西郷隆盛の年表を簡単に解説!どんな人?功績は?何をした人?完全版まとめ

西郷隆盛の年表を簡単に解説!どんな人?功績は?何をした人?完全版まとめ

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西郷隆盛1827年(文政10)~1877年(明治10)といえば、東京の上野公園にある銅像を見たことがあるという人が多いのではないでしょうか?
西郷隆盛は江戸幕府を倒し、明治政府の設立に大きな貢献をした人物です。
この記事では、西郷隆盛の年表を通して西郷隆盛の生涯をみていきます。どんな人だったのか?功績は?何をした人なのかを紹介していきます。

西郷隆盛とはどんな人?年表で簡単に解説

西郷隆盛とはどのような人なのでしょうか?名前を知っていても、具体的に何をしたのかわからないという人は意外と多いです。年表を通して、西郷隆盛についてをみていきましょう。

西郷隆盛とはどんな人?

西郷隆盛
1827年(文政10年)〜1877年(明治10年):享年49歳
父:西郷吉兵衛 母:椎原政佐
妻:須賀(先妻)、愛加那(島妻)、イト(後妻)
子供:菊次郎、菊草、寅太郎、午次郎、酉三

西郷隆盛を簡単に表すと「みんなから慕われるリーダー」と言えるでしょう。存在感があり、みんなをまとめあげ、事あるごとにリーダーとして活躍していくのです。

西郷は薩摩藩の下級藩士の家に生まれます。同じ年代の若者たちのリーダーとして、若いうちからその名が知られていました。そして、1864年(文久2年)には禁門の変にて薩摩軍を指揮して長州藩と戦うことになります。
その後も、リーダーとして薩摩軍をまとめながら幕府と戦い江戸城無血開城を成功させたり、明治政府の中では参議と陸軍大将や近衛都督など色々な役目を任されたりします。
参議をやめて、鹿児島に帰っても、明治政府に不満を持つ士族のリーダーとして西南戦争を起こしました。しかし、その戦いに敗れた西郷は最終的に自決することを選びます。このように、西郷は死ぬまでリーダーとして活躍していたのです。

西郷隆盛の年表(年齢)を簡単に解説!

  • 1827年(文政10年):0歳
    薩摩国鹿児島城下加治屋町にて、下級藩士・西郷吉兵衛の長男として誕生
  • 1844年(弘化元年):16歳
    郡方書役助こおりかたかきやくたすけの役職に就く
  • 1850年(嘉永3年):22歳
    お由羅騒動(高崎崩れ)が勃発
    →西郷は島津斉彬の相続を強く願うようになる
  • 1852年(嘉永5年):24歳
    父母のすすめで、伊集院兼寛いじゅういんかねひろの姉・須賀と結婚する
  • 1853年(嘉永6年):25歳
    家督を継ぐ
  • 1854年(嘉永7年):26歳
    島津斉彬の江戸参勤に際し、江戸詰に任ぜられ江戸に赴く
    →御庭方役となり、斉彬から直接教えを受けるようになる
  • 1858年(安政5年):30歳
    斉彬が病気により急逝してしまい、そのまま殉死しようとしたが月照らに説得される
    →鹿児島に帰るも、その前途を悲観して月照とともに入水する。しかし、西郷のみ一命をとりとめてしまう
    →幕府の目から隠れるために奄美大島に潜居する
  • 1859年(安政6年):31歳
    愛加那を島妻とする
  • 1862年(文久2年):34歳
    鹿児島に帰るが、島津久光の命に背き、沖永良部島に遠島処分される
  • 1864年(元治元年):36歳
    大久保利通・小松帯刀らのおかげで赦免され、鹿児島に再び帰還する
    禁門の変にて、薩摩軍を率いて長州藩を撃退する
  • 1865年(元治2年):37歳
    イトと結婚する
  • 1866年(元治3年):38歳
    坂本龍馬の仲介で、桂小五郎と薩長同盟を締結する
  • 1868年(明治元年):40歳
    勝海舟と会談し、江戸城の無血開城を成し遂げる
  • 1871年(明治4年):43歳
    岩倉使節団が視察に出かけた際に、筆頭参議として留守政府を任される
  • 1873年(明治6年):45歳
    板垣退助らと征韓論に対する意見の違いから論争し、その後明治政府を辞職し、鹿児島へ帰郷する
  • 1874年(明治7年):46歳
    鹿児島に私学校を設立する
  • 1877年(明治10年):49歳
    西南戦争勃発
    →敗れた西郷は鹿児島・城山にて自決する(享年49歳)

