北条時政の家系図を簡単に解説!どんな人だった?執権になれたのはなぜ?
北条時政は1138年(保延4年)〜1215年2月6日(建保3年)、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての北条氏一門の武将で、鎌倉幕府の初代執権です。
鎌倉幕府をひらいた源頼朝の正室「北条政子」や、二代目執権の北条義時の父です。
平治の乱で平清盛に敗れ流罪人となった源頼朝を助け、鎌倉幕府成立させ、源頼朝の死後は権という地位につき、執権政治のもとをつくりました。
今回は、北条時政の家系図をもとに、
- どんな人だったのか?
- なぜ執権になれたのか?
について、簡単に解説していきます。
目次
北条時政の家系図を簡単に解説!
北条時政の家族構成はどうだった?
北条時政には3人の妻がおり、それぞれの子供を合わせて4男12女、16人の子供がいた。
北条時政の正室:伊東入道の娘(生没年不明)
【北条時政と伊藤入道の娘との子供たち】
- 北条宗時 :生年不明~1180年9月14日(治承4年)
- 北条義時: 1163年(長寛元年)~1224年7月1日(元仁元年)
- 阿波局: 生年未詳~1227年12月13日(嘉禄3年)
北条時政の継室:牧の方(生没年不明)
【北条時政と牧の方との子供たち】
- 平賀朝雅および源国通の妻:生年不明~1205年9月16日(元久2年)
- 滋野井実宣の妻:生年不明~1216
- 宇都宮頼綱の妻:生没年不明
- 北条政範:1189年(文治5年)~1204年11月27日(元久元年)
【生母不明の北条時政の子供たち】
- 北条政子 :1157年 (保元2年)~1225年8月16日(嘉禄元年)
- 北条時子:生没年不詳
- 北条稲毛女房:生年不詳武将(稲毛重成の妻)
- 畠山重忠および足利義純の妻
- 足利 義純(畠山義純)の妻:生没年不詳
- 北条時房:1175年(安元元年)~1240年(延応2年)
- 坊門忠清の妻
- 河野通信の妻
- 大岡時親の妻
当時、いつ命を落とすかわからない時代の中でしたが、16人の子供をもうけ育てていたことが、結果として執権北条氏が長く続いた理由の一つかもしれませんね。
北条時政はどんな人?
北条時政
1138年(保延4年)~1215年2月6日(建保3年):享年78歳
出身:伊豆国田方郡北条(静岡県伊豆の国市)
妻:正室(伊藤入道の娘)、継室(牧の方)
子:北条宗時 、北条義時、北条政子、阿波局、北条政範、他(計16人)
源頼朝の後援者として挙兵に協力し、鎌倉幕府をひらいた。
頼朝の死後は、鎌倉幕府の初代執権となって北条氏の繁栄の土台を築いた。
北条時政の年表
- 1138年(保延4年)
伊豆国の在地豪族の家に生まれる - 1159年(平治元年 または 保元4年)12月
平治の乱で敗れ流罪人となっていた源頼朝の監視役となる - 1180年(保延4年)
源頼朝と共に挙兵し、山木兼隆宅襲撃に参加
山木兼隆襲撃ののち、石橋山の戦い・富士川の戦いで平家軍を敗走させる - 1182年(寿永1年)
源頼朝が北条政子の妊娠中に不倫
それがきっかけで起きた亀の前事件で、頼朝の行動に時政が激怒し一族ごと伊豆へ立ち退く - 1185年(文治元年 または 元暦2年)
源頼朝と和解入京、京都守護として幕府の畿内での体制を再構築
「守護・地頭」を設置し、鎌倉幕府設立における畿内の支配体制を再構築する等の功績を残した - 1192年(建久3年)
源頼朝が後鳥羽天皇より征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉幕府を開く - 1194年(建久5年)
遠江国の守護となる - 1199年(建久3年)
源頼朝死去、源頼家が2代目将軍に就任
北条時政は、13人の合議制メンバーとして名を連ねる - 1203年(建仁3年)
同年7月に頼家が病に倒れる
頼家の後ろ盾である比企能員との対立が起こり、比企氏を滅亡させる
頼家を伊豆国修善寺へ追放
源実朝を3代将軍に擁立し、北条時政は初代執権に就任 - 1205年(元久2年)6月
畠山重忠の乱
源実朝の暗殺に失敗し、鎌倉から追放される
継室・牧の方との間に生まれた娘の婿である平賀朝雅を次期将軍に擁立するため、実朝の暗殺計画を立てたが、北条政子にばれて牧の方と共に伊豆国の北条へ幽閉される - 1215年(建保2年)
追放先の伊豆国北条にて死去。78歳
北条時政は何した人?
