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柴田勝家の子孫は現在も続いている?家系図で簡単に解説!織田信長との関係は?

柴田勝家の子孫は現在も続いている?家系図で簡単に解説!織田信長との関係は?

柴田勝家1522年?(大永2年?)〜1583年(天正11年)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将で戦国大名です。

織田信長の家臣として有名な勝家ですが、その子孫は現在まで続いているのでしょうか?

この記事では、

  • 柴田勝家の家系図
  • 子孫は現在も続いているのか?
  • 織田信長との関係はどうだったのか?

を簡単に解説していきます。

柴田勝家の家系図をわかりやすく解説!

柴田勝家の家系図

柴田勝家の家族構成はどうだった?

【柴田勝家のプロフィール】

  • 柴田勝家(しばたかついえ)
  • 1522年?(大永2年?)〜1583年(天正11年) 享年:62歳
  • 出身地:尾張国(現在の愛知県)
  • 父:柴田勝義
  • 母:不詳
  • 妻:お市の方
  • 子:勝里、勝忠
  • 養子:勝春、勝政、勝豊、勝敏、佐久間勝之、女

柴田勝家は、1522年(大永2年)に尾張国で柴田勝義の子として生まれたとされています。
しかし、これには確実な資料はなく、父母が誰なのかははっきりとはしていません。
生年も大永6年説や大永7年説など複数存在しており、明確ではありません。

また、織田信長の後継者を決める清州会議で、勝家は諸将の承諾を得て、織田信長の妹であるお市の方と結婚しています。そして、柴田勝家は勝里と勝忠という2人の子供を授かりましたが、2人とも早世してしまったため、養子を6人迎えることにしました。(ちなみに、この2人の実子も本当にいたかどうかの確証があるわけではなく、お市の方との子供ではないようです。)

柴田勝家の妻「お市の方」

柴田勝家の妻は、お市の方です。このお市の方は実は、織田信長の妹に当たる人物なのです。

お市の方は、元々浅井長政あざいながまさの妻でした。

その時に、子供を3人授かっています。(茶々、初、江)

しかし、浅井長政に先立たれてしまい、織田家で子供とともに保護されることに…。

9年ほど過ごした後、清州会議にて諸将から承諾を得て、柴田勝家と再婚することになります。

柴田勝家は、お市の方と、その娘たちもとても大切にしたそうです。

その後、賤ヶ岳の戦いにて柴田勝家は秀吉に敗北してしまいます。

その際、お市の方は柴田勝家とともに自害したと言われています。享年36歳でした。

柴田勝家と織田信長の関係は?

柴田勝家は、元々信長の父・織田信秀の家臣として仕えていました。

織田信秀の死後は、信長の兄弟である信行に仕えることになります。

この際、柴田勝家は織田信行を織田家の後継者にしようとして、織田信長の排除を試みます。

しかし、戦いに敗れ降伏することに…。
ここで、柴田勝家は織田信長の力を認め始めます。
その後、柴田勝家は織田信長のために尽くし、家臣となるのです。
その活躍ぶりは、丹羽長秀とともに「織田の双璧」と呼ばれるほどでした。

織田信長の生前は主君と家臣という関係でしたが、信長の死後はまた関係が少し変化します。

なぜならば、勝家が信長の妹であるお市の方と結婚したからです。

つまり、柴田勝家と織田信長は義兄弟になったということになります。

始めは排除しようとするほど敵対していましたが、最終的には家系図で繋がるような関係になるのですから、柴田勝家は織田信長の力を認めてからの働きが優秀であったということが伺えますね。

柴田勝家の子孫は現在も続いている?

織田信長の家臣として非常に優秀であった勝家。その子孫は現在も続いているのでしょうか?

ここでは、柴田勝家の子孫について簡単に解説していきます。

柴田勝家の子孫は途絶えてしまった?

柴田勝家には、2人の実子がいたと言われています。(勝里、勝忠)

しかし、この2人とも早世してしまいました。
つまり、勝家の血はここで途絶えてしまったことになります。

しかし、家を存続させるために、勝家は6人の養子を迎えています。
これで家は安泰と思われましたが、賤ヶ岳の戦いの後、この養子たちもほとんど処刑されることになってしまい、柴田勝家の子供はみんないなくなってしまいました。

柴田勝家の家名は受け継がれた?

先程もお伝えしたように、柴田勝家の子孫は途絶えてしまいました。

しかし、その柴田の家名を受け継ぐ人物がいたのです。

それが、柴田勝家の養子である勝政の子・柴田勝重です。
柴田勝家は孫に当たる勝重をとてもかわいがっていたようで、賤ヶ岳の戦いの前には勝重に愛用の兜を与えていたというエピソードもあるくらいです。

賤ヶ岳の戦いの際、勝重はまだ幼く、北ノ庄を脱出して、母方お市の方の祖父・日根野高吉もとに逃れ生き残ります。

その後、江戸幕府に旗本として仕え、武功をあげ、家名を残すことに成功しています。

つまり、柴田勝家の子孫は途絶えてしまいましたが、家名は受け継がれたということになります。

柴田勝家と関係が深かった人物とは?

