上杉謙信の死因は何?大虫?塩?酒?辞世の句や最後の姿も簡単に解説!

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上杉謙信(1530(享禄3)〜1578(天正6))は、戦国時代に越後国など北陸地方を支配していた武将です。

武田信玄や織田信長など猛者が多かった戦国時代の中でも戦上手と言われており、その戦績から後世では、「軍神」や「越後の龍」と称されることもありました。
特に武田信玄との5回にわたる川中島の戦いは有名で、知っている人も多いのではないでしょうか?

そんな上杉謙信ですが、最後はどのように死んでいったのかご存じでしょうか?

この記事では、上杉謙信の死因について簡単に解説していきます。

上杉謙信の死因一覧。一体どれが本当の死因?

上杉謙信の死因にはいくつかの説が存在しています。
一体どれが本当の死因なのでしょうか?

【上杉謙信の死因と言われているもの】

  • 刺殺か毒殺
  • 「虫気」によるもの
  • 脳卒中

それぞれ詳しくみていきましょう。

上杉謙信はトイレで死んだ?死因はいくつもある?

上杉謙信の死因はいくつも存在します。
一つ一つ見ていきましょう。

  • 刺殺か毒殺
    上杉謙信は晩年、織田信長と戦っていました。
    そのため、織田軍の刺客によって刺殺か毒殺されたのではないかという説があります。
    しかし、これはあまり証拠もなく、可能性としては低いようです。
  • 「虫気」によるもの
    虫気とはつまり、簡単に言えば寄生虫の感染により、体内の器官が正常に動作しなくなる感染症のことです。
    実際に、上杉謙信の病床に立ち会っていた景勝は、手紙に謙信が虫気であったことを書き残しています。
    当時はまだまだ細菌に対する認識も甘かったと言われていて、史料もあることから可能性としては十分に考えられる説となっています。
    ただし、当時は現代のようにCTなどといった医療技術が発達していなかったために、脳内の病がすべて虫気だと考えられていたのではないか、という説もあります。

    また、虫気を腹痛と考える説も存在します。
    中世において虫気とは、腹痛の意味で使用されていたことも多く、32歳のときにも腹痛に苦しめられていた史料も存在するので、この説も割と有力であるとされています。
  • 脳卒中
    上杉謙信の死因として一番有名なのが、トイレで脳卒中で倒れて、意識を失い、遺言を残す余裕もなく亡くなってしまったという説です。
    上杉謙信が脳卒中になってしまった原因としては、謙信が大酒飲みであったことが挙げられます。越後という寒冷環境、そして、大酒飲みだったためアルコールの過剰摂取が、上杉謙信の脳卒中を引き起こしたと考えられているのです。
    しかし、謙信の遺言や辞世の句が残されている史料なども存在することから、トイレでそのまま亡くなってしまったという説を否定する声もあります。

杉謙信は病弱で度々病に見舞われていた?

上杉謙信は22歳という若さで越後統一を成し遂げるのですが、その後は節目節目で病気に見舞われています。

  • 上杉謙信:30歳
    二度目の上洛中に背中に癰(よう)という重度の腫物が出来てしまいました。しかし、これは家臣が口で吸い出して治療したため、程なくして治癒しました。
  • 上杉謙信:32歳
    関東遠征中に腹痛を患いました。
    これに対して、近衛前久(このえさきひさ)から病気見舞いの文書が送られています。
  • 上杉謙信:33歳
    左足が気腫(リュウマチか痛風)になり、歩くときに足を引きずる様子が見られました。
  • 上杉謙信:36歳
    瘧(おこり)(マラリア)に罹患してしまいます。
    さらに同時に急性関節炎も併発してしまい、左足が不自由になったと言われています。
  • 上杉謙信:41歳
    軽い中風を発症し、回復したものの手指に少し麻痺が残ってしまいました。

上杉謙信は享年49歳で亡くなっています。
亡くなる前にも、様々な病気にかかっていたことがわかりますね。
そのような状態でも死ぬ数日前まで遠征に行こうとしていたのですから、相当強い意志で動いていたのでしょう。

上杉謙信が大酒飲みであったことが死因に繋がった?

