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大久保利通の子孫の現在を、家系図で解説!麻生太郎とも関係ある?

大久保利通の子孫の現在を、家系図で解説!麻生太郎とも関係ある?

大久保利通は、「維新の三傑」とも称される、幕末から明治に掛けて活躍した政治家です。薩摩藩出身の大久保利通は、西郷隆盛や木戸孝允らと明治維新を成功させ、明治政府では初代内務卿として活躍しますが、49歳の若さで暗殺されこの世を去ります。

大久保利通には、9人もの子どもがいました。偉大な父の背中を見て育った、大久保利通の子どもたちの多くが、政界などで活躍しているはご存じでしょうか?また、子どもたちだけでなく現代に続く子孫の中にも、著名人が多く存在しています。例えば、現在も政界で活躍している麻生太郎も大久保利通の子孫の一人なのです。

今回は、大久保利通の子供や、現代に続く子孫たちについて、家系図をもとに解説していきます。

大久保利通の家系図を簡単に解説!

大久保利通 家系図
大久保利通の家系図

大久保利通には、二人の妻がいました。正妻の満寿子ますこと、愛妾のおゆうです。
鹿児島の家を守っていた正妻と、幕末の京都での大久保利通の活躍を支えた愛妾です。大久保利通は二人とも、とても大事にしていたと言われています。

大久保利通に子供は何人いた?

大久保利通は、2人の妻との間に8男1女、9人の子供をもうけました。

【大久保利通の子ども一覧】

  • 長男:大久保利和おおくぼとしなか1859年(安政6年)~1945年(昭和20年)
  • 次男:牧野伸顕まきののぶあき1861年(文久元年)~1949年(昭和24年)
  • 三男:大久保利武おおくぼとしたけ1865年(慶応元年)~1943年(昭和18年)
  • 四男:大久保利夫おおくぼとしお1867年(慶応3年)~1894年(明治27年)
  • 五男:石原雄熊いしはらたけくま1869年 (明治2年)~1943年(昭和18年)
  • 六男:大久保駿熊おおくぼはやくま1870年(明治3年)~1912年(大正元年)
  • 七男:大久保七熊おおくぼななくま1871年(明治4年)~1943年(昭和18年)
  • 八男:大久保利賢おおくぼとしかた1878年(明治11年)~1958年(昭和33年)
  • 長女:芳子よしこ1876年(明治9年)~1965年(昭和40年)

大久保利通の子供たちは、母親こそ異なっていましたが、家族の絆は強かったようです。

1878年(明治11年)大久保利通が暗殺された半年後に、正妻の満寿子も病死してしまいます。その時、満寿子の末子の長女芳子はまだ2歳でした。また、大久保利通が暗殺された頃、愛妾の勇は八男の大久保利賢を身ごもっており、大久保利賢は父親である大久保利通が亡くなった後に生まれています。

大久保利通の暗殺や正妻の死去によってピンチに陥った大久保家でしたが、ばらばらになることはありませんでした。大久保家の年長の子どもたちは、おゆうの子どもも一緒に守ります。おゆうも献身的に家を支えたといわれています。

大久保利通の子供たちはどうなった?

大久保利通の最後は暗殺されるという、非業の最後を遂げました。
大久保利通の死後、9名の子どもたちは、どのように成長し、どのような生涯を送ったのでしょうか?それぞれどんな人生を送ったのか見ていきましょう。

大久保利通の長男:大久保利和

大久保利通の長男 大久保利和は、正妻の満寿子との間に1859年(安政6年)に薩摩で誕生しました。

大久保利和は、大久保家の長男としての役割を全うし、大久保利通亡き後の大久保家を守り率いた印象の強い人物です。
1871年(明治4年)の岩倉使節団に留学生の随員としてアメリカに渡ります。アメリカでは、フィラデルフィアの学校で3年間学んだ後、帰国し、開成学校(東京大学の前身)に入学しました。その後、大蔵省の官僚を経て、貴族院議員として国に貢献しています。
また、鉄道事業にも注力した人物として有名で、岩倉具視に協力して日本初の私立鉄道会社「日本鉄道」を設立した一人です。

