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南北朝時代をわかりやすく解説!どんな時代だった?分かれた経緯は?統一した人は?

南北朝時代(1337〜1392)は、室町時代に含まれており、天皇が南朝と北朝に分かれて2人いた時代のことを指します。

建武の新政の崩壊を受け、足利尊氏が光明天皇(北朝・持明院統)を擁立したのに対抗して、後醍醐天皇(南朝・大覚寺統)が吉野で自分こそが天皇であると名乗ったのが始まりだとされています。
そんな南北朝時代とはどのような時代だったのでしょうか?
また、なぜ南北に分かれてしまったのでしょうか?
この記事では、南北朝時代について簡単にわかりやすく解説していきます。

南北朝時代はどんな時代?

南北朝時代とは、南朝と北朝に天皇がそれぞれ存在していた時代でした。
具体的にはどのような時代だったのでしょうか?
ここでは、南北朝時代の成り立ちから簡単に解説していきます。

南北朝時代の時期や場所は?

南北朝時代の時期は諸説ありますが、だいたい1337年〜1392年の期間だと言われています。

まずは、後醍醐天皇の建武の新政が崩壊したのを受けて、足利尊氏が京都で光明天皇を擁立します。

しかし、それに対抗して、京都から脱出した後醍醐天皇が、奈良の吉野にて南朝を開き始めます。
こうして、京都の北朝と吉野の南朝という2つの朝廷ができてしまったのです。

そして、それぞれが自分たちの正当性を主張して衝突することになります。

これを受け、全国の武士たちも北朝か南朝かどちらかにつくのかで揉め、激しい争いが各地で起こりました。南北朝時代はこのような内部争いが多かった時代と言えるのです。

南朝・北朝になぜ分かれた?

南朝・北朝に分かれたそもそもの原因は鎌倉時代にまで遡ります。

鎌倉時代中期、1242年に即位した後嵯峨天皇は、4歳の息子・久仁親王(後の後深草天皇)に譲位します。そして、自分は上皇となり、政治の実権を握りました。

そして、1258年になると、後深草天皇に皇子ができるのを待たずに、後深草天皇の弟で10歳の恒仁親王を皇太子にし、翌年には即位させて亀山天皇としてしまうのです。
全ては後嵯峨上皇が実権を握り続けるためにしたことなのでしょう。

しかし、このあと後深草天皇にも子供ができたにもかかわらず、後嵯峨上皇は亀山天皇の皇子である世仁親王を皇太子にするのです。

ここまできたら、後嵯峨上皇は亀山天皇の子孫に皇統を伝える意図があったのではないかと推測できてしまうのですが、明確な意思を誰にも伝えないまま後嵯峨上皇は亡くなってしまいます。

遺言書にも、後継者を指名する文言はなく、ただ鎌倉幕府の意向に従うようにと記されていました。

ここで、問題になるのが次の後継者をどうするのかということです。

後深草天皇も亀山天皇も自分の息子を次の天皇にしたいのですが、後嵯峨上皇は次の後継者を決めずに亡くなってしまった。

こうして2つの勢力はどんどん対立を深めていくのです。

この時に分かれたのが、 後深草天皇の子孫である「持明院統」  亀山天皇の子孫である「大覚寺統」 と呼ばれる勢力です。

そして、後継者問題は鎌倉幕府に持ち込まれ、この2つの勢力が交互に天皇を輩出する 「両統迭立(りょうとうてつりつ)」 という方法が取られることとなりました。

一時は幕府の管理下、この方法でお互い順番に天皇を輩出し、順調に行っていたかのように思われました。

しかし、ここでこの方法をぶち壊そうとする人物が現れます。

それが後醍醐天皇です。

後醍醐天皇は、

「自分の自分の子孫に皇位継承をしたい」

「武家中心ではなく天皇中心の政治にしたい」

という野望を持っていました。

それを実現するためには鎌倉幕府の存在が邪魔だったので、倒幕してしまうのです。

しかし、その後の後醍醐天皇が行った「建武の新政」は失敗に終わり、あっという間に政治から追放されてしまいます。

そして、これを受けて足利尊氏が京都で光明天皇を擁立し室町幕府を開きます。

光明天皇は持明院統の人物ですから、このまま持明院統の子孫が天皇を受け継いでいくことになると思われましたが、ここで簡単に諦めることのない後醍醐天皇。

後醍醐天皇は京都から脱出し、奈良の吉野にて南朝を開き、自身の正当性を主張し始めるのです。¥このように、天皇家の内部分裂がそのまま尾を引き、南朝・北朝に分かれることになってしまったのです。

