近藤勇の子孫の現在は?家系図で簡単に解説!坂本龍馬の子孫とも繋がりがある?

近藤勇の子孫の現在は?家系図で簡単に解説!坂本龍馬の子孫とも繋がりがある?

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近藤勇1834(天保5年)~1868(慶応4年)といえば、新選組の局長として有名です。その近藤勇の子孫は現在もいるのでしょうか?また、坂本龍馬の子孫とも繋がりがあるという話もあるのですが、本当なのでしょうか?この記事では、それらのことを近藤勇の家系図を見ながら簡単に解説していきます。

近藤勇の家系図を簡単に解説

近藤勇は江戸時代末期に、武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市)に、百姓の宮川久次郎の三男として生まれ、江戸牛込(現在の東京都新宿区)にあった天然理心流剣術道場 試衛館に入門、そして近藤家と養子縁組をし近藤性を名乗るようになりました。
近藤勇の家系図を見ていきましょう。

近藤勇の家系図

近藤勇に子供は何人いた?

近藤勇には子どもが全部で4人いたと言われています。正妻・つねとの間に娘(たま)が1人、妾・駒野との間に息子が1人、妾・お考との間に娘(お勇)が1人、妾・およしとの間に息子が1人です。このように、2人の息子と2人の娘がいたとされているのです。

また、明確な証拠がないので本当のところはわかりませんが、正妻との間にあと2人、妾との間にあと1人子どもがいたという話もあります。

近藤勇の子供たちはどうなった?

それでは、近藤勇の子どもたちがどうなっていったのかを詳しく見ていきましょう。

まず、正妻・つねとの子であるたまですが、近藤勇亡き後、叔父である宮川音五郎に引き取られます。その後、宮川音五郎の息子(次男)である宮川勇五郎と結婚することになるのです。そして、夫とともに近藤勇の後を継ぎ、近藤姓を名乗りはじめます。勇五郎との間には1人の子ども・近藤久太郎が生まれています。

妾・駒野との間の子の男子は、7歳のときに里子に出され僧侶となります。長じての後、近藤勇の菩提を弔う生活を送ったそうです。

また、妾・お考の子であるお勇は、母の出稼ぎ中に、母の姉である美雪太夫と揉めて家出をし、馬関(現在の下関)で芸妓となります。その際に、伊藤博文や井上馨などといった政府官僚のひいきになったこともあったという話もあります。その後、朝鮮人貿易商と結婚して3人の子どもを産んだとされていますが、正確な情報は残っていないようです。

近藤勇の子孫は現在も続いている?

近藤勇の子どもの中で孫を産んだのは、明確なところだと「たま」だけだと言えるでしょう。
ただし、たまの夫の勇五郎は25歳の若さで亡くなり、さらに子供の久太郎は1905年の日露戦争にて戦死してしまいます。これにより、近藤勇の直系の子孫は途絶えてしまうのです。

近藤勇の子孫と坂本龍馬の子孫が繋がっている?

近藤勇の子孫と坂本龍馬の子孫が繋がっているという話があります。
しかし、近藤勇の直系の子孫は途絶えてしまっています。さらに、坂本龍馬も子供がいたという史料が残っておらず、直系の子孫はいないとされています。そのため、近藤勇の直系の子孫と坂本龍馬の直系の子孫が繋がるということはまずないと言えるでしょう。

しかし、近藤勇に連なる血筋の人と、坂本家の血統の人が現代において出会い、その血が繋がったという事実はあるようです。この場合の坂本家の血統というのは、家督を継いだ坂本龍馬の兄である権平の子孫にあたります。坂本龍馬の兄の子孫を父に持ち、近藤家の子孫を母に持つという方が、以前テレビで取材され存在が確認されているのです。

幕末において敵同士であった2人の血族が、現代では家系図において繋がっているということは、時間の流れを感じさせますね。

近藤勇の生家、宮川家の血筋は現在も続いている

近藤勇の直系の子孫は途絶えてますが、近藤勇の生家である宮川家の血筋は脈々と現代まで受け継がれているようです。現在の当主は10代目・宮川豊治さんで、近藤勇の子孫として著作を出版されるなどしています。また、近藤勇が4代宗家となった天然理心流も宮川家の人間が後を継ぎ、現代は9代宗家を宮川清蔵さんが務めていらっしゃいます。

近藤勇の嫁は美人ではなかった?

近藤勇の正妻であるつねは美人ではなかったという話があります。つねには顔に痘痕があったとか、兎唇であったとか言われており、それが美人ではなかったという話に繋がっているのでしょう。

しかし、近藤勇は「美人は貞淑を欠くのが世の常である。しかし、醜女は自分が人並みでないことを知っているから、真心を持って夫に仕え、常に控えめでいるものだ。自分が殊更に醜女を選んだのは、この婦徳ある女性を得たいと願ったからだ」と語ったとされています。そのため、ある意味でつねは理想の女性であったのかもしれません。

また、鳥羽・伏見の戦いで破れ、江戸に帰還することになった時は、「京都に行くときはもう二度と妻子に会うまいと決心していたものを、今こうして帰ることになって妻子に会えるかと思うと嬉しいような気持ちです。まったくお恥ずかしい」と語っていたようです。さらにこのときには、土産としてつねに銀の指輪を渡したとも言われています。

このように、つねは美人ではなかったかもしれませんが、近藤勇はつねのことをとても大事にしていたということが伺えますね。

近藤勇には妾も沢山いた?

妻を大事にしていた一方で金銭的な余裕ができると、近藤勇も京都の遊女たちを囲うなどしていたようです。近藤勇の妾の一部をご紹介していきます。

  • 金太夫
    島原木津屋の遊女。京都でも5本の指に入るほどの美女だったようです。
  • 植野
  • 上七軒の芸妓。それほど美人ではなかったようですが、近藤勇が身請けして植野の実父のところで遊ばせていたようです。
  • 美雪太夫
    島原の若太夫。金沢生まれの背の高い美人さんであったと言われています。身請けされて京都池田屋近くに囲われていたところ、新選組の取り締まりを受けて近藤勇と知り合いました。
    その後、近藤勇が身請けして京都醒ヶ井木津屋橋下るの休息所に囲いました。そして、美雪太夫は妹のお考と一緒にここに住んでいましたが、美雪太夫が外出している間に近藤勇が妹にも手を出してしまいます。そのことに美雪太夫は怒り、二百両の手切れ金をもらって島原に茶屋を買い暮らしたそうです。
  • 駒野
    京都三本木の芸妓。近藤勇に身請けされた後、男の子を出産しています。近藤勇が処刑されてさらし首になってしまったときには、辻講釈師にお金を与えて、近藤勇の京都での功績や追悼の一席を口演させました。

まとめ:近藤勇の直系子孫は途絶えたが、坂本龍馬の血脈が繋がった子孫が現在もいる

近藤勇に子供はいたものの、直系の子孫続いてませんでした。しかし、坂本龍馬の血脈を引いている子孫と、近藤家の血脈を引いている子孫が繋がるという面白い繋がりもありました。
今回の内容をまとめると、

  • 近藤勇の子供が4人(息子が2人、娘が2人)いた
  • 近藤勇には、孫の久太郎もできたが、日露戦争によって若くして死去してしまった
  • 近藤勇の直系の子孫は途絶えている
  • 近藤勇の生家の宮川家は現代まで続いている
  • 近藤勇が4代宗家となった天然理心流も宮川家の人間が後を継いだ

近藤勇というと、堅物で武道一筋というイメージがありますが、意外と遊郭に通っていたのだなということがわかります。しかし、遊ぶだけでなく、きちんと身請けしているあたりに近藤勇の真面目さや誠実さが垣間見えますね。

近藤勇が局長だった新撰組に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております。

>>新選組とはどんな組織だったのか?年表や組織図、主な功績など簡単に解説!>>

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