1945年(昭和20年)に86歳で亡くなりました。

大久保利通の次男:牧野伸顕

大久保利通の次男 牧野伸顕は、正妻の満寿子との間に1861年(文久元年)に薩摩の地で生まれます。

生後すぐに、大久保利通の義理の従兄弟にあたる牧野吉之丞まきのきちのじょうの養子となります。しかし、養父である牧野吉之丞が戊辰戦争の一つである北越戦争で戦死してしまったため、牧野伸顕は大久保家で育てられています。

牧野伸顕は、大久保利通に子どもの中で、最も政界で活躍した人物といえるでしょう。

長男の大久保利和と同様に、牧野伸顕も1871年(明治4年)の岩倉使節団に留学生として随行します。アメリカのフィラデルフィアの学校で3年間の留学を経て、帰国後は開成学校(東京大学の前身)に入学しますが、1880年に中退して外務省に入ります。

その後は、外務官僚としてのポストを歴任し、昭和に入ると元老として首相の選考に関与する国家の中枢となります。

世界情勢が大きく揺れ動いたこの時代に、外務官僚を勤め上げることは、並大抵のことではなかったと思います。昭和天皇の信任も厚く、相談を度々受けていたり、2・26事件で襲撃をされて九死に一生を得たこともあったそうです。

1949年(昭和24年)に87歳で亡くなりました。

大久保利通の三男:大久保利武


大久保利通の三男 大久保利武は、正妻の満寿子との間に1865年(慶応元年)に薩摩の地で誕生しました。

大久保利武も政治家として活躍しました。

1887年(明治20年)にアメリカのイエール大学に留学し、卒業後は今度はドイツに留学して、ベルリン大学等で学んでいます。語学に堪能だったようで、1897年(明治30年)に帰国した後は、日清戦争の大本営付きの通訳官を担当しています。内務省官僚として活躍した後、鳥取県知事となります。大久保利武は、大分県や埼玉県、大阪府の知事にも就任しています。また、日本赤十字社の理事も務めています。

子どものいなかった長男の大久保利和から、家督を相続したのも大久保利武です。

1943年(昭和19年)に78歳で亡くなりました。

大久保利通の四男:大久保利夫


大久保利通の四男 大久保利夫は、妾のおゆうと大久保利通の間に1867年(慶応3年)に京で生まれたといわれています。

海軍軍人を志していた大久保利夫でしたが、1894年(明治27年)に27歳で病に倒れ、亡くなったそうです。

大久保利通の五男:石原雄熊

大久保利通の五男 石原雄熊は、正妻の満寿子との間に1869年 (明治2年)に誕生しました。

大久保利通の妹「キチ」が嫁いだ石原近昌いしはらちかまさの養子になります。

大久保利通が、妹婿の石原近昌に金子借用を申し入れた手紙が、1853年(嘉永六年)の日付で残っています。そのころは、薩摩藩のお家騒動である「お由羅騒動」で大久保利通も謹慎処分となり、厳しい生活を強いられていたころです。そのころは、15年後に大久保利通の子どもを養子に迎えるとは思ってもいなかったかもしれませんね。

石川雄熊は1943年(昭和18年)に74歳で亡くなったそうです。

大久保利通の六男:大久保駿熊

大久保利通の六男 大久保駿熊は妾のおゆうとの間に1870年(明治3年)に誕生しました。

大久保駿熊は、農業技術の発展に献身した人物といえるでしょう。

1887年(明治20年)に大久保駿熊は、父の大久保利通が創設した、駒場農学校に入学します。卒業後は、農業技術者として研究や指導に当りました。さらに研究を深めるために海外実業練習生として欧米に留学し養鶏や製糖などを学びます。帰国後は、鹿児島県で大島糖業試験場長に就任しています。しかしながら、留学から帰国してわずか4年後の41歳の若さで急死してしまったのです。

東京生まれで東京育ちの大久保駿熊が、幼い頃に亡くなった父親の創立した学校に入り、父親の故郷で働き、そこで亡くなった彼の人生を知ると、感慨深い気持ちがこみあげてきますよね。