\足利尊氏がどのように室町幕府を開いたかについては、こちらの記事で詳しく解説しています。/

\後醍醐天皇と足利尊氏の関係性については、こちらの記事で詳しく解説しています。/

南北朝時代は一時期タブーとされていた?

南北朝時代は実は一時期タブーとされていたことがあります。

それは、天皇家の血筋が2つに分かれてしまっていることに関係してきます。

明治時代、大日本帝国憲法が発布されたのですが、その中に

「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と書かれていたのです。

万世一系、つまり天皇の血筋は一度も途切れていないということですね。

しかし、南北朝時代は一度2つに分かれてしまっているため、その記述がおかしいということになってしまいます。

明治時代は

「これからは武士が中心ではなく、天皇の下、国民一同団結していこう!」

という時期です。

そんな時期に、この議論を持ち出すことは国家の基盤を揺るがす事態になってしまいます。だからこそ、大日本帝国憲法下では、南北朝時代のことを持ち出すことがタブーとされていたのです。

南北朝時代はどのような人物がいた?

南北朝時代は朝廷が2つに分かれていたこともあり、どの人物がどっちの朝廷についていたかというのがわかりにくいですよね。
ここでは、南北朝時代に主に活躍した人物について簡単に解説していきます。

南北朝時代の天皇の系図は?

南北朝時代は、南朝と北朝に分かれていました。

南朝は大覚寺統の子孫が、北朝は持明院統の子孫がそれぞれ天皇になっていました。

天皇の正統を示す道具として、三種の神器というものがあります。

後醍醐天皇までは、この三種の神器も順番に渡されていたわけです。

しかし、後醍醐天皇は建武の新政失敗後、この三種の神器を尊氏に渡すように要求され渡すのですが、実はこのとき渡したのは偽物だったのです。

そのため、「本当の三種の神器を持っている自分こそが正統な天皇である」と吉野に南朝を開いた時に主張したわけですね。

こうして、南北朝が統一され後小松天皇が即位するまでは、北朝・南朝それぞれに天皇が存在してしまうという状態が続いていったのです。

南北朝時代に活躍した主要な武将は?

南北朝時代に活躍した主な武将をご紹介していきます。

・足利尊氏
足利尊氏は後醍醐天皇と共に、鎌倉幕府の倒幕を果たしています。
しかし、その後に行われた建武の新政により、後醍醐天皇が人々からの支持を失うと徐々に対立を深めていき、次第に独自の武家政権の樹立を目論むようになりました。
後醍醐天皇から離反した後、一度は九州に敗走するものの、武士たちを糾合して上京し、「湊川の戦い」にて新田義貞や楠木正成を打ち破ることに成功するのです。
こうして、尊氏は光明天皇を擁立し、室町幕府を開きます。念願の武家政権を樹立したわけです。

\足利尊氏が室町幕府を開いた経緯などに関しては、こちらの記事でも詳しく解説しております/

・新田義貞

新田義貞は、源氏の血族で、新田氏の棟梁です。
また、鎌倉時代末期からの足利尊氏のライバルと言えるような存在です。
尊氏と共に鎌倉幕府倒幕に貢献し、後醍醐天皇の建武の新政の立役者の1人となりましたが、尊氏が離反した後は、後醍醐天皇により南朝の総大将に任命されます。