上杉謙信は、様々な病気にかかったり、脳卒中の疑いがあったりしました。
それには当然原因があります。

そこで挙げられるのが、大酒飲みであったということです。

飲酒は、脳卒中と称される病気と大きな関連があります。
1日平均で3合以上飲んでいる人は、月に数回しか飲まない人と比べると、脳卒中を発症する可能性が1.6倍になるという研究結果が出ているのです。

上杉謙信は、普段からお酒をよく飲んでいた上に、戦場で食べる携帯保存食である「兵糧丸」(作る過程でお酒に浸している)を1食あたり1〜3粒ほど、1日に2〜3回食べていたそうです。
つまり、合戦においても、直接お酒を摂取していないものの、兵糧丸を通してアルコールを摂取していたのです。

また、お酒を飲む際にかかせないのが、おつまみですよね。

上杉謙信は、このおつまみとして梅干しを好んで食べていたそうです。

梅干しには大量に塩分が含まれてます。塩分を過剰に摂取すると、動脈硬化が進み、脳卒中を引き起こす可能性が高まるのです。

ただでさえ、越後のあたりは、もともと寒冷環境であるため、塩分摂取量が大きいのです。
(当時は冷蔵庫といった保存しておける場所がなかったため、秋までに漬物を作って、再び農業ができる春が来るのを待つしかありませんでした。この漬物には塩分が大量に含まれており、越後人は現代人の約5倍もの塩分を摂っていたとされています。)

このように、上杉謙信は普段から漬物などで塩分を摂り、酒を飲んでは梅干しから塩分を更に摂り、と塩分の過剰摂取をしていた可能性が高いのです。

このように、アルコールと塩分の過剰摂取が、上杉謙信の体を蝕んでいたというのは、可能性としては非常に高いでしょう。
それが死因に繋がったとしてもおかしくはないですね。

上杉謙信の辞世の句は?

様々な死因が存在している上杉謙信ですが、死ぬまでに時間があった説もあり、きちんと辞世の句を残していたそうです。

ここでは、上杉謙信の残した2つの辞世の句をご紹介していきます。

上杉謙信の辞世の句:極楽も地獄も先は有明の月の心に懸かる雲なし

極楽も地獄も先は有明の月の心に懸かる雲なし

現代語訳:
私は死後に極楽に行くのか地獄に行くのかわからないが、私の心は有明の月のように一点の曇りもなく晴れやかであるよ

仏教に深く帰依していた上杉謙信らしい句であると言えるでしょう。

出家をしたいという願望が叶えられたのは、宿敵・武田信玄の死後、上杉謙信が45歳のときのことでした。上杉謙信は私欲の少ない人だったので、死ぬ間際でも、心残りもない晴れやかな気持ちだったのかもしれません。

上杉謙信の辞世の句:四十九年一睡夢、一期栄華一杯酒、嗚呼柳緑花紅

四十九年一睡夢、一期栄華一杯酒、嗚呼柳緑花紅

現代語訳:
四十九年の我が生涯は一夜の夢のようであり、生涯の栄華は一杯の酒のようなものである。自然は栄枯に関わりなく、いつも春の柳は緑に、花は紅に咲くことだろう

人生を酒に例えているのが、大の酒好きだった上杉謙信らしいですね。

また、この無常観に溢れているところが、上杉謙信のさっぱりとしていて深く悟ったような性格がよく表れているところでもあります。

上杉謙信が亡くなったその後の上杉家は?

上杉謙信が亡くなった後の上杉家を継いだのは上杉景勝です。

しかし、この家督相続の際に、一騒動あったという話もあるのです。
ここでは、上杉謙信が亡くなったその後の上杉家について簡単に解説していきます。

上杉謙信の遺言はあった?お家騒動も?

