織田信長がしたことは何?織田信長の功績と主な戦いを簡単にまとめてみた!
日本の名だたる英雄の中でも屈指の人気を誇る織田信長。大河ドラマをはじめ、たくさんのドラマや映画で取り上げられるほど人気の人物です。今回は、そんな織田信長がどんなことをしたのか?を簡単にまとめてみました。
目次
織田信長は何をした人?織田信長の功績は?
織田信長は、時代の先を見据えた先見性を持っており、新しいもの積極的に取り入れたり、様々な改革を行なっています。その中で、主な功績をまとめてみました。
織田信長の性格に関することはこちらの記事に詳しく書いてあります。
戦さ関連でしたこと
- 戦闘スタイルの変革(鉄砲を取り入れた)
- 農兵分離(職業軍人の雇用)
経済・生活関連でしたこと
- 楽市楽座(経済の自由化)
- 関所の廃止(通行や流通の円滑化)
- 道路の整備
- 鉄砲の使用
- キリスト教の布教を認める
織田信長の名言の一つに、。 「いつの時代も変わり者が世の中を変える。異端者を受け入れる器量が武将には必要である。」 とある程です。常に新しいものを積極的に取り入れていく姿勢は、非常に合理的だったとも受け取れますね
織田信長の有名な戦い
数々の武将と戦ってきた織田信長ですが、その中でも有名な戦いをピックアップしました。
1560年 桶狭間の戦い(今川義元との戦い)
父、信秀の時代から続いていた今川義元との決着をつけた戦い。時に信長27歳で、この戦さに勝利したことにより、全国にその名を轟かせるきっかけとなった戦い。
- 今川義元、約25,000の大軍を引き連れて駿河を出発する
- 今川軍の攻撃が始まったことを知った信長は、優れた兵士を集めて今川義元の本陣へ向かう
- 突然降り出していた雨で、油断していた今川軍の本陣を攻め落とし今川義元を討ち取る
桶狭間の戦い(織田信長と今川義元との関係)についてはこちらの記事に詳しく書いてあります。
1570年 姉川の戦い(浅井・朝倉軍との戦い)
この戦いは、単に浅井・朝倉連合との戦いというほど単純ではなく、当時の征夷大将軍出会った足利義昭との戦い、しいては室町幕府を滅ぼすきっかけともなりました。
まず、ことの発端は信長の味方であった近江国(現・滋賀県)の浅井長政が朝倉義景に寝返ったことから始まります。それから、浅井・朝倉連合軍と、織田軍が姉川(現・滋賀県)で戦ったのが姉川の戦いです。このとき、浅井・朝倉の両氏は比叡山延暦寺に逃げ込みます。信長は、「当方に味方すれば延暦寺の領地を返還する」「宗教者として中立の立場をとるように」など延暦寺側に通知を何度も出したと言われています。しかし、延暦寺側はこれを無視。再三の告知にかかわらずです。その後、延暦寺は足利義昭に仲裁を頼み、この戦いは和睦という形で終わります。
1571年 比叡山焼き討ち(比叡山延暦寺との戦い)
先の浅井・朝倉の両氏をかくまった時の怒り、そして出家の道を外れ天道の恐れも顧みず勝手な振る舞いをしていた延暦寺を焼き討ちにした、比叡山焼き討ちへとつながります。この事件が引き金となり当時の征夷大将軍 足利義昭は京を追放され、結果として室町幕府は滅亡します。
1575年 長篠の戦い(武田勝頼との戦い)
長篠の戦いは、その後の合戦の戦い方を変える大きなきっかけとなったと言われています。武田信玄の死後、長篠城(現・愛知県)は徳川家康に支配されていました。その長篠城を奪還しようと武田勝頼と戦ったのが長篠の戦いです。この時信長は、徳川家康の要請により出陣します。織田・徳川連合軍 約30,000 VS 武田軍15,000の戦いです。武田軍は、当時最強とも言われる騎馬隊を有し戦いに挑みますが、信長は騎馬隊を防ぐために馬防柵をたて、その後ろに3,000の鉄砲を有した鉄砲隊を3列に配置し戦いました。当時の鉄砲は一度発砲すると次の発砲までに筒を掃除し火薬と弾薬を詰めるといった作業があり、連続で発砲することはできませんでしたが、そのロスタイムを隊列制にすることで補ったことで、騎馬隊を撃破したと言われています。
1582年 本能寺の変(明智光秀との戦い)
信長の戦いで最も有名な「本能寺の変」。家臣であった明智光秀による謀反です。中国地方で、毛利氏と対峙していた秀吉の応援に向かうため西へ向かう途中、立ち寄った京都の本能寺での出来事です。明智軍13,000に対して織田軍約100人。明智軍は本能寺を囲み火を放ちました。燃え上がる炎の中信長は自ら弓や槍で応戦しますが、最期は殿中奥深くに入り、中から鍵をかけ自害したとされています。光秀の謀反と知り「是非に及ばず」と言った言葉は、信長の名言の一つです。
- 天皇が暗殺を命じた?信長が天下統一後に朝廷を滅ぼすことを恐れた。
- 足利義明が京を追放された仕返し?