柴田勝家は、信長の家臣として中心にいた人物であったため、様々な人物との繋がりを持っていました。ここでは、勝家と関係が深かった人物について簡単に解説していきます。

丹羽長秀

柴田勝家と並んで「織田の双璧」と呼ばれていたのが、丹羽長秀にわながひでです。

丹波長秀は、信長から最も信頼されていた家臣だと言われています。

その証拠に、若狭国を丸々与えられ、織田家で最初の国持大名になっています。

そんな長秀と勝家は、各地で連携しながら信長の天下統一を支えていったのですが、清州会議にて意見が分かれ対立することになってしまうのです。

そして、そのまま賤ヶ岳の戦いでは、敵同士で争うことになります。

ちなみにこの戦いの最中、長秀は柴田勝家の養子である勝敏を討ち取り、その名刀「にっかり青江」を奪い取っています。

前田利家

「加賀百万石の祖」と呼ばれることでも有名な前田利家ですが、柴田勝家とは上司と部下のような関係だったと言われています。

というのも、前田利家は元々、柴田勝家の家臣なのではなく、織田信長直属の家臣で、いわば同僚のような存在だったのです。

それが、織田信長の命により、前田利家は与力大名として勝家の応援部隊になったわけですね。

賤ヶ岳の戦いでも、前田利家ははじめのうちは柴田勝家に味方しますが、途中で利家は秀吉側に寝返ってしまうのです。

その結果、柴田勝家は敗れ亡くなり、前田利家は生き延び、後に加賀百万石という江戸時代最大の領地を手にすることになりました。

浅井三姉妹(茶々、初、江)

浅井三姉妹である茶々、初、江は、お市の方と浅井長政の子どもたちです。

つまり、柴田勝家からすると、妻の前の旦那の子供ということになります。

実の子供ではありませんでしたが、勝家は三姉妹を本当の子供のように大切に扱ったと言われています。

柴田勝家は賤ヶ岳の戦いで、妻であるお市の方とともに自害してしまいましたが、三姉妹は城外へと逃がされ、秀吉に託されることとなりました。

このとき、お市の方は秀吉に宛てて、「娘たちの身柄を保障してくれるように」と手紙に記していたそうです。

柴田勝家と秀吉の関係は悪かった?

賤ヶ岳の戦いで争うことになった柴田勝家と秀吉ですが、元々この2人は仲が悪かったのでしょうか?

確実な資料がないので、推論にしかならないのですが、元々はそんなに仲は悪くなかったのではないかと予測できます。

柴田勝家は義理人情に厚い人物であったため、百姓の出であるにもかかわらず頑張っていた秀吉のことを、暖かく見守っていた可能性が高いのです。

それに加えて、秀吉は「羽柴」に改名する際、それぞれ上司である「丹羽」と「柴田」から一字ずつもらっているのです。

本当に仲が悪ければ、その名前を採用しようという気にすらならないでしょう。

しかし、そんな2人の仲が決定的に悪くなったのは、清州会議でのことです。

この会議にて、織田信長の後継者と領土の配分が決められたわけですが、秀吉と勝家は別々の人物を後継者として推していました。

ここで意見が分かれて、よくない雰囲気になっていたところに、さらに追い打ちをかけるように領土の配分が柴田勝家よりも秀吉のほうが多くなってしまうのです。

当然、柴田勝家からしてみると面白くない展開ですよね。

こうして、2人は敵対関係になってしまうのでした。

まとめ:柴田勝家の子孫は途絶えてしまったが、家名は受け継がれた

柴田勝家の実子が本当にいるかどうかの確証はなく、養子も賤ヶ岳の戦いの後、そのほとんどが処刑されてしまいました。そのため、柴田勝家の子供はみんないなくなってしまったのです。

しかし、養子である勝政の子・勝重が柴田の家名を受け継いでいました。
こうして柴田の家名は現在まで受け継がれることになったのです。

今回の内容をまとめると、

  • 柴田勝家は織田信長の家臣で、信長の妹・お市の方と結婚した
  • お市の方との間に子供は授かることがなかったが、2人の実子がいたという説がある
  • 実子は早世してしまったため、養子を6人迎えた
  • 柴田勝家の養子も賤ヶ岳の戦いの後、ほとんど処刑されてしまった
  • 柴田勝家の子孫は途絶えてしまったが、家名は勝重によって受け継がれた
  • 柴田勝家と織田信長の関係は、敵→家臣→義兄弟となった
  • 柴田勝家と秀吉の関係は、清洲会議以降に悪くなった

本当であれば、柴田勝家は織田信長と戦った後に殺されていてもおかしくありませんでした。

しかし、そこで命を救われ心を入れ替えたおかげで、最終的には織田信長と家系図で繋がる関係にまでなるというのは、なんとも不思議な縁だなぁと感じますね。

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