大久保利通の七男:大久保七熊

大久保利通の七男 大久保七熊は、妾のおゆうとの間に1871年(明治4年)に誕生しました。

六男の大久保駿熊と同様に、駒場農学校を経て、農業技術者として活躍したと言われています。

1943年(昭和18年)に72歳で亡くなったそうです。

父の遺志と兄の遺志を受け継いだ人生だったのではと思いを馳せる人物です。

大久保利通の八男:大久保利賢

大久保利通の八男 大久保利賢は、妾のおゆうとの間に1878年(明治11年)に誕生しました。
大久保利通が暗殺された5か月後に産まれており、大久保利通の子どもの中で、唯一父親と直接会うことができなかった人物です。

大久保利賢は、帝国大学を卒業後、横浜正金銀行に就職します。優秀な人物だったようで、銀行でもめきめきと頭角を現し、最終的に銀行の総支配人まで上り詰めています。

大久保利賢は、1958年(昭和33年)に80歳で亡くなりました。

大久保利通の長女:芳子

大久保利通の子どもの中で、唯一の女子である芳子は、正妻の満寿子との間に1876年(明治9年)に誕生しています。

それまでも子煩悩な大久保利通だったそうですが、唯一の女子である芳子は大変可愛がっていたそうで、毎日出勤前には、必ず芳子を抱き上げてあやしていたそうです。外務官の伊集院 彦吉いじゅういんひこきちと結婚した芳子は、1965年(昭和40年)に89歳で亡くなっています。

大久保利通の子孫の現在は?

大久保利通の子孫は、現在でも多くの人が活躍しています。

【現代でも活躍する大久保利通の子孫たち一覧】

  • 大久保利謙おおくぼとしあき:三男の大久保利武の子ども。日本近代史の歴史学者。
    国立国会図書館憲政資料室の成立に寄与した。
  • 大久保利春おおくぼとしはる:次男の牧野伸顕の孫(吉田茂の子ども)。
    芙蓉グループの大手総合商社「丸紅」の専務。
  • 吉田健一よしだけんいち:次男の牧野伸顕の孫(吉田茂の子ども)。
    日本の文芸評論家、英文学翻訳家、小説家。代表作として『瓦礫の中』など。
  • 大久保利晃おおくぼとしてる:公衆衛生学を専門とする医師。
    放射線影響研究所理事長。産業医科大学学長。
  • 麻生太郎あそうたろう:政治家。第92代内閣総理大臣。
  • 寬仁親王妃信子ともひとしんのうひのぶこ:皇族。寬仁親王の妃。
  • 堀内詔子ほりうちのりこ:政治家。環境副大臣・内閣府副大臣、厚生労働大臣政務官などを就任している。

麻生太郎も大久保利通の子孫だった

現代の日本政界で有名な政治家 麻生太郎も大久保利通の子孫なのはご存じでしょうか?
大久保利通の次男「牧野伸顕」には「雪子」という娘がいました。
雪子は政治家の吉田茂よしだしげると結婚します。
吉田茂は、内閣総理大臣を長期で歴任し、サンフランシスコ講和条約、安全保障条約を結んだ戦後日本を代表する政治家として有名ですよね。

吉田茂の三女 和子が、実業家で政治家の麻生太賀吉あそうたかきちと結婚し、誕生したのが麻生太郎です。

つまり、麻生太郎は大久保利通のひ孫にあたるのです。

第92代内閣総理大臣であり、副総理や財務大臣、外務大臣などを歴任している麻生太郎には、大久保利通の血が流れているのですね。

まとめ:大久保利通の子孫は、政治家や皇室などにも入っている。麻生太郎も子孫だった。

大久保利通は9名ものたくさんの子どもがいましたが、子どもたちは、政界や農業など様々な分野で活躍していることがわかりました。
今回の内容をまとめると、

  • 大久保利通は二人の妻の間に、八男一女の子どもがいた
  • 子供たちは様々な分野で活躍した
  • 大久保利通の子孫は現代まで続いており、皇室に入っている人物もいる
  • 超大物政治家「麻生太郎」も大久保利通の子孫だった

大久保利通の子孫たちは、それぞれが自分の成すべきことを考え、真摯に取り組んでいるような印象を受けました。生真面目で、揺るがぬ意志の強さを持っていたという大久保利通の性質は、子どもたちにも引き継がれていたのかもしれません。

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