西郷隆盛は島津斉彬に見出された

西郷隆盛の人生において、最も影響を受けたと言っても過言ではない人物が島津斉彬しまづなりあきらです。
西郷隆盛と島津斉彬の出会いは、斉彬が江戸に参勤するときのことです。
その少し前から、西郷は郡方書役助として、藩に農政に関する建白書を提出するなどしていました。斉彬はこの建白書を見て、西郷隆盛の才見出し、一緒に江戸に連れて行くことにしたのです。
それからの西郷隆盛は、島津斉彬に直接教えを受けたり、江戸に来たことによって会いたいと思っていた碩学・藤田東湖ふじたとうこに会い、国事についての教えを受けたりします。こうしてどんどん知識をつけていくのです。その国事に関する博識ぶりに、来訪してきた越前藩士・橋本左内はしもとさないは驚いたとされています。

このように、島津斉彬は西郷隆盛を見出し、知識を深めるきっかけをくれた人なので、西郷にとっての大恩人だったのでしょう。島津斉彬が亡くなった際に殉死しようとしたくらいなので、どのくらい尊敬の念を抱いていたのかが伺えますね。

西郷隆盛は島津久光と対立していた?

島津久光しまづひさみつとは、島津斉彬とは腹違いの兄弟で、事あるごとに西郷隆盛と対立することになります。
まず1番はじめに挙げられる対立の原因は、お由羅騒動おゆらそうどうでしょう。
島津久光の母であるお由羅は、久光の方を跡継ぎにしようと画策。時には、斉彬とその子女に対して毒をもろうとしていたのではないかと噂されたり、島津斉彬の子供の病室の床下から呪詛人形が発見されたりしたこともあったそうです。
尊敬していた斉彬をそのような目に合わせようとしていたお由羅から生まれた子ですから、あまり良い感情はもちませんよね。
さらに、西郷は久光が斉彬と比べると器量が足りないと感じていて、
「亡き島津斉彬の時のようにうまくいかない」
と久光に言ってしまうのです。こんなことを言われたら、久光から不興を買うのも当然ですよね。

その後も、西郷は久光の命令に背いて島に流罪の刑を受けるなど2人の溝は深まっていきます。
2人の不仲が決定的になるのは、1862年(文久元年)に島津久光が、公武合体を推進するために上洛を計画します。島津久光はこの計画を進めるに当たり、西郷を奄美大島から呼び戻そうとしますが、西郷は安政の大獄から逃れるために、奄美大島に潜伏していた身です。

しかしこの上洛は、亡き島津斉彬の意思を継ぐものですから、斉彬を尊敬していた西郷隆盛も喜んで協力してくれると考えていたのでしょう。しかし、西郷の反応は否定的なものでした。
西郷は久光の面前で計画の甘さを指摘し、「斉彬よりも人望がない」「田舎者」などと久光に言ってしまうのです。

これは久光にとってさぞ屈辱的なことだったのでしょう。
怒った久光は西郷を再び沖永良部島へと島流ししてしまいます。このように、西郷が久光のことを軽んじていたため、2人は対立することになってしまったのかもしれません。

西郷隆盛は何した人?功績まとめ

年表を通して大体の流れは確認できたでしょう。ここからはさらに詳しく西郷の行ってきたことをご紹介していきます。西郷の功績にはどのようなものがあるのでしょうか?