そして、北朝と戦いを重ねていきますが敗北し、最期は越前国にて戦死しました。

また、義貞はその生涯を南朝に捧げており、死後500年経った明治維新後に「忠臣」として再評価されるようになるのです。

\新田義貞の伝説については、こちらの記事でも詳しく解説しています。/

・楠木正成

楠木正成も足利尊氏・新田義貞と同様に、鎌倉幕府倒幕に貢献した武将の1人です。

しかし、前述の2人とは違い、その出自ははっきりとわかっていません。

しかし、正成はゲリラ戦や情報戦を戦術として取り入れ、また、日本全土を視野に入れて戦乱を組み立てた天才的な軍事的才能を見せたのです。このような才能があったゆえに、正成は倒幕以降も後醍醐天皇の側近として活躍していきます。

足利尊氏が挙兵すると、一時は義貞とともに尊氏軍を破り、九州に駆逐することに成功しますが、その後尊氏が再び挙兵してきたときにはこちらが不利と悟り、正成は朝廷に対して様々な進言をしたものの受け入れられませんでした。
そして、不利な状態での戦いを余儀なくされ、「湊川の戦い」で戦死しました。楠木正成も江戸時代末期から明治期にかけて再評価を受けることになります。

\楠木正成については、こちらの記事でも詳しく解説しています。/

\湊川の戦いについては、こちらの記事でも詳しく解説しています。/

南北朝時代の主な出来事

天皇家ですら内部分裂していた南北朝時代、その影響は地方にも響いていました。
どのような影響が出ていたのでしょうか?

ここでは、南北朝時代の主な出来事について簡単に解説していきます。

地方武士の兄弟喧嘩が頻発?

地方では、鎌倉時代末期あたりからある問題が出てきます。それは土地の相続の問題です。
それまで地方武士は分割相続を繰り返してきました。

しかし、その方法は時間が経つにつれ相続できる土地が少なくなっていきました。

そこで、それぞれの家は嫡子が全所領を相続するという単独相続が一般的になっていきます。

ここで面白くないのは、嫡子以外の子どもたちです。

これが地方武士の兄弟喧嘩の火種となっていきました。
この状況に加えて、北朝か南朝のどちらかにつくかという対立構造が絡んでくるのです。

長男が北朝につくのなら、次男は南朝につくみたいなことですね。

このように、ただでさえ兄弟喧嘩が起こりやすくなっているところに、朝廷の対立がそれを煽り、各地で兄弟喧嘩が頻発するようになったというわけです。

守護大名が台頭した?

当時政治を仕切っていた室町幕府は、地方の武士を少しでも多く取り込もうと動き出します。

そこで取った施策が、「荘園や公領の年貢の半分をその国の守護に与えよう」という半済令です。

この法令を最初に出したのは、近江、美濃、尾張の3カ国のみだったのですが、次第に全国的に広まっていきました。

元々守護は、各国の警察権を担う存在でした。

しかし、この半済令によって年貢を取り立てる権利を得たのです。

これを受けて、守護たちは自分の領内の荘園や公領を自らの土地に組み入れ始めます。

そして、領内の武士と主従関係を結んでいくようになるのです。

守護はこうして力をつけていき、やがて国司の権限まで手に入れることになります。

このように強い力を持った守護のことを、守護大名と呼びます。

室町幕府が守護の権限を強化して、地方の統制を行おうとしたところ、逆に強すぎる力を持った守護大名が誕生し、幕府に対して強い発言権を持つようになってしまったのです。

室町幕府の仕組みや特徴については、こちらの記事でも詳しく解説しています。

南北朝時代を統一した人は?

南北朝時代は、統一されることによって一旦の終わりを見せます。

誰がこのばらばらになっていた南北朝を統一したのでしょうか?ここでは、南北朝の統一について簡単に解説していきます。

足利義満によって南北朝は統一された?

