新撰組の主要人物を簡単に解説!メンバーの性格や刀、最後まで生き残ったのは?
新選組は、江戸時代末期の京都において、治安維持活動を行っていた浪士団です。京都守護職を幕府から任命されていた、会津藩主の松平容保の庇護のもと発足し、主に反幕府勢力を取り締まっていました。そんな新選組はどのようなメンバーで構成されていたのでしょうか。彼らの性格や愛用の刀、最後の姿はどのようなものだったのでしょうか。幕末最強の剣客集団とも名高い新撰組の主要メンバーを、簡潔に紹介していきます。
目次
新撰組の人物一覧
新選組は優れた組織編制を行っていました。「局長」を頂点に、補佐役として「副長」「総長」が続きます。そして、副長の下に「副長助勤(組長)」などが置かれていました。江戸幕府や藩では、数人が要職に任命されていたのに対し、新選組では多くの役職で一人制が取られており、当時は画期的な組織編制でした。
一人制がとられていたことで、新選組の最大の武器ともいえる、迅速な指揮と機動性を発揮することができたといわれています。しかしながら、その分、一人が背負わなければいけない責任とプレッシャーはさぞや大きかっただろうなと思います。やはり新選組の幹部たちは、胆力の兼ね備えた人物たちだったのですね。
なお、新選組の組織は度々編成されていますが、今回は局長と副長と総長、そして一番隊から十番隊の主要メンバーを紹介していきます。
【新選組の主要メンバー一覧】
- 局長:近藤勇
- 副長:土方歳三
- 総長:山南敬助
- 一番組組長:沖田総司
- 二番組組長:永倉新八
- 三番組組長:斎藤一
- 四番組組長:松原忠司
- 五番組組長:武田観柳斎
- 六番組組長:井上源三郎
- 七番組組長:谷三十郎
- 八番組組長:藤堂平助
- 九番組組長:鈴木三樹三郎
- 十番組組長:原田左之助
新撰組で最後まで生き残ったのは?
新選組の主要メンバーの中で、幕末の動乱を生き残ることができたのは、たったの3名だけです。
その3名とは、
- 二番組組長 永倉新八
- 三番組組長 斎藤一
- 九番組組長 鈴木三樹三郎
この3名はいずれも明治時代も生き抜き、大正時代に亡くなっています。
ちなみに、十番組組長 原田左之助 は上野戦争で負傷し、その傷が元で亡くなったとされていますが、謎も多く、生存説がささやかれている人物です。
新撰組の局長|近藤勇
新選組の局長 近藤勇は、多摩の百姓の出身でありながら幕臣へと上り詰めた人物です。性格は、やさしくて穏やかとも、強情ものとも評されていますが、烏合の衆である新選組を率いることができる、武勇と剛胆さでは抜きんでていた人物だったようです。特に、土方歳三や沖田総司らの同郷の隊士からは、絶大な信頼を得ていたといわれています。
生年月日:
1834年(天保5年)~1868年(慶応4年);享年35歳
愛用の刀:
長曽祢虎徹(ながそねこてつ)
最後の姿:
甲州勝沼の戦いで敗れ、下総国(現代の千葉県)で新政府軍に投降し、江戸の処刑場で斬首されました。武士としての切腹ではなく、罪人として斬首されたのです。国のために命を賭してきた近藤勇としては、さぞや悔しいことだったろうと偲ばれます。
近藤勇は下総国で投降する際、「私という大物を捕まえるのだから、若い隊士たちは生かしてほしい」と自分に付き添っていた二人の隊士たちの助命を嘆願しています。近藤勇が周りに慕われていることに納得のエピソードの一つですね。
近藤勇については、こちらの記事でも詳しく解説しております。
>>近藤勇の子孫の現在は?家系図で簡単に解説!坂本龍馬の子孫とも繋がりがある?>>
>>近藤勇の最後を簡単に解説!なぜ処刑された?最後の言葉は?首はどこへ消えた?>>
新撰組の副長|土方歳三
新選組の副長 土方歳三は、近藤勇と同郷の道場出身で、近藤勇の右腕として新選組を支えました。
新選組に厳しい隊規をつくり、不逞の輩が多く集まる新選組の統率した鬼副長だったといわれています。一方で俳句を嗜むけれど下手だったり、感情豊かだったり、部下を気遣う優しさをもっていたりと、人間味あふれる人物だったようです。
生年月日:
1835年(天保6年)~1869年( 明治2年);享年35歳
愛用の刀:
和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)
最後の姿:
近藤勇が処刑された後、旧幕府軍として蝦夷地(現代の北海道)に渡りました。そして、戊辰戦争の最後の戦場になった箱館五稜郭の防衛戦で銃弾に倒れ、戦死しました。土方歳三が亡くなった後に実家に送られた、彼の愛刀「和泉守兼定」は、物打ち部分に複数の刃こぼれが見られ、騒乱の激しさを物語るものだったそうです。最後まで戦い抜いた土方歳三の姿を刀からも感じることができますね。
新撰組の総長|山南敬助
新選組の総長 山南敬助は、仙台藩士の子として生まれたと言われています。北辰一刀流免許皆伝の文武両道に優れた人物で、なおかつ親切者として隊士たちからも人気のある人物でした。
生年月日:
1833年(天保4年)~1865年(元治2年);享年33歳
愛用の刀:
赤心沖光(せきしんおきみつ)
最後の姿:
山南敬助は1865年に突如、置手紙を残して新選組から脱走します。新選組には、「隊を脱するものは切腹すべし」との厳しい規律がありました。山南敬助の脱走も許されるものではありません。連れ戻された山南敬助は規律に従い切腹をし、その生涯を閉じたのでした。
山南敬助はなぜ、突如脱走をしたのでしょうか。その理由は、今も謎につつまれています。
新撰組一番隊組長|沖田総司
一番隊組長の沖田総司は、十代で免許皆伝を受けるほどの天才剣士でした。近藤勇の一番弟子であり、兄のように心から近藤勇を慕っていました。性格は花街よりも寺で子供と遊ぶ方が好きな、冗談を良くいう陽気な人物だったそうです。
生年月日:
1842年(天保13年)~1868年(慶応4年);享年27歳
愛用の刀:
菊一文字則宗(きくいちもんじのりむね)
最後の姿:
凄腕の剣豪だった沖田総司ですが、最後は病魔に侵されます。当時は不治の病とされた労咳(現代の肺結核)に罹患し、一線を退きます。沖田総司が亡くなったのは、近藤勇が処刑された2ヶ月後でしたが、病床の沖田総司には近藤勇の死は知らされておらず、最後まで近藤勇のことを気にかけていたといわれています。
新撰組二番隊組長|永倉新八
二番隊組長の永倉新八は、沖田総司や斎藤一をもしのぐ剣の達人とも言われる強さと人情を併せ持つ人物だったそうです。ものごとに勢い込んで突き進む「がむしゃら」な性格だったようで、「がむしゃら」な「新八」ということで、「がむしん」のあだ名があったといわれています。
生年月日:
1839年(天保10年)~1915年(大正4年);享年77歳
愛用の刀:
播州住手柄山氏繁(ばんしゅうじゅうてがらやまうじしげ)
最後の姿:
永倉新八は、77歳の時、虫歯が原因で骨膜炎と敗血症を併発しなくなります。永倉新八は数少ない新選組の生き残りであり、晩年に彼が残した著書によって、それまで「悪の人斬り集団」とされていた新選組の再評価がなされるようになりました。今の新選組の人気は、永倉新八なくしてはなりえなかったのですね。
新撰組三番隊組長|斎藤一
三番隊組長の斎藤一は、寡黙な剣豪で、居合い抜きの達人でした。近藤勇や土方歳三からの信頼も厚く、新選組の様々な事件には、必ずと言っていいほど斎藤一が関与しているとされています。
生年月日:
1844年(天保15年)~1915年(大正4年);享年71歳
愛用の刀:
鬼神丸国重(きじんまるくにしげ)
最後の姿:
斎藤一は、71歳で胃潰瘍のため亡くなりました。新選組や過去の出来事については、多くを語らなかったと言われています。
まとめ:新撰組の人物は、それぞれ個性が豊かで魅力的だった
新選組のメンバーは、各々が一人一人ちがった個性を持っており、魅力的だったことがわかりました。幕末の動乱を懸命に戦った志士たちの生きざまは、現代の私達も魅了されるドラマチックなものでした。
今回の内容をまとめると、
- ・新選組の主要メンバーで生き残ることができたのは、永倉新八・斎藤一・鈴木三樹三郎」のたったの3名だけだった
- 新選組の主要人物は、剣技に長けたものが多く、それぞれが愛用の刀を持っていた
- 新選組のメンバーの多くは、激動の幕末を懸命に生き、短く太い人生を送った
新撰組には数百名の隊員がいた時期もあり、今回紹介したメンバー以外にも魅力的な個性豊かなメンバーがたくさんいます。日本が近代化するきっかけとなった時代を知るとともに、自分が感情移入できるメンバーを見つけてみると、幕末の歴史が楽しくなるかもしれません。
新撰組については、こちら記事でも詳しく解説しております。
>>新選組とはどんな組織だったのか?年表や組織図、主な功績など簡単に解説!>>