  • 薩長同盟で明治維新の立役者となった
  • 江戸城の無血開城を成功させた
  • 明治政府の基盤を築いた
  • 青少年の育成のために私学校を創設した

それぞれ詳しくみていきましょう。

西郷隆盛の功績|薩長同盟で明治維新の立役者となった

まず挙げられるのが、薩長同盟を成功させたことでしょう。
当時、長州藩は禁門の変を経て朝敵となっていました。長州藩は、米英仏蘭艦隊に下関を砲撃されたことから、欧州列強との力の痛感し始めます。
その以前より列強との力の差を感じていて、国内での内紛は無意味だと考えていた西郷は、こうした長州藩の内情を知った後、第一次幕長戦争を止め、長州藩と手を組むことに決めるのです。

このとき、西郷は内紛を止める説得をするために、命の危険があるにも関わらず下関に乗り込みます。それほどの覚悟をもってこの内紛を止めようとしていたという現れでもあるでしょう。その西郷の真摯な説得に長州藩も講話を承諾したのです。このおかげで、第一次幕長戦争は血を流すことなく終結しています。

そしてその後、坂本龍馬の手助けもあり、長州藩には薩摩藩が武器や艦船を提供し、薩摩藩には長州藩が兵粮米を提供するという約束で薩長同盟を結ぶことになります。すっかり弱体化していた長州藩はこれをきっかけにまた力を取り戻し始めます。このことが倒幕の動きを大きく進めていくことになるのです。

つまり、西郷が長州と手を組むと決め、行動を起こしたからこそ、薩長同盟は実現したのであって、このことから西郷は明治維新の立役者であると言えるでしょう。

西郷隆盛の功績|江戸城の無血開城を成功させた

西郷は戊辰戦争の際、勝海舟と会談し、江戸城無血開城成功させています。
これは徳川宗家がほとんど抵抗なく実現したことであったので、幕府軍と新政府軍の力関係ががらりと変わった出来事となりました。
また、無血開城だったので、江戸の街とその人々を戦争に巻き込むこともありませんでした。
このことについて、勝海舟は西郷隆盛を「江戸の大恩人」だと称していたようです。
もしこのとき両者が全面戦争に突入していたら、諸外国の介入を許すことになり、日本は植民地になっていた可能性もありました。このことから考えても、江戸城の無血開城は西郷の大きな功績の1つと言えるでしょう。

西郷隆盛の功績|明治政府の基盤を築いた

新政府体制になった際に、西郷隆盛は参議として政治に参加することになりました。
また、岩倉使節団が遠征に行っている間は、留守政府の責任者にもなりました。
その間に西郷隆盛は大きな改革を実現します。

  • 地租改正
  • 徴兵令、陸軍の改革
  • 学制の採用
  • 太陽暦の採用

などとても短期間では実現できないような改革を行なっています。
これらの改革は当時不安定だった国内を維持するのにはとても大事なことで、西郷隆盛が明治政府の基盤を築いたと言っても過言ではないでしょう。

西郷隆盛の功績|青少年の育成のために私学校を創設した

江戸幕府が倒れ、明治に入った辺りの頃、士族(江戸時代に武士だった人たち)の不満がとても高まっていました。廃刀令など明治政府が出した命令によって、武士の特権が次々と取り上げられていってしまったからです。不満を募らせた武士たちは、各地で反乱を起こしますが、明治政府に鎮圧されていきました。

西郷隆盛が明治政府を抜けて鹿児島に帰ったのは、そういう風潮が強まっていた頃です。
鹿児島県にも、新政府に不満をもった無職の血の気の多い壮年者がのさばっていました。そして、若者たちがそういう人たちに影響を受けて、道を誤ろうとしていたのです。そのことが西郷隆盛は気にかかり、青少年たちを指導して統御していこうと考えます。
そこで西郷隆盛は「私学校」を設立します。西郷隆盛が設立した私学校は、銃隊学校、砲隊学校、幼年学校があり、県下の各郷ごとに分校が設けられました。私学校の規模は段々と大きくなっていき、しまいには政府がスパイを送り込むほどだったようです。それほどまでに、政府が無視できないような重要な学校になっていたのでしょう。
この私学校の拡大が、のちに西南戦争へと向かわせていくことになるのですが、青少年の育成を重要視していたことは、西郷隆盛の大きな功績だと言えるでしょう。