- イエズス会が怒った?権力を持った信長が、自らを崇めよとイエズス会に言い始めたため、怒ったイエズス会が光秀に依頼した。
- 徳川家康の恨み?信長の命令で、妻子を殺した信長への復讐?
- 秀吉の裏切り?信長がいなくなり、結果として一番得をしたのは豊臣秀吉。有名な中国大返しは、事前に知っていないと不可能ではなかったか?
などなど、明智光秀が信長に反旗を翻した本当の動機は諸説あります。今となってはどれが本当なのか闇の中ですね。。
また、映画や大河ドラマなどで、光秀が「敵は本能寺にあり」と叫ぶ姿は印象的ですが、実際には光秀は言っておらず演出上の言葉だともされてます。
本能寺の変に関するまとめはこちらの記事に詳しく書いてあります。
織田信長の主な政策まとめ
織田信長の主な政策をまとめてみました。教科書に載っていない意外な政策も行なっていたんですね。
農兵分離
当時、兵士は武士だけでなく農業と兼業の兵士いわゆる農兵が多くを占めていました。農業が忙しくない時期は集まりやすいですが、収穫期など忙しい時期には徴兵が難しかったのです。そこで、農家には極力負担がかからないように、農家の次男と三男を城下町に住まわせ、専業兵士にしたと言われています。
楽市楽座
当時は、「座」と言われる商人の組合のようなものがあり、新しく商売を始めるのが難しかったと言われています。信長は、誰でも商売ができるように自由な商取引の場を作りました。また、市場税といった税金も廃止し経済を活性化させました。
関所の廃止
領国中の街道に設置されていた関所、関税を廃止することで、人々の往来をスムーズにした。一方では、天下統一のためとも言われています。
主要道路の整備
領国に道路を作るよう命じ、入江や河川には舟橋をかけた。道路幅は約6m両側には松と柳を植えさせたと言われています。道路を整備したことで、人々の旅の苦労が減り、交流が盛んになりました。
鉄砲の使用
ポルトガルから日本に伝来した鉄砲を積極的に使用しました。それにより、合戦の新しい形を生み出しました。特に、長篠の戦いで武田軍を破った際には鉄砲隊が大活躍しました。
キリスト教の布教を許可
革新的で新しいものを積極的に取り入れたと言われている信長は、キリスト教の布教も許可して積極的に保護しています。信長の一代記「信長公記」には特に記述はありませんが、宣教師ルイス・フロイスの著書「日本史」には様々な記録が残されています。イエズス会に対して屋敷を与え、献上品として黒人奴隷「弥助」を家臣にしたとの記録も残されており、イエズス会とは良好な関係を築いていたようです。
織田信長のしたこと、功績のまとめ
- 策略家で非常に強く、天下統一を目指して領土を拡大していたが、道半ばで家臣の裏切りにより自害
- 積極的に新しいもの、制度を取り入れた
- 自由な経済や流通をみとめ、経済の活性化を図った
今回は、織田信長がしたことについて、戦さ面と経済面からまとめてみました。こうして改めて見てみると、革新的なことも多く、後の日本に影響を与えています。日本の戦国武将の中でも人気がある理由がわかりますね。
織田信長の生涯のまとめはこちらの記事に詳しく書いてあります。