南北朝を統一した人物は、室町幕府第3代将軍・足利義満です。
義満は、将軍職につくと、まず南朝の主力であった楠正義を北朝に引き入れることに成功します。
これにより、南朝方の勢力は大きく衰退します。

さらに、義満は、有力な守護大名の排除にも動き出します。
土岐氏や山名氏といった有力な勢力を排除したことにより、室町幕府の権威は南朝のそれを大きく上回る結果となりました。

また、幕府に対して不満を抱いていた寺社などに対しても、寺社の修復を積極的に行うなどの寛大な対応を見せたことにより、幕府に引き入れることに成功しています。

こうして南朝よりも大きな権威を持った義満は、南朝に対して和平案を出します。

主な内容としては、

  • ・三種の神器を「国譲り」という形で北朝に返すこと
  • ・皇位は北朝と南朝とで交互につくこと(両統迭立の続投)

などがありました。

「双方平等でやっていきましょう」との提案に、もはや力のなくなった南朝側としてもこの案をのむ以外の選択肢はなく、仕方なく三種の神器を京都へと持っていくことにします。

しかし、このタイミングで義満が仕掛けます。

三種の神器返還の際、 国譲りの儀式としてではなく、無くなっていた三種の神器が無事に京都に戻ってきた という意味合いの儀式へと変更して執り行ったのです。

これはすなわち、南朝の正統性を否定して、北朝こそが正統な皇位継承者であるということをアピールするためのものだったわけです。

これにより、正統性を否定された南朝のメンツは丸つぶれです。

しかし、北朝に反撃するだけの力は残っておらず、そのまま「明徳の和約」を結び、南北朝合一をされてしまうのでした。

\足利義満が行ったことについては、こちらの記事でも詳しく解説しています。/

後南朝が抵抗を見せ、争いは続いた?

南北朝が統一され、争いは落ち着きを見せたと思いきや、そうはいきませんでした。

何故なら、明徳の和約で結ばれたほとんどのことが守られることがなかったからです。

先程お伝えした三種の神器の件もそうですが、他にも交互に皇位につくと言っていたにもかかわらず、後小松天皇のあとは、旧南朝側から出すのではなく、後小松天皇の皇子である称光天皇を後継者にしてしまったのです。

これらのことは、南朝の皇統の子孫や遺臣たちにとって許せないものでした。

南北朝統一後、出家して大覚寺にて隠遁生活を送っていた後亀山法皇が、義満の死後、突然出奔して吉野へと戻って隠れます。
そして、この後亀山法皇の元に、南朝の遺臣たちが駆けつけ、南朝復興運動を始めます。

これが「後南朝」と呼ばれるものです。

後南朝の抵抗は、なんとこの後1479年あたりまで続きました。

このあたりまでくると、応仁の乱が起こるなどして戦国時代に突入していくので、南北朝などと言っている場合じゃなくなります。

そして、そのままはっきりとした決着のつかないまま南北朝問題は終わりを見せるのでした。

まとめ:南北朝時代は天皇家の分裂から始まった内部争いの多い時代だった

南北朝時代は、天皇家の内部分裂から始まり、その影響が地方にも出て、各地で身内争いが起こってしまい、全国的に争いの多い時代となってしまいました。
最終的には南北朝が統一され終わりを見せたかと思いきや、その争いは応仁の乱あたりまで続くこととなったのでした。

今回の内容をまとめると、

  • ・天皇家は後継者問題で揉め、大覚寺統と持明院統に分かれていた
  • ・交代で天皇を排出する決まりであったが、後醍醐天皇によって決まりを管理をしていた鎌倉幕府が倒され、その決まりがあやふやになった
  • ・後醍醐天皇の建武の新政が崩壊し、足利尊氏が光明天皇を擁立した
  • ・それに対抗するように後醍醐天皇が吉野に逃げ、自分こそが天皇だと主張したため、北朝と南朝という構図ができてしまった
  • ・全国各地で北朝と南朝どちらにつくかという議論が行われ、それに伴い内部争いが頻発するようになった
  • ・室町幕府が各地の武士を取り込もうと守護の権限を拡大したため、非常に強い力を持った守護大名が誕生した
  • ・足利義満によって南北朝は統一されたが、その後も南朝の抵抗があり争いは続いた

「自分が主権を握りたい」「自分の息子にそれを譲りたい」、そんな思いが交錯しまくっていた南北朝時代。上がブレまくっていると、こんなにも全国的に不安定な状態になってしまうわけです。
上の立場の人を誰にするのかをしっかりと決めることは、大事なことなのだなと現代の私達にも考えさせられるところがありますね。

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