顕微鏡で観察していったそうです。つまり、これも英世の絶え間ない努力の結果と言えるでしょう。

野口英世の功績5|多数の感染症の病原体を特定

野口英世が病原体を特定したものは、黄熱病の他にもありました。
野口英世が特定したものとして挙げられるのは以下のものになります。

  • 小児麻痺(急性灰白髄炎、ポリオ)
  • 狂犬病
  • トラコーマ

19世紀から20世紀にかけては、細菌学が躍進している時代でしたが、主要な病原体は有名な微生物学者によって発見され尽くしていました。そのため、新たに病原体を証明するということは極めて困難なものでした。

そのような中でも英世は諦めることはありませんでした。

「ノグチはいつ眠るのか」と他の研究員から言われるくらい熱心に研究し、病原体の特定に至ったのです。野口英世は本当に努力の人だったと言えますね。

野口英世の功績の一部は後に否定された?

5つの偉大な功績を残した野口英世でしたが、その功績の一部は後に否定されてしまうのです。

どの功績が否定されてしまったのでしょうか?
また、どうして否定されることになったのでしょうか?

ここでは、英世の否定された功績について簡単に解説していきます。

野口英世の否定された功績1|梅毒菌の培養に成功したこと

野口英世は世界で初めて梅毒菌の培養に成功しました。

しかし、野口英世の方法では、他の研究者が誰も培養に成功せず、この功績は否定されることとなってしまいました。
しかも、野口英世の方法では現在に至るまで誰も培養に成功していないのです。

また、英世の発表から70年後の1981年に、英世とは全く違う方法で梅毒菌の培養に成功したという報告があります。こちらの方法は誰でも同じように成功することができました。

研究の世界において、再現性というのは非常に重要視されていることで、他の人が同じようにやっても成功できない英世の方法は評価に値しないということになってしまったのです。

野口英世の否定された功績2|黄熱病の病原体の特定をしたこと

野口英世の功績として非常に有名な黄熱病の病原体の特定ですが、これも実は否定されています。

そもそもこれは、野口英世が研究結果を発表した当初から英世の説に反論がありました。

それは、英世よりも先に黄熱病がウイルスによるものと証明されていた研究結果と矛盾が生じてしまったからです。

また、黄熱病と似た症状であるワイル病と混同しているのではないかという指摘もされていました。
そして、実際に英世が開発したワクチンは、黄熱病には効果がなかったのです。

極めつけは、後世で黄熱ウイルスというウイルスが発見され、それを元に1937年にマックス・タイラーによって黄熱ワクチンが開発されました。
これはしっかりと黄熱病に効果があり、これによって英世の説が間違っていたということが明確に証明されてしまったのです。

野口英世の否定された功績3|多数の感染症の病原体の特定をしたこと

野口英世が特定した急性灰白髄炎や狂犬病、トラコーマの病原体も、黄熱病と同様にウイルスなどの別の病原体によるものとわかったため、この功績も否定されることになってしまいました。

英世の病原体の特定がほぼ否定されることとなった原因は、当時の技術的な問題がありました。

野口英世が研究に従事していた当時は、光学顕微鏡しかなく、ウイルスを観測することができませんでした。ウイルスを観測できる電子顕微鏡が開発されたのは、野口英世の死から3年後のことでした。

英世が生きている間に電子顕微鏡が開発されていれば、もっと正確に研究結果を出すことができたかもしれませんね。

野口英世は数々の賞を受賞した?

数々の偉大な功績を残した野口英世は、様々な賞を受賞しました。
どのような賞を受賞したのでしょうか?

ここでは、野口英世の受賞歴や功績が及ぼした影響について簡単に解説していきます。

野口英世の受賞歴・名誉称号は?