北条時政は、流罪人だった源頼朝をサポートし、共に戦って鎌倉幕府をひらきました。
頼朝の死後は、初代執権として幕府の運営を取り仕切るなど、鎌倉幕府の基礎づくりに大きく貢献した人物でもあります。
【北条時政がしたこと】
- 源頼朝と挙兵し、鎌倉幕府をひらいた
- 鎌倉幕府の初代執権となった
源頼朝と挙兵し、鎌倉幕府をひらいた
北条時政は、流罪となった源頼朝の監視役でしたが、娘の北条政子が頼朝と恋仲の関係になったことで、のちの人生が大きく変わりました。
平氏による追及の手が東国まで迫ってきたこともあり、危機感を持った源頼朝と北条時政は手を結ぶことを決意し、源頼朝の後援者として挙兵に協力するようになりました。
1180年(治承4年)8月17日に山木兼隆を襲撃し、伊豆国の国衙(地方政治を行う役所)を掌握。
石橋山の戦いでは、長男の宗時が討死しましたが、坂東(関東)で体勢を立て直し、次々と味方の軍勢を増やしていきました。
源頼朝と北条時政が中心となった源氏軍の兵士は、一族が先祖代々源氏との信頼関係で強く結びついており、兵士の質が高く兵士の士気しだいに上がってきました。
1185年(元暦2年/寿永4年)3月24日、「壇ノ浦の戦い」(現在の山口県下関市)で平氏が滅び、5年近くも続いた治承・寿永の乱が終結しました。
その後、源頼朝の命を受け京都に入った時政は、後白河法皇に「守護・地頭の設置」を認めさせたり、朝廷との政治的な交渉などなど多岐にわたる職務を遂行し、高い評価を得たのです。
そうして、源頼朝が1192年(建久3年)に後鳥羽天皇より征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉幕府を開いた。
平清盛を中心に、「平家にあらずば人にあらず」とまでの栄華を極めていた平家を滅亡させた影には、北条時政や北条一門の協力が欠かせなかったとも言えます。
北条時政は鎌倉幕府の初代執権となった
頼朝の鎌倉幕府成立後、北条時政は一旦は表舞台から退いていました。
1199年(正治元年)に源頼朝が53歳で急死し、18歳で跡を継いだ源頼家補佐するため、北条時政は13人の合議制の一員に名を連ね、ふたたび、幕府の有力者として表舞台に登場しました。
13人の合議制とは、頼家の独裁政治を抑えるため、有力な御家人13人から構成されていました。
1203年(建仁3年)7月、源頼家が病に倒れると、比企氏は病床の源頼家に北条時政追討の命令を出すよう迫るが、これを知った北条政子が父の北条時政に知らせたため、北条時政は先手を打って比企能員を鎌倉にある自邸へ呼び寄せると、手勢の天野遠景と仁田忠常に謀殺させました。
その後、比企一族を滅亡させ、さらに北条時政は源頼家の将軍職を廃し、頼家を伊豆国の修善寺へ追放。
朝廷に源頼家が死去したという虚偽の報告をし、源実朝を3代将軍に擁立しました。
北条時政は、3代将軍に擁立した源実朝を自邸の名越邸に迎え幕府の実権を握り、初代執権となって幕政を統轄しました。
北条時政から続いた、執権北条氏の系図
鎌倉幕府の執権は、初代の北条時政を含めて全部で16人です。
北条氏は、当初から鎌倉幕府内で大きな勢力を持っていましたが、第3代将軍・源実朝が暗殺された後は、幕府運営の実権は北条氏が握っていたといわれています。
