大久保利通の死因は暗殺|紀尾井坂の変はなぜ起こったのかを簡単に解説!

大久保利通の死因は暗殺|紀尾井坂の変はなぜ起こったのかを簡単に解説!

スポンサーリンク

大久保利通は内閣制度が発足する前、日本政府の実質的な首相になった人物です。明治新政府では岩倉使節団の一員として欧米を視察も行っており、日本の近代化に大きく貢献しました。しかし、大久保利通は暗殺によって命を落としています。今回は、大久保利通の死因はなんだったのか?なぜ暗殺されたのか(紀尾井坂の変)?大久保利通の最後はどんな様子だったのかについて、解説してきます。

大久保利通の死因は暗殺

大久保利通は1830年(文政13年)薩摩藩の武士の子として生まれました。幼いころから学問が得意な子供であったそうです。

やがて、尊王攘夷の活動のリーダー的存在となり、西郷隆盛:1828年(文政10年)~1877年( 明治10年)、木戸孝允:1833年(天保4年)~1877年( 明治10年)と共に維新の三傑と呼ばれるほど活躍しました。

明治維新後は内務卿(明治時代の事実上の首相)となり、大きな権力を持つほどになりました。しかし、内務卿在任中の1878年(明治11年)、明治天皇の謁見に向かう途中、紀尾井坂にて不平士族によって暗殺されました。

大久保利通は全身に16箇所もの刀傷を受けてなくなった

1878年(明治11年)、大久保利通は明治天皇に謁見するため赤坂仮皇居へ向かっていました。

その途中、紀尾井坂にて不平士族に襲われ、16か所もの刀傷を受けて暗殺されています。

このうち8カ所の傷は頭部にあり、士族たちの大久保利通や新政府に対する怒りが現れていた出来事です。

大久保利通が暗殺された「紀尾井坂の変」を簡単に解説!

1878年(明治11年)、内務卿に就任していた大久保利通は、明治天皇の謁見に向かう途中で不平士族に襲われ暗殺されました。

大久保利通が暗殺された事件は「紀尾井坂の変」と呼ばれています。

ここでは、紀尾井坂の変はいったいどんな事件だったのか?動機や、暗殺の犯人がその後どうなったかについて解説していきます。

紀尾井坂の変の犯人は?犯行は予測されていた?

大久保利通の暗殺事件「紀尾井坂の変」は、6人の士族によって実行されました。

  • 島田一郎:1848年(嘉永元年)~1878年(明治11年)
    石川県の士族であり、大久保利通暗殺の主犯。
  • 長連豪:1856年(安政3年)~1878年( 明治11年)
    石川県の士族であり、西郷隆盛を尊敬していた。
  • 杉本乙菊:1849年(嘉永2年)~1878年( 明治11年)
    石川県の士族であり、大久保利通暗殺の実行犯。
  • 脇田巧一:1850年(嘉永3年)~1878年( 明治11年)
    石川県の士族であり、西郷隆盛を尊敬していた。
  • 杉村文:1861年(文久元年)~1878年( 明治11年)
    石川県の士族であり、紀尾井坂の変の実行メンバーのうち最年少17歳であった。
  • 浅井寿篤:1854年(安政元年)~1878年( 明治11年)
    島根県士族であり、明治維新後は、警視庁巡査だった。

実は、当時の警察トップだった川路利良は、士族の不満が高まっていることを把握しており、大久保利通暗殺の計画や、実行犯である石川県士族の6名の名前まで知っていたそうです。しかし「石川県人に何ができるか」と甘く見ていたため何の対策も取られていませんでした。

もし、大久保利通暗殺計画を知った時点で、対策をおこなっていれば日本の未来は違った形になっていたかもしれませんね。

紀尾井坂の変の犯行動機は何だった?

新しい明治政府が成立した後に、長年続いていた武士(士族)に対する厳しい取り決めが次々と成立していました。士族の帯刀を禁止したり、士族や華族に対して与えられていた給料が廃止されたりと、今までの士族の特権が廃止されていったのです。そうして、命を懸けて幕府を倒した士族の間で、明治政府に対する不満が募っていたのです。

大久保利通を暗殺した士族は、斬奸状(悪者をきり殺すにあたり、その理由を書いた文書)を持っていましたが、そこには以下のように政府に対する不満がかかれていました。

  • 国会も憲法も開設せず、民権を抑圧している
  • 法令の朝令暮改が激しく、また官吏の登用に情実・コネが使われている
  • 不要な土木事業・建築により、国費を無駄使いしている
  • 国を思う志士を排斥して、内乱を引き起こした
  • 外国との条約改正を遂行せず、国威を貶めている

つまり、新政府に対する不満が蓄積し、時のトップである大久保利通の暗殺という結果になったのです。

しかし、実際には大久保利通は国費を無駄に使っていませんし、斬奸状に書かれていることは真実ではない部分も多数あります。

大久保利通は、国費の無駄使いなどはしておらず、逆に予算のつかなかった公共事業には自分のお金を使い、国の借金を個人で埋めていたのです。

また、出身藩に関わらず能力を重んじて官吏を登用するなど、新しい日本をつくるためにさまざまな改革をおこなっていました。

大久保利通暗殺の実行犯である士族たちが考えていたこととは逆で、大久保利通は自分を犠牲にしてまで国のために働いていたのです。

紀尾井坂の変の犯人はその後どうなった?

