島津斉彬の死因は本当に病死?暗殺?篤姫や井伊直弼、徳川家も関係している?

島津斉彬の死因は本当に病死?暗殺?篤姫や井伊直弼、徳川家も関係している?

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島津 斉彬1809年(文化6年)4 月28日〜1858年(安政5年)8月24日は、薩摩藩11代藩主で幕末を語る上では欠かせない人物です。幕末から明治にかけて活躍した薩摩藩出身の志士たちを見出したり、近代化に向けていち早く動いていました。幕末で開国するかどうか?尊王攘夷か?などと激動の時に突然亡くなった島津斉彬の死因は、

  • 病死(コレラ?伝染病?)
  • 暗殺(徳川将軍家関係者?島津家関係者?)

といった説があります。
当時は江戸の町を中心に、コレラが大流行していましたし、闘病中の症状から、他の伝染病の感染が死因とも考えられています。
また、徳川家の将軍継承問題、島津家の家督争、養女の篤姫あつひめ井伊直弼いいなおすけ、徳川家も島津斉彬の死に関わりがあるのではないかと考えられています。

今回は、島津斉彬の死因は本当に病死なのか?暗殺なのか?について解説していきます。

島津斉彬の死因は何?

島津斉彬の本当の死因は、江戸で大流行したコレラが原因で亡くなったとされていますが、症状などから考えて他の感染症が原因ではないかとも言われています。
また、死去のタイミングや、島津斉彬の死により利益を得た人が多くいたという事実もあり、実は病死ではなく暗殺されたという説も強く残っています。
【島津斉彬の死因と考えられている説】

  • 島津斉彬の死因は病死(コレラ・赤痢・感染症)
  • 島津斉彬の死因は暗殺(井伊直弼・島津家・徳川将軍家)

島津斉彬のなくなった時期

島津斉彬は、1858年(安政5年)8月16日、鹿児島城下で出兵のための練兵を観覧の翌日に発病し、8月24日に死去しました。わずか1週間の出来事です。

島津斉彬が亡くなった時期は、徳川家の将軍継承問題の真っ只中。
1858年(安政5年)。第13代将軍の徳川家定とくがわいえさだの死去に伴い、大老の井伊直弼と島津斉彬は次期将軍継嗣問題で真っ向から対立します。

一橋慶喜(後の徳川慶喜とくがわよしのぶ)を後押しする斉彬に対し、井伊直弼は血筋を重んじ、まだ幼い紀州慶福(後の徳川家茂)を推し、強引に慶福を次期後継に決めてしまいます。

そんな井伊直弼の強引なやり方に反感は高まっていきましたが、井伊直弼は、自身の意見に反対する大名や公家に対し安政の大獄を行い、厳しく取り締まるようになりました。

この事態を重く見た島津斉彬は、5,000の兵を率いて上洛し、幕府に抗議することを計画します。しかし、炎天下の城下で出兵のための練兵を観覧の翌日に倒れ、僅か7日後に急死します。そのあまりにも急な亡くなり方に、様々な死因説が浮上しているのです。

島津斉彬の最後の姿

島津斉彬は、井伊直弼のやり方に反発し、幕府に抗議するための上洛の準備をしている最中に突然倒れ、わずか7日後になくなりました。
島津斉彬は、炎天下の城下で出兵のための練兵を観覧、日傘もささず自ら馬に乗り陣頭指揮を取っていたと言われています。
その翌日から発熱し、腹痛や下痢もあったようです。一旦小康状態になるも、再び悪化。血便や、日に40回以上もトイレに行ったと、当時のカルテに記されているようです。
亡くなった当日は一旦体力が戻り、小康状態になりますが、斉彬自身は死期を悟っていたようで、弟の久光を呼び、後事を託しそのまま亡くなりました。

島津斉彬の死因は病死?コレラ?赤痢?感染症?

