真田幸村の家紋は六文銭だけじゃない!家紋に込められた意味や由来を解説!
真田 幸村1567年(永禄10年)〜1615年(慶長20年)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名です。
幼少期は人質として過ごすなど苦労しましたが、豊臣方の武将として、大坂夏の陣で徳川家康の本陣まで攻め込み、家康を最後まで苦しめたことで知られる人物です。
そんな真田幸村の家紋と言えば「六文銭」が有名ですが、用途に応じて「州浜紋」や「結び雁金」という別の家紋を使っていたと言われています。真田幸村はそれらの家紋を、いつ・どんな時に使っていたのか?使い分けていた理由は何だったのか?
今回は真田幸村の家紋について、それぞれの家紋に込められた意味や由来について解説していきます。
目次
真田幸村の家紋は「六文銭」「結び雁金」「洲浜紋」
真田幸村が使い分けていた家紋は、
- 六文銭
- 結び雁金
- 洲浜紋
・真田幸村が家紋として使用した「六文銭」
六文銭は、死者が三途の川を渡る際に通るとされる六道(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上)の渡し賃を家紋にしたものであり、「いつ死んでもいい、決死の覚悟で戦う」という意味合いが強く、真田幸村は戦時に多く用いていたと言われています。
・真田幸村が家紋として使用した「結び雁金」
雁は、「幸せを運ぶ鳥」と言われています。「雁」という字は、「願」に語呂合わせをし、「雁」の羽を結び、願いを結ぶという意味が込められています。
真田幸村は、戦時色を出すのに相応しくない平時の時に、この「結び雁金」を使用していたようです。
・真田幸村が家紋として使用した「洲浜紋」
「洲浜紋」の洲浜とは、海岸に面した浜辺にできる島形洲(三角州)のことです。また洲浜は、中国の蓬莱山を真似て平安時代から祝賀の席に設けられた調度品(洲浜台)という意味もあります。
江戸時代には婚礼の飾りものとして用いられていたことから、縁起がよいとされ家紋に用いられるようになったと言われています。
基本形は丸を三つ組み合わせたもので、真田幸村は祝い事の際に使用したと言われています。
六文銭は戦時色が強い家紋であるため、真田幸村は「州浜紋」や「結び雁金」など、その用途に合わせて家紋を使い分けていたようです。
時は戦国時代、時代の流れもあり次第に「六文銭」の使用頻度が高くなったこともあり、「州浜紋」や「結び雁金」など、ほかの家紋の存在は薄くなっていきました。
真田幸村の家紋|「六文銭」の意味と由来
真田幸村の家紋の中で、最もよく知られているのが六文銭です。数多くいる戦国武将の中でも、これほど知られている家紋は他にはないくらい、有名な家紋です。
六文銭は、元々真田家の主君である海野一族が信仰的な意味で使用していたものであり、真田幸村が使用していた六文銭の家紋は、海野一族に由来しています。
「六文銭」の”六文”とは、三途の川の渡し賃のことで、死者は亡くなった後、”地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上”という6つの道を通るとされており、それぞれ通るのに必要な渡し賃が六文銭と言われています。
三途の川に向かった際に、六文銭を持っていれば衣服を奪われずに安心、と思われていたといわれており、いつ死んでも大丈夫なように、戦後時代に戦った足軽なども、衣服の袖に六文銭を縫い付けていたといいます。
真田幸村が六文銭を家紋として採用したのも、
“いついかなるときにおいても死をいとわない、決死の覚悟で戦う”。”戦において、いつ命を落としても構わない”という強い思いが込められており、主に戦の際に用いていました。
真田家が、六文銭を家紋として使用するようになった時期は、真田幸村の祖父 真田幸隆が武田信玄に支えた際に旗印として採用したという説や、武田家滅亡後に北条氏との一戦で勝利してから採用したとする説などがあります。
真田幸村の家紋|鳥をモチーフにした「結び雁金」の意味と由来
真田幸村が家紋として使用した結び雁金紋は、雁という鳥の両方の羽根を円形にねじった形をしています。
雁は、昔から「幸せを運ぶ鳥」として有名であり、独特の鳴き声から、縁起の良い鳥として中国で伝えられてきました。また、雁金には群れをなして飛ぶ習性があることから、雁金紋には「絆」の意味も込められています。
雁金は、江戸時代頃からよく家紋として用いられるようになり、真田家は替紋として使用し、戦時の色合いを出すことに相応しくない、平時(生活用品など)にこの結び雁金の紋を用いたと言われています。
真田幸村の家紋|「洲浜紋」の意味と由来
洲浜は吉兆をあらわすものとして、平安時代より衣服や調度、絵巻物などに文様として多用されてきました。
洲浜紋は飾りや調度品として使われる州浜台の意味があり、平安時代から慶賀の式などに使用され、婚礼の飾り物として用いられた縁起の良い紋とされています。また、中国の蓬莱山を真似て平安時代から祝賀の席に設けられた調度品(洲浜台)という意味もあります。
州浜のもつ”おめでたい”という意義や定まることのない姿が、世の中の変幻をも表すものとして、 神社の紋としても用いられていました。
このことから縁起がよいとされて、家紋に用いられるようになり、真田家でも、婚礼や祝い事の際には戦時色の強い「六文銭」は相応しくないとし、「洲浜紋」を用いたと言われています。
真田幸村が家紋に込めていた想いとは?
真田幸村は、その時々に応じて家紋を使い分けていたと言われています。
戦時とは異なる平和な平時には、”強い絆”という意味合いを持つ縁起の良い「結び雁金紋」を使用し、また、婚礼などのおめでたい祝い事の席では、「洲浜紋」を使い、戦時と平和な平時とを区別していました。
代表的な家紋は、戦時の際に用いた「六文銭」。
ここには戦時の世において、いついかなる時も”決死の覚悟で戦う”という、死を覚悟しながら戦に臨む強い決意が込められています。
その真田幸村の代表的な戦いと言われているのが「大阪の陣」。
真田幸村の軍は、戦力的に不利な豊臣軍に加勢し、徳川家康をあと一歩まで追いつめる活躍を見せています。
しかし、「大坂の陣」では、真田幸村は「六文銭」の旗印を使わなかったそうです(総赤に金線の旗印を使用。)
真田幸村が六文銭の家紋を掲げずに大坂の陣に挑んだのは、徳川家康の有力な家臣の娘を妻に迎えた幸村の兄の真田信之を思っての配慮であったといわれています。
まとめ:真田幸村は六文銭以外の家紋も使用していた!
真田幸村といえば「六文銭」の家紋が有名ですが、その時々の用途に合わせて、戦時色の強い「六文銭」を使わず、別の家紋を使用していました。
今回の内容をまとめると、
- 真田幸村は、六文銭以外の家紋も使用していた
- 戦時には「六文銭」、お祝い事には「洲浜紋」、平時には「結び雁金」と使い分けていた
- 時代の流れと共に「洲浜紋」と「結び雁金」の使用頻度は少なくなった
“いつ命を落としても構わない”という決死の覚悟を「六文銭」に込めて戦いに挑んできた真田幸村。戦国の世の人生を悔いなく全うした後に、きちんと死後の世界に送るような意味を含めたの