西郷隆盛の名言を簡単に解説

様々な場面でリーダーとして活躍してきた西郷でしたが、座右の銘として常に心がけていたことがあります。ここでは、それをご紹介していきます。

西郷隆盛の名言「敬天愛人」

西郷の座右の銘は、「敬天愛人けいてんあいじん」という四字熟語です。
意味としては、「天を敬って、人を愛しなさい」というものです。
ここでいう「天」とは、真理・神・宇宙といった意味になります。

西郷隆盛は人生において、二度にわたる流島生活を送っています。
それは期間にして約5年間にも及びます。中でも、島津久光の怒りを買ったせいで流されることになった沖永良部島での生活は、座敷牢で罪人のような生活を強いられています。
しかし、そのおかげで西郷は今までの人生をしっかりと振り返る時間を得るわけです。そして、思慮深く志操堅固な人格を形成していきます。

そんな中、西郷は死生観を構築していきます。多くの人間にとって死ぬことは怖いことです。しかし、自分の敬愛する人間の死をたくさん目の当たりにしてきた西郷にとって、死ぬことは自分の敬愛する人たちと再会できる喜びのような感覚があったのかもしれません。
そのため、西郷は死ぬことは恐れていなかったのですが、「自分にやり残した使命があるから、天に命を助けられた。自分の使命が終われば、天は自分の命を自然と奪い去るだろう。天が自分を生かしてくれるうちは、自分にはまだやらねばならない使命がある」と考えるようになります。

そこに、元から持ち合わせていた他人に対して愛情深い性格が合わさり、「敬天愛人」という言葉に繋がっていったのではないかと考えられています。

西郷隆盛と西南戦争

西南戦争とは、1877年(明治10年)に勃発した士族による武力反乱です。
これは、日本国内においては最大かつ最後の内戦となりました。西郷隆盛はこの戦いにおいて、反乱軍のリーダーとして戦い、そして敗れて自決します。ここでは、その西郷隆盛の最後についてをご紹介していきます。

西郷隆盛の最後

西郷隆盛は内戦の無益さをよく知っていました。そのため、薩摩の若者たちにそのような気を起こさせないようにと私学校を設立したのです。しかし、新政府がスパイを送り込むなどしたせいで、結果として私学校の生徒が怒り、政府の弾薬庫に襲撃してしまうのです。

この事件が西南戦争のきっかけとなってしまうのです。
この知らせを聞いたとき西郷隆盛は、「ちょしもた(しまった)」と叫んだと言われています。薩摩の若者たちを心配すると同時に、自らの今後の運命を見抜いていたのかもしれません。破滅しか待っていなくても、若者たちの運命に寄り添うことにした、というのが西南戦争における西郷の関わり方であったのでしょう。

西南戦争は約半年の間、九州の各地で激戦を繰り広げることになりました。そして、いよいよ城山にて、西郷は股と腹部に銃弾を受け負傷してしまいます。そこで西郷隆盛は抵抗することをやめ、将士が跪いて見守る中、跪座し襟を正し、遥かに東方を拝礼しました。遥拝が終わり、切腹の準備が整ったところで、別府晋助に介錯されその生涯を閉じました。このとき享年49歳でした。

西郷隆盛の最後の言葉

敵からの銃弾を受け自分の最後を悟った西郷隆盛は、
「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と別府晋助に言ったそうです。
これが西郷の最後の言葉となりました。
この後に西郷は先程もお伝えしたように、別府晋助に介錯される形でその生涯を閉じます。
別府晋助は解釈する際に、「ごめんなったもんし(お許しください)」と叫んでいたそうです。

弟子に介錯される西郷隆盛、そして師と仰いだ西郷隆盛を介錯する別府晋助の気持ちを思うと、なんとも切ないですね。

西郷隆盛のエピソードを紹介

自分の信念を貫き通す強さと、周りの人たちを愛すことのできる器量の大きさを持ち合わせている西郷隆盛ですが、それをよく表しているエピソードがあります。ここではそれをご紹介していきます。

  • 西郷隆盛の人格は貧しかった幼少期に形成された
  • 西郷隆盛は木戸孝允との会談をドタキャンした

西郷隆盛の人格は貧しかった幼少期に形成された

西郷隆盛は貧しい武士の家に生まれました。貧しいのに兄弟が6人もの大所帯でしたから、子どもたちは朝から総出で、薪拾いをしたり畑仕事をしたりして、夜になってやっと家に帰るという生活をしていました。

小学生くらいの年になると、薩摩藩独自の「郷中教育」を受けることになります。郷中教育とは、町に住む子どもたちを年齢別に分け、勉学や武芸を教え込むという仕組みです。そこで特に重視されていたのが、「詮議」というもの。これは、「こんなとき、おまえならどうする?」という問題を出され、速やかに解決策を答えるというものでした。また、「嘘を言わないことは士道の本意である」(嘘をつくな)、「必要なときは遅れをとるな」(負けるな)、「弱い者いじめをするな」といった躾も叩き込まれます。

これらの経験や教育が、西郷隆盛の人格の基礎を作っていったと言っても過言ではないでしょう。

西郷隆盛は木戸孝允との会談をドタキャンした

薩長同盟を結ぶ前、坂本龍馬中岡慎太郎が尽力して木戸孝允との会談の場を設けてくれたのに、西郷隆盛はそれをドタキャンしています。会談場所であった下関を素通りして京都へと向かってしまうのです。

しかし、このドタキャンにはちゃんとした理由があります。
このとき西郷隆盛は大久保利通から緊迫した書簡を受け取ります。そこには、長州征伐のために幕府軍が西上してきていると書かれていました。それを知った西郷隆盛は、なんとか長州への攻撃を避ける術はないかと考え上京することにするのです。
木戸孝允との会談をドタキャンしたのは、長州藩のことを思うがゆえの行動だったのです。
さらに、西郷隆盛は大久保利通に幕府の長州再征に協力しないように指示します。そのため、一度はドタキャンに怒った木戸孝允でしたが、その後きちんと西郷隆盛の意図を汲み取り、同盟を結ぶことができたのです。

まとめ:西郷隆盛は政治家としても優秀で人望も厚く人を大事に生きた人物だった

西郷隆盛は、幼少期からそのリーダーとしての素質を発揮して、様々な場面で活躍してきました。学びに対する姿勢も積極的で、学者を驚かせるほどの博識ぶり。人望も厚く、決して他人を見捨てないで、寄り添っていくほどの愛。西郷隆盛がどれほどすごい人だったかということが伺えますね。
今回の内容をまとめると、

  • 西郷隆盛は薩摩藩独自の教育法によってその人格が形成されていった
  • 島津斉彬に見いだされたことをきっかけとして、どんどん国事に関する知識をつけていく
  • 島津斉彬を尊敬するあまり、その後を追おうと2度自殺を図った
  • 西郷隆盛は2度の島流しにあった
  • 命の危険を顧みない西郷隆盛の行動が薩長同盟を成功させる大きな鍵となった
  • 西郷隆盛は、明治政府の基礎を築き上げた
  • 西郷隆盛の最後は、薩摩の若者に寄り添う形で西南戦争に参加し、敗れて自害した

普通主君に逆らったらそれなりの罰を受けることは明らかであるのに、西郷隆盛は島津久光に対してあからさまにバカにした態度を取っていました。ひとえに島津斉彬への尊敬の念からきていたものなのでしょうが、あれほど他人への愛に満ちた西郷がそのような態度をとるなんて、よほど島津久光とは折り合いがつかなかったのだろうかと考えてしまいます。

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