大久保利通暗殺事件(紀尾井坂の変)の後、暗殺の犯人である6人は自首し、事件の約2か月後に死刑宣告が出されました。そして、死刑宣告がだされた当日に国家に反逆した大逆罪の罪で東京の市ヶ谷監獄にて斬首されています。

事実上の国のトップを暗殺したということもあり、現代では考えられないスピードでの執行です。

犯人である6人のお墓は、現在も東京の谷中霊園にあります。

大久保利通の最後の姿

1878年(明治11年)、内務卿に就任していた大久保利通は明治天皇の謁見に向かう途中で不平士族に襲われ暗殺されました。事件当日、大久保利通は馬車で皇居に向かっていましたが、そこを犯人に襲われています。

その最後の姿はどのようなものだったのでしょうか。

大久保利通は犯人たちを一喝した

大久保利通は馬車に乗っている時に、犯人たちに襲われました。犯人たちは馬の足を切り、大久保利通の従者を殺害したあと、大久保利通を襲っています。

この時、大久保利通は犯人たちを「無礼者!」と 一喝したそうです。

しかし、大久保利通は護身用の武器を携帯しておらず、なすすべがありませんでした。

大久保利通は子供のように逃げ回った?

護身用の武器を携帯しておらず、従者を殺されてしまった大久保利通は、一度は犯人たちを一喝し、威厳のある姿勢を崩さなかったそうですが「子供のように泣き叫び、逃げ回った」という噂もあります。

これも新政府に対する不満や、権力を持った者に対する嫉妬から来るものなのかもしれません。

しかし、実際に刀をもった大人6人に囲まれ、対抗する武器もない状態なら、その気持ちもわからなくはありませんね。

私財を投じ借金をしてでも強い日本を作ろうとしていた大久保利通の最後は、威厳のある姿だったと思いたいですね。

大久保利通の遺体はどこへ埋葬された?

大久保利通の葬儀は1,200名近くの人間が参列し、近代日本史上最初の国葬級葬儀と言われています。

しかし、大久保利通は薩摩藩(鹿児島県)の出身でしたが、当時は西郷隆盛を強い追いやった人物として、故郷である鹿児島県では嫌われていました。

そのため、大久保利通の遺体は東京都港区の青山霊園に埋葬され、最近になるまで故郷である鹿児島には戻ることはできませんでした。

大久保利通の遺骨は、平成に入るまで鹿児島に戻れなかった

大久保利通は薩摩藩(鹿児島県)出身でしたが、鹿児島では同郷の西郷隆盛を死に追いやった人物として嫌われていました。

そのため、大久保利通の遺体は東京の青山霊園に埋葬されており、大久保利通の遺骨が故郷の鹿児島に戻ったのは平成に入ってからです。

2018年には、有志のグループが大久保利通の没後140年の法要を、西郷隆盛が眠る鹿児島市の墓地で墓地で催そうしましたが、反発を受けています。

元々は「大久保利通公没140年法楽」という名称でしたが、「西南之役官軍薩軍恩讐を越えての法要」という名称に変更しています。

140年以上の時が経っても、鹿児島県民の遺恨は完全には解決していないようです。

大久保利通が最後に残した「伊藤博文への手紙」

大久保利通の絶筆は伊藤博文への手紙でした。この手紙は紀尾井坂の変の30分前に書いたと言われています。

手紙には、
「今から私(利通)は直ぐ参朝するので、あなた(博文)も直ぐ来て下さい」
と書かれていました。

しかし、伊藤博文が内閣に当庁すると、大久保利通が暗殺されたことが伝えられ、悲報を聞いた伊藤博文は「とても残念だ」と語ったそうです。

大久保利通が最後に乗っていた馬車も現存している?

大久保利通が暗殺された時に乗っていた馬車は、現在岡山県倉敷市の五流尊瀧院に奉納されています。

大久保家に出入りのあった尼が五流尊瀧院の弟子だったために、大久保利通の家族から馬車が寄進されたそうです。

この馬車には幌の部分に穴が開いています。これは、暗殺時に犯人が外から刀を刺したときの傷だそうです。

当時の緊迫感を伝える傷ですね。

【大久保利通の馬車が保管されている場所】

五流尊瀧院

住所:〒710-0142 岡山県倉敷市林952

電話:086-485-0027

拝観時間:9:00~17:00

定休日:無休

駐車場:有

※大久保利通公の馬車を見学するためには事前予約が必要です。

まとめ:大久保利通の死因は、暗殺事件の際に受けた16箇所もの刀傷。その遺体は長年郷里の鹿児島に戻れなかった。

明治維新の立役者である大久保利通。新しい政府の設立に尽力した人物ですが、新政府に不満を持った士族に暗殺される結果となりました。また、故郷である鹿児島では西郷隆盛を死に追いやった人物として、長年受け入れられなかったという側面もあります。
今回の記事をまとめると、

  • 大久保利通は新政府の実質的な首相だった
  • 大久保利通は、新政府に反感を持っていた士族に暗殺された
  • 大久保利通の死因は、暗殺の際受けた16箇所も刀傷
  • 大久保利通は、暗殺犯たちを「無礼者!」と一喝した
  • 大久保利通は、西郷隆盛を死に追いやった人物として、故郷の鹿児島では人気が低い
  • 大久保利通の遺体は、平成に入るまで故郷である鹿児島県に戻れなかった
  • 大久保利通が残した最後の手紙は伊藤博文宛だった。
  • 大久保利通が最後に乗っていた馬車は岡山県に現存している。

政府のために身を粉にして働いていた大久保利通は、新政府に反感を持った士族に暗殺されるという悲しい最後を迎えました。特権を取り上げられた士族たちには、大久保利通が権力を笠にして国を自分意のままに操っていると映ったのかもしれません。

大久保利通の暗殺計画を知った時点で、何らかの対策が行われて入れば日本の未来も変わっていたかもしれませんね。

スポンサーリンク

最初のコメントをしよう

必須

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください