清少納言の本名は?諾子?なぜ本名が不明なのか?名前の由来などを簡単に解説!
清少納言(966(康保3)〜1025(万寿2))は、平安時代中期に活躍した歌人・作家です。
2024年の大河ドラマ『光る君へ』では、ファーストサマーウイカさんが演じられることでも話題となっています。
そんな清少納言は、実は本名ではないのです。
それでは、本名はなんと言うのでしょうか?
この記事では、清少納言の本名について簡単に解説していきます。
目次
清少納言の本名は何?
清少納言という名前は、実は本名ではありません。
それでは、清少納言の本名はなんと言うのでしょうか?
ここでは、清少納言の本名について簡単に解説していきます。
清少納言の本名は諾子?清少納言は女房名?
清少納言という名前は、実は本名ではありません。これは、女房名と言って、役職名なのです。
清少納言の本名を確証付ける資料が残っていないため、はっきりとしたものは判明していません。
一説によると、清原諾子(きよはらのなぎこ)だったのではないかと言われています。
これは、『枕草子』の注釈書として江戸時代に書かれた『清少納言枕草紙抄』に、この名前が残されていたことが根拠となっています。
しかし、これも他に資料が残っているわけでもないため、正しいかは不明なままです。
清少納言の本当の名字は確定している?
清少納言の本名は、はっきりと判明していませんが、本当の名字はほぼ確定しています。
清少納言の父親が清原元輔であると判明していることから、清少納言の名字は「清原」であるということになります。
清少納言の名前の由来は?
清少納言の名前は、女房名という役職名でした。
それでは、その女房名はどのようにして決まったのでしょうか?
ここでは、いくつかある清少納言の名前の由来を簡単に解説していきます。
清原家の始祖に敬意を示した?
まず1つ目は、清原家の始祖に敬意を示したという説です。
清少納言の家系・清原氏の祖に、清原有雄という人物がいます。清原有雄は、9世紀半ばに活躍した、皇族出身の清原姓を与えられた役人です。
一説によると清少納言は、この清原氏の祖にして、有能な清原有雄を称えて、彼の官職の1つであった「少納言」を自分の女房名に採用したのではないかと言われています。
ただ、清少納言の仕えていた一条天皇の頃に、先祖の名を女房名にした例がないことや、清少納言が敬愛していた父親を差し置いて、先祖の官職を取り入れるのは違和感があることなどから、信憑性には欠けるようです。
天皇の乳母だった元義母を受け継いだ?
2つ目に挙げられるのは、天皇の乳母だった元義母を受け継いだとする説です。
清少納言の最初の夫・橘則光には、右近尼(うこんのあま)という母親がいました。
この右近尼は、宮中で花山天皇の乳母を務めていたのです。
花山天皇には、複数の乳母がおり、その中には素性が不明ながら「少納言」という名前の乳母がいたことがわかっています。
そして、その活動記録から、少納言乳母と右近尼は同一人物ではないかと推測されているのです。
もし、これが事実であれば、右近尼は、清少納言の周囲で「少納言」を持つ人物であったということになります。
清少納言が宮中に仕えることになった際には、すでに橘則光とは離婚していましたが、離婚後も2人は宮中では兄妹と呼ばれるほど仲が良かったと言われています。
こうした人間関係から見ても、清少納言が宮中で名を知られていた元義母の「少納言」の名を受け継いだと考えられるようです。
ただし、少納言乳母と右近尼が同一人物かどうかの確証がないため、この説も断定はできません。
父が少納言になっていた?
清少納言の父親・清原元輔が、実は少納言になっており、そこから取ったのではないかとする説もあります。
清原元輔は、従五位下の位にあり、少納言職に就く資格を持っていました。
そして、清少納言が橘則光と結婚する少し前の時期に、官職の空白期間が存在しており、そのときに一時的に清原元輔が少納言になったのではないかと考えられているのです。
当時、歌人などがその実力から少納言に任じられ、天皇などに歌の助言を行うといったことがありました。
その点からみても、清原元輔は名の知れた歌人でしたので、可能性としては十分考えられます。
しかし、清原元輔が少納言になったという記録が発見されていないため、断定はできません。
少納言職の人とも結婚していた?