1858年(安政5年)の幕末、江戸で3万人の死者を出すほど大流行した感染症コレラ。
コレラは、汚染された水や食べものを通して感染し、激しい下痢や嘔吐を繰り返して、わずか数時間で死に至ることもあるという、恐ろしい感染症です。 

コレラが大流行した1858年に亡くなった島津斉彬も、このコレラに感染して亡くなったのではないか?と言われています。
しかし、斉彬がいた薩摩藩ではコレラの流行が収束しており、病状がゆるやかで高熱と解熱を繰り返しており、その特徴から考えると、死因はコレラではなく、別の伝染病か暗殺説なのではないかと考えられています。
赤痢という説もあったり、死の前日まで意識が保たれていることから、サルモネラ菌による腸管感染と敗血症の可能性もあったりと、はっきりとした原因は分かっていないようです。

島津斉彬の死因は暗殺?

島津斉彬は、何者かによって暗殺されたのではないか?とも考えられています。

島津斉彬は、倒れた際に、心臓が急激に弱っていたようで、猛毒であるヒ素を盛られて暗殺をされたのではないかという説があります。
ヒ素にも、高熱・下痢・心臓が弱るという特徴があり、コレラに該当しない特徴があることから、ヒ素による暗殺説が浮上したと思われます。

実際、島津斉彬が死去することで、利益を得た人物がいたというのも理由のひとつかもしれません。
疑わしいのは将軍継承問題で対立していた井伊直弼。また、島津家の後継問題もあったので、父親の島津斉興しまづなりおきと弟の島津久光しまづひさみつの両者。二人とも島津斉彬とは不仲だったとも言われており、父と弟によって暗殺されたとも言われているのです。

島津斉彬は井伊直弼に暗殺された?

島津斉彬と井伊直弼は、徳川将軍継承問題で対立した関係だったので、井伊直弼から恨まれていても不思議ではありません。実際、島津斉彬は、井伊直弼の強引なやり方に反論するため、5,000の兵を率いて上洛し、幕府に抗議することを計画していました。しかしその計画も、島津斉彬の死去により中止となりました。

島津斉彬の計画を阻止するため、井伊直弼が先回りをし、毒を盛られるなどして暗殺されたのではないかと言われているのです。

島津斉彬は弟の島津久光に暗殺された?

もう一つの暗殺説、それは島津家の跡継ぎ問題から起きた父 島津斉興と弟の島津久光による暗殺です。

島津斉彬は、弟の島津久光と不仲だったと言われています。

そう考えられている理由の一つが、島津斉彬の父 島津斉興の後継者問題です。

本来ならば嫡男の島津斉彬が継ぐはずです。しかし、斉興は、側室のお由羅との間に生まれた島津久光を溺愛し、彼を後継者にしようと考えていました。
なぜ、父の斉興は、嫡男の斉彬がいながら、側室の子・久光を後継者にと望んだのでしょうか。

そこには、斉彬の曽祖父、つまり斉興の祖父にあたる8代藩主 島津重豪しまづしげひでと関係があります。

島津重豪は、ヨーロッパ文化に大変強い関心を持ち、海外の物を取り入れ、藩の財政を湯水のように使い込んでいたため、藩の財政はひっ迫していました。
斉興が家督を継いで第10代藩主となった後も重豪は実権を譲らず、亡くなるまでの20年以上の間、藩政改革は重豪が行っていて、斉興は相当不満を持っていたようです。

やがて祖父・重豪が亡くなり、ようやく実権を手にした斉興は、財政改革を主とした薩摩藩の天保改革に取り組み、薩摩藩の財政は一気に回復させていきます。

島津斉彬は、幼い頃から曽祖父・重豪から大変溺愛されており、重豪の影響を受けて洋学に興味を持つようになります。
それが、斉興にとっては不満でした。万が一、斉彬が次の藩主になれば、重豪のように藩の財政を湯水のように使いまくり、再び藩の財政を悪化しかねません。