上杉謙信の最後は様々な説が存在しますが、脳卒中を引き起こして突然死してしまった場合(遺言はなし)と、腹痛に苦しみ数日間寝込んでから息を引き取った場合(遺言はあり)では、その後の家督相続の話が変わってくるのです。ここでは、2パターン解説していきます。

【上杉謙信の遺言がなかった場合】
遺言がなかった場合、次の家督を継ぐのは誰になるのか、という問題が浮上します。
上杉謙信は独身で子供も居なかったので、このとき候補に上がったのは、上杉景勝と上杉景虎という2人の養子でした。
景勝は謙信の姉の息子で、景虎は北条氏康の七男となります。

上杉家では、この2人のどちらを跡継ぎにするかというお家騒動が起きるのです。

このお家騒動は、「御館の乱(おたてのらん)」と呼ばれています。

結果的にこの跡継ぎ争いに勝利し、家督を継いだのは、景勝です。

しかし、このお家騒動の混乱が尾を引き、上杉家は織田軍の侵攻に苦戦を強いられることになってしまうのです。
しかし、幸いなことに織田信長が本能寺の変で亡くなったことにより、織田軍の侵攻は中断することになり、上杉家はひとまずピンチを脱することが出来ます。

こうして、越後での威厳をキープすることに成功するのでした。

【上杉謙信の遺言があった場合】

死期を悟った上杉謙信は、腹痛に苦しみながら、側近たちを相手に

「景勝を本丸に入れて、おのおの補佐すること」

と伝えました。

そして、景勝のいる場では

「次吉の刀を小嶋に与えるように」

と言い残したと言われています。

こうして、上杉謙信の遺言通り家督は謙信が継ぎ、本丸へと移転したのでした。

いずれにせよ、家督は景勝が継ぐことになるのですが、内部割れが起きていたかどうかというところは、上杉家の団結という点において大きく変わってくるところですね。

上杉家は細々と堅実に生き延びていった?

家督問題の後、豊臣秀吉が台頭してくると、上杉家は反抗すること無く秀吉に従うことにします。秀吉に反抗して領地を減らされた大名もいたことですし、二の舞いにならないように動いた結果でしょう。

そして、上杉景勝は豊臣政権下で、五大老というトップの役職に就き、会津に120万石を領する大大名となりました。

順風満帆に思われた矢先、秀吉が亡くなり、その後に起こった関ヶ原の戦いでは、石田三成側についたため敗北してしまいます。

その結果、120万石あった領地は米沢30万石まで減封されることになってしまいました。

それでも、上杉家はその後も細々と堅実に努力し、藩を立て直して明治維新まで維持し続けたのです。そして、その子孫は現代まで続いているようです。

まとめ:上杉謙信の死因ははっきりとはしていないが、脳卒中という説が濃厚であった

上杉謙信の死因ははっきりとした証拠が残っていないため、いくつも説が存在しました。
その中でも、謙信の食生活の様子や住環境の様子から、脳卒中であったのではないかという説が濃厚でした。

今回の内容をまとめると、

  • 上杉謙信は度々病気に見舞われていた
  • 上杉謙信は、大の酒好きで、つまみに梅干しなどを食べていたため、アルコールや塩分の過剰摂取が見られた
  • 上杉謙信の死因は、刺殺、虫気など様々あるが、脳卒中である可能性が高い
  • 上杉謙信は、腹痛のために寝込んだ説もあり、その場合は、謙信は遺言や辞世の句を残していたと考えられている

辞世の句にも見られるように、上杉謙信は本当に自分のやりたいことをやりきって、その生涯を閉じたのではないでしょうか。

また、生涯酒を飲んで過ごし、死ぬ間際の辞世の句ですら酒で締めているあたり、そのブレない性格も垣間見えますね。

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