【執権北条氏の一覧】
- 初代執権:北条時政(源頼朝の妻、北条政子の父)
頼朝と共に鎌倉幕府を築き、頼朝の死後、鎌倉幕府の初代執権となった - 二代目失権:北条義時(北条時政の次男)
時政と共に、鎌倉幕府の屋台骨を作る
1221年(承久3年)の承久の乱に勝利し、執権北条氏の地位を確立させる - 三代目執権:北条泰時(北条義時の長男)
1232年(貞永元年)8月27日、武家の法典「御成敗式目51カ条」制定
執権政治を確立させる - 四代目執権:北条経時(北条泰時の嫡男の北条時氏の長男)
- 五代目執権:北条時頼(北条経時の弟)
皇族将軍を擁立し、引付を設置し裁判の公正化と迅速化を図る
日本で初めての禅宗専門道場「建長寺」を鎌倉に創建する - 六代目執権:北条長時(北条時頼の義兄弟)
宗尊親王の将軍就任にも活躍
1256年(建長8年)6月、幕府評定衆、7月武蔵守 - 七代目執権:北条政村(北条義時の四男)
評定衆、連署などを経て執権職へついた - 八代目執権:北条時宗(北条氏の嫡流得宗家の出身)
1274年(文永11年)の文永の役、1281年(弘安4年)の弘安の役という2度の蒙古襲来を撃退
禅宗様の代表的建築物「円覚寺」を創建 - 九代目執権:北条貞時(北条時宗の子)
1285年(霜弘安8年)の月騒動に続く1293年(永人1年)平頼綱の乱を経て、得宗専制政治を確立
1297年(永仁5年)「永仁の徳政令」を発布したが、結果として幕府衰退を招く - 十代目執権:北条師時(北条貞時の子)
高時(14代執権)が成人するまでの繋ぎとして就任したと言われている - 十一代執権:北条宗宣(北条貞時の子)
- 十二代執権:北条煕時(北条政村の曾孫)
執権職に就任したものの、実権は内管領の長崎円喜に握らていた? - 十三代執権:北条基時(北条煕時のはとこ)
執権職に就任したものの、実権は内管領の長崎高資に握らていた? - 十四代執権:北条高時(北条貞時の三男)
北条氏最後の得宗
1324年(正中元年または元享4年)の正中の変、
1331年(元弘元年または元徳3年)の元弘の変で後醍醐天皇と争った
1333年(正慶2年または元弘3年)の東勝寺で自害し - 十五代執権:北条貞顕(北条実時の孫)
日本最初の図書館である金沢文庫の創設者
おとなしい性格で、あまり発言力はなかった - 十六代執権:北条守時(北条長時の曾孫)
鎌倉幕府最後の執権
実権は出家していた十四代執権の北条高時や、内管領の長崎高資に握られていた?
まとめ:北条時政の家系図からは、執権北条氏の流れがわかる
北条時政は、伊豆一豪族でありながら、流罪人の源頼朝を擁護し、共に戦い鎌倉幕府をひらきました。
源頼朝の死後は、執権として幕府を取り仕切り、執権北条氏の基礎を築きました。
今回の内容をまとめると、
- 北条時政は16人の子供がいた
- 北条時政は、鎌倉幕府をひらくのに尽力した
- 北条時政は、執権北条氏の地位を確立した
2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、坂東彌十郎さんが北条時政を演じていますね。
展開もスピーディーで、これから執権北条氏の確立がどのように描かれていくのかが楽しみですね。