清少納言は、実は複数の男性と結婚していました。
清少納言の夫の中でも、先程からお伝えしていた橘則光や、藤原棟世という人物は、どちらも少納言にはなっていませんでした。
しかし、この2人以外にも清少納言には夫がいたかもしれないのです。
それが、藤原信義という人物です。
この藤原信義という人物が、少納言という職に就いていました。
藤原信義の父・藤原元輔と、清原元輔は親しかったとされており、親同士の縁で結婚がまとまったと考えてもおかしくありません。
しかし、清少納言と藤原信義が結婚したという資料は見つかっていないため、信憑性には欠ける説です。
定子に命名された?
実在した人物から名前を取ったとする説が有力ではありますが、例外的に、清少納言が仕えていた定子から命名されたとする説もあります。
少納言という官職は、天皇の側近のような仕事もこなしていました。
そのことから、定子が清少納言を高く評価したため、「私の少納言」という意味で名付けたのではないかと考えられています。
しかし、この説についても、決定的な資料が残っているわけではないため、断定はできません。
清少納言はなぜ本名で呼ばれなかった?
清少納言は女房名という役職名で呼ばれていました。
そして、その名が後世にも伝わっていっています。
なぜ清少納言は本名で呼ばれていなかったのでしょうか?
ここでは、清少納言が本名で呼ばれなかった理由を簡単に解説していきます。
平安時代は名前は「諱」とされ、隠されていた?
清少納言の活躍していた平安時代では、家系図などに女性の名前は明記せず「女子」などと書くのが一般的で、一部の高貴な女性を除いて、女性の名前は記録に残りにくいということがありました。
それに加え、当時は「本名は「諱(いみな)」である」という文化がありました。
諱とは、「忌み名」ともされることから、口に出すことすら憚れるようなものでした。
そのため、当時の人々は、基本的に親や非常に親しい間柄の人以外には、下の名前を隠していたのです。
このように、平安時代の女性の名前は残りにくかったという背景があります。
ちなみに、この諱の文化は、幕末維新頃まで常識として残り続けました。
明治に入って、やっと諱(本名)と通称を一緒に持つことが廃止され、現代のように名がひとつだけとなりました。
清少納言は女房名という官職名で呼ばれていた?
先程、平安時代の女性は名前を隠していました。
呼ぶときに使われていたのが、「女房名」などの官職名や通称です。
官職名や通称には、父親の名前や役職などが使用されていました。
それには理由があります。
当時、女性が嫁にもらってもらうために必要なことの1つに、父親の財力や地位がありました。男性は結婚の判断材料として、女性本人の性格などよりも、女性の親の財力などを重視していたのです。
つまり、女性が父親の地位を名前にすることで、その女性がどのような家柄なのかをぱっと見でわかるようにしていたわけですね。
このように、色々な要因から女性は本名を隠しており、清少納言も例に漏れず官職名で呼ばれていたというわけです。
まとめ:清少納言の本名は判明しておらず、女房名で呼ばれていた
清少納言の本名は、はっきりと明記した資料が残っておらず、不明のままとなっています。また、清少納言という名前自体は、女房名という役職名でした。
今回の内容をまとめると、
- 清少納言という名前は、女房名という役職名であり、本名ではない
- 清少納言の本名は、はっきりとは判明していない
- 清少納言の本名は、清原諾子という説もある
・清少納言という名前の由来は複数説があるが、断定はされていない
『枕草子』といえば、清少納言の作品という認識がありますから、今更、清原諾子と言われても違和感がありますよね。しかし、決定的な証拠が出てきたら、将来的に本名のほうが有名になることもあるかもしれませんね。