そんな理由から、斉彬が40歳を過ぎても家督を譲らず、斉興の側室 お由羅との間に生まれた久光を跡継ぎにしようと画策します。

それを察知した斉彬の側近が久光やお由羅の殺害を計画しますが、事前に計画が漏れ、首謀者を含め関係した者が切腹や謹慎などの処罰を受けました。

斉彬派の4人が必死で脱藩し、斉興の叔父にあたる筑前福岡藩主・黒田斉溥に援助を求め、その仲介で事態の収拾を行います。

幕府の老中だった阿部正弘あべまさひろは、徳川家慶とくがわいえよしに依頼して斉興を隠居させるよう命じられます(お由羅騒動)。

流石の斉興も、将軍の命令とあっては拒絶できず、嘉永4年2月2日(1851年3月4日)42年勤めた藩主を隠居し、しぶしぶ家督を斉彬に譲ったのです。
しかし、溺愛している久光に家督を継がせたいという気持ちは強く、斉彬を恨んでいた斉興が暗殺したのではないか?と考えられています。
また、父の溺愛を受け育った久光も父に同調し、斉彬を恨んで暗殺をしたのではないか?と言われているようです。

ところが、斉彬が勝海舟に出した手紙には、久光を褒め称えるような内容が書かれていたり、藩を継いだ後も何かと久光に相談に乗ってもらっていたというエピソードがあるようで、久光自身は反斉彬派に担がれただけで、2人の関係は一貫して悪くなかったという話もあるようです。

島津斉彬の死には篤姫や徳川家も関わっている?

13代将軍・徳川家定の正室 篤姫あつひめは、21歳の時に13代将軍 徳川家定とくがわいえさだと結婚します。

篤姫は島津家の分家である今和泉島津家の当主 島津忠剛しまづただたけの娘として生まれ、島津斉彬の養女として篤姫を迎え入れられています。

当時、斉彬は徳川家定の跡継ぎに徳川慶喜を推しおり、篤姫を家定に嫁入りさせることで慶喜を跡継ぎにという狙いがあったようです。

篤姫は、島津家の分家の出ですが、直系はないため貧しい暮らしをしていました。

そんな状況でも篤姫は温厚かつ忍耐力がある女性に育ち、そこを斉彬に見込まれて養女なったのです。才色兼備で容姿端麗な篤姫を徳川家に嫁がせるため、養女して家柄を変えるのが目的だったようです。

ところが家定が急死し、結婚生活は2年にも満たない短い期間で終わりました。2人の間には子は恵まれませんでした。徳川家定亡き後、跡を継いだのは慶喜ではなく、大老職に就任したばかりの井伊直弼が推していた徳川家茂でした。

徳川家定は諸大名を招集して「家茂を次期将軍に」と伝え、亡くなる前日に、慶喜派の諸大名の処分を発表しています。そして徳川斉昭とくがわなりあき徳川慶勝とくがわよしかつ、そして松平春嶽まつだいらしゅんがくらに閉門の上、自宅など一定の場所に謹慎や隠居などの厳しい処分を科したのです。

徳川家定の死からわずか10日というタイミングで島津斉彬が亡くなっていることから、家定側が、島津斉彬によって徳川家定は暗殺されたと思い込み、その仕返しで島津斉彬が家定派から暗殺されたのではないか?と言われているのです。

島津斉彬は名君だったため暗殺された?

島津斉彬は、ヨーロッパ文化に大変強い関心を持っていた曽祖父の島津重豪の影響を強く受け、ヨーロッパ文化や洋学に関心を持つようになりました。

島津重豪は、海外の物をどんどん取り入れ、藩の財政改革を逼迫させたので、その二の舞になるのでは?と考えた人間も多数存在し、斉彬派と久光派で薩摩藩が二分する抗争に発展しました。

結果、家督を継いだ島津斉彬は、関心のあった海外の技術や文化を取り入れた政治を行い、日本を近代化へとすすめるきっかけを作りました。そんな斉彬のやり方対して、最後まで反発があったことも否定できません。
しかし、島津斉彬は幕末から明治にかけて活躍した薩摩藩の藩士を見出すなど、非常に有能な手腕を発揮してます。