【野口英世の受賞歴】

  • 1913年:勲三等(スペイン)、勲三等(デンマーク)
  • 1914年:勲三等(スウェーデン)、ノーベル賞候補
  • 1915年:恩賜賞(日本)、ノーベル賞候補
  • 1918年:ノーベル賞候補
  • 1920年:ジョンスコットメダル名誉賞(アメリカ)
  • 1924年:レジオンドヌール勲章(フランス)
  • 1925年:正五位(日本)
  • 1928年:勲二等旭日重光章(日本)、防疫功労金牌(フランス)

【野口英世の名誉称号授与歴】

  • 1907年:ペンシルベニア大学名誉修士
  • 1918年:エクアドル陸軍名誉軍医監 名誉大佐、グアヤキル大学名誉教授、キトー大学名誉教授
  • 1920年:サン・マルコス大学名誉教授 名誉医学博士
  • 1921年:ブラウン大学名誉理学博士、エール大学名誉理学博士
  • 1925年:パリ大学名誉医学博士

野口英世はノーベル賞候補にも選ばれた?

1911年に、野口英世は梅毒菌の培養に成功したことを発表し、世界的にその名を知られるようになりました。その発表で、1914年、1915年にノーベル賞の候補に選ばれました。

また、1918年にはエクアドルに渡り、現地で黄熱病の研究をしワクチンを作りました。
このワクチンを集団接種したことによって、南米の黄熱病は収束したとされ、英世の名はさらに世界中に知られるようになります。
そして、3度目のノーベル賞候補に選ばれたのです。

しかし、3度もノーベル賞候補に上がったものの、野口英世がノーベル賞を受賞することはありませんでした。
その理由としては、

  • 梅毒菌の培養は再現性がなかったこと
  • 黄熱病の研究は過去の研究結果との不一致があったため疑問を持たれていたこと

以上が挙げられています。しかし、ノーベル賞候補に選ばれるということだけでも、野口英世の功績がどのくらいすごかったのかということが伺えますね。

野口英世の功績を伝えるために世界各地にゆかりの地がある?

野口英世の研究は、結果的には間違っていたものも多くありましたが、医学の進歩に大きく貢献したのは間違いありません。
そんな英世は現在でも多くの人に愛されており、世界各地でその功績を伝え、名前を残そうとする動きがあります。

黄熱病の研究を行ったエクアドルでは、生誕100周年にあたる1976年に記念式典が行われ、記念切手も発行されました。
近年では、2019年にメキシコで来墨100周年記念式典が開催されていました。

また、野口英世の名前を冠した施設もあり、ペルーでは「野口英世学校」が、ガーナには「野口記念医学研究所」、エクアドルには「野口英世通り」や「野口英世小学校」が存在しています。

このように、野口英世は亡くなった後も世界中で愛され続けているのです。

野口英世はなぜお札の顔になったのか?

野口英世と言えば、千円札の肖像として有名ですよね。
何故、野口英世は千円札の肖像として選ばれたのでしょうか?

千円札の肖像を決める際、当時の財務大臣であった塩川氏によると、

「学術重視、男女共同参画、社会の推進」

などを視野に入れており、今まで肖像として選択したことのなかった科学者の中から選考をしようとなったようです。

また、お札の肖像画に選ばれる前提条件として、

  • 「世界に誇れる功績を残していること」
  • 「知名度があること」
  • 「特徴的な顔立ちであること」(偽造防止の観点から)

が挙げられます。

以上のことを踏まえた結果、選ばれたのが野口英世なわけです。

野口英世は、世界に誇れる功績は十分ありましたし、教科書などに載っていることから知名度もありますし、特徴的なヒゲやヘアスタイルをしていました。
そのため、千円札の肖像として選ばれました。ちなみに、採用されている肖像画は、野口英世記念館所蔵の写真を素材としているそうです。

まとめ:野口英世の功績は絶え間ない努力の賜物であった

野口英世の功績は、梅毒菌の培養や黄熱病の病原体の特定など、英世の絶え間ない努力の結果の賜物でした。

今回の内容をまとめると、

  • ・野口英世の功績は梅毒菌の培養や黄熱病の病原体の特定など、主に5つ
  • ・そのうちのいくつかは後に否定されている
  • ・その功績のために、数々の賞を受賞したり、名誉称号を授与されている
  • ・現在も世界各地で野口英世ゆかりの地が存在している

当時の技術が足りなかったばかりに、野口英世の研究は後に否定されることになってしまいました。
もっと早く電子顕微鏡が開発されていれば、野口英世がノーベル賞を受賞していたかもしれないと考えると、惜しい気持ちで一杯になります。

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