島津斉彬は西郷隆盛や大久保利通を見出した人物

明治維新で活躍した、西郷隆盛さいごうたかもり大久保利通おおくぼとしみちを見出した人物と言われています。
西郷隆盛は、江戸城無血開城を成し遂げ、15代将軍 徳川慶喜から江戸城を開け渡させ、徳川幕府を実質的に終わらせた明治維新の英雄的存在です。

薩摩藩の藩主になった島津斉彬は、薩摩藩をより良くするために広く意見を求め、届いた意見書を見て自ら返事まで書いていました。西郷隆盛も島津斉彬に多くの意見書を提出し、人々が困窮している実情を伝え、そして西郷隆盛の意見は斉彬に認められるようになります。

西郷隆盛は、元々薩摩藩の下級武士でしたが、島津斉彬はお庭方という役目を言い渡しています。
お庭方とは、表向きには薩摩屋敷の庭の手入れや掃除などをする役ですが、実際は殿のすぐ近くに仕え、政治について語らうこともあれば、殿の命を受け他藩との交流・情報収集なども行い、時には密事を命ぜられることもあったようです。
当時、身分の低い藩士が、藩主や家老といった身分の高い人物に拝謁するには、面倒な手続きが必要でした。
身分の低かった西郷隆盛を、常に側に置いて置くために作られた特別な役職とも考えられています。

島津斉彬は、暇があると庭にいる西郷を呼び出し、最新の世界情勢を教え、知識や行動指針を与えて育てていきました。師である斉彬亡き後、隆盛は斉彬の意思を受け継ぎ日本の近代化「維新」を成し遂げるために盟友だった大久保利通とともに活躍します。

1868年(慶応4年)西郷隆盛の手によって、ついに明治維新・倒幕が成し遂げられたのでした。

大久保利通は、1846年(弘化3年)より藩の記録所書役助をしていましたが、島津家の跡継ぎ問題で、父 大久保利世がお由羅の殺害計画に連座した罪で、罷免され謹慎処分となり、大久保家は貧しい生活を強いられていました。
しかし、島津斉彬が藩主となると謹慎を解かれ、島津斉彬や西郷隆盛と共に、薩摩藩の藩政改革に取り組みました。
明治維新にも大きく貢献し、西郷隆盛と共に、維新後は日本の近代化を推し進め活躍しました。

島津斉彬は、身分には関係なく優秀な人物を見出し見出し育てたこと、また日本の改革(明治維新)に大きな貢献をした名君と言えるのではないでしょうか?

島津斉彬の功績が素晴らしい

藩主としての期間は僅か7年と短かったが、島津斉彬は、数多くの功績を残しています。

  • 洋式帆船、反射炉、溶鉱炉の建設
  • 地雷、水雷、ガラス、ガス灯などの製造
  • アメリカから帰国したジョンマンジローを保護し、藩士に造船法などを学ばせ
  • 西郷隆盛・大久保利通を見出して育てた
  • 日本最初の国産蒸気船『雲行丸』開発成功

島津斉彬は、外国から攻め込まれても負けない強い軍を作るだけでなく、日本を経済面で負けないように、外国と対等に貿易をすすめていきました。様々な外国の技術や文化を取り入れ、日本を近代化へ繋げていきました。

島津斉彬の一番の功績といえば、西郷隆盛や大久保利通を見出だしたことです。
島津斉彬亡き後、その意思を受け継いだ西郷隆盛と大久保利通は、日本の近代化である明治維新を成し遂げるために活躍します。

まとめ:島津斉彬の死因は暗殺とも考えられているが、確証は出てきていない

島津斉彬の死因は、病気説や暗殺説などがあるが、どの説も確証がないため、はっきりとした死因は分かっていません。

  • コレラ感染やサルモネラ菌による腸管感染と敗血症による死因説
  • 将軍継承問題で対立した、、井伊直弼による暗殺説
  • 島津家後継者問題で、不仲説があった父・島津斉興による暗殺説

幕末最高の君主と言われ、多くの功績を残し、西郷隆盛や大久保利通などの優秀な人材を見出し育てた島津斉彬。将軍継承問題、家督争いと、時代や政治に流されながら、藩主となって僅か7年での死は、斉彬にとって無念だったことでしょう。

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