渋沢栄一と徳川慶喜。日本資本主義の父と、江戸幕府最後の将軍の意外な関係。
日本資本主義の父と言われる渋沢栄一(1840-1931)。
2021年の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公として、吉沢亮さんが演じることでも注目を集めている人物です。また、2024年から新1万円札の顔となる人物でもあります。
渋沢栄一は、日本資本主義の父とよばれていますが、幕末から明治の日本の激動の時代を生き抜いた人物でした。
今回は、渋沢栄一と江戸幕府最後の将軍である徳川慶喜(1837-1913)、この二人の意外な関係を見ていきましょう。
目次
渋沢栄一と徳川慶喜の意外な関係
日本資本主義の父と呼ばれている渋沢栄一は、実は江戸幕府第15代征夷大将軍徳川慶喜に仕える幕臣でもありました。
幕末の時代、農民の出である渋沢は、一体どのような経緯で将軍に仕える武士となったのでしょうか。
詳しくみていきましょう。
渋沢栄一の人生を変えた徳川慶喜との出会い
埼玉県の豪農に生まれた渋沢は、幼少期から漢籍の手ほどきを受け、剣術も学んでいました。
1861(文久元)年、渋沢栄一は遊学のために江戸へ出て、儒学者である海保漁村の門下生となり、同時に北辰一刀流の道場に入門します。
そしてこの頃、渋沢栄一の人生を激変させる人物、一橋家家臣の平岡円四郎と知り合いました。
尊王攘夷の思想に目覚めた渋沢は、1863(文久3)年、従兄の尾高惇忠や渋沢喜作らと共に倒幕の計画を立てます。
高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜外国人居留地を焼き討ちにして幕府を倒すというものでしたが、従兄である尾高長七郎の懸命の説得により未遂に終わります。
渋沢は親族に迷惑がかからないよう父親に勘当された体裁を取り、京都に逃れました。ここで平岡円四郎に薦められ、禁裏御守衛総督として京都に常駐していた一橋慶喜、のちの徳川慶喜に仕えることになります。
これが渋沢栄一と江戸幕府最後の将軍 徳川慶喜の出会いでした。
もし、この高崎城乗っ取りの計画が実行されていたら、渋沢栄一による日本の近代化はなかったかもしれませんね。
渋沢栄一がパリ万博に参加したのは、徳川慶喜がきっかけ
1866年(慶応2)年、一橋慶喜(徳川慶喜)が第15代征夷大将軍になり、渋沢栄一は幕臣となります。
この頃幕府は、フランス皇帝ナポレオン三世からパリ万博に招待され、徳川慶喜の名代として弟の徳川昭武が欧州に派遣されることになりました。
警護役など合わせて20名の武士が慶喜により選出され、渋沢栄一は御勘定格陸軍附調役(会計係兼書記)として使節団の一員に任命されます。
そうして1867年(慶応3)年、27歳の渋沢は初めて海を渡り、フランスを始めヨーロッパ各国を訪問しました。
そしてヨーロッパで銀行や株式会社の仕組みなど最新の経済を学び、日本近代化の土台となる知識を身に付けていきます。
日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一ですが、そのきっかけを作ったのは徳川慶喜だったのです。
渋沢栄一の能力を見出した徳川慶喜
渋沢栄一は徳川慶喜に仕えて間もなく、人員不足にあえぐ一橋家のために兵を公募するなど、成功と実績を重ねていました。
少数精鋭のパリ使節団に選ばれたのは、計算にも実務にも強い渋沢栄一の能力を徳川慶喜が見出し、高く評価していたからです。
事実、渋沢栄一は欧州訪問中に経費節減に努め、博覧会出品物の売却などの使命をしっかりと果たしました。
また使節団には、弱冠14歳の昭武のお供として水戸藩から7人の藩士が同行しましたが、彼らは忠義心が強いものの外国人を敵対視する頑固さがありました。
徳川慶喜は、「渋沢ならば思慮があり、臨機応変な対応がとれる」と考え、まとめ役としても期待し渋沢を推挙したのです。
渋沢栄一とは一体どんな人だったのか、こちらの記事にも詳しくまとめてあります。
渋沢栄一は徳川慶喜のことをどう思っていたのか?
渋沢栄一は、主君である徳川慶喜が15代将軍になったことで、大いに葛藤していました。
のちに自分は実に逆境の人になったと語っています。
「もともと倒幕を志した自分が、将軍に仕え幕臣になることほど矛盾したものはない」と感じていたようです。
使節団への参加を要請された際は、自分はもう攘夷論者ではないと答え、徳川慶喜の要請に応えようと気持ちを新たにしていました。
渋沢栄一は徳川慶喜を尊敬していた
1868(明治元)年明治維新が起きたため、パリ使節団は帰国します。
渋沢栄一は帰国後すぐに静岡へ行き、謹慎している徳川慶喜と面会しました。
慶喜は「これからはお前の道を行きなさい」と言いましたが、渋沢は静岡にとどまり、そのまま静岡藩に出仕します。
その後渋沢は、官民合同で日本初となる株式会社「商法会所」を設立するなど、実業家として卓越した能力を発揮していきます。
このとき渋沢は幕臣の立場ではありませんが、徳川慶喜の恩義に報いるため、自ら進んで静岡藩に仕えました。
渋沢栄一にとって徳川慶喜は尊敬すべき、奉仕すべき存在だったのです。
徳川慶喜は、旧幕臣が訪問してもほとんど会うことは無く、直接二人で語り合える立場の渋沢栄一は、慶喜にとっても特別な存在だったようです。
渋沢栄一が徳川慶喜について編纂した「徳川慶喜公伝」
1893(明治26)年頃、渋沢栄一は徳川慶喜の伝記編纂を企図しました。
当初の編纂と執筆は渋沢と既知の間柄で、幕臣であり作家でもあった福地源一郎に依頼されましたが、福地の病気などで作業が一時中断します。1907(明治40)年に歴史学者の三上参次、萩野由之らを監修として編纂が再開され、ついに1918(大正7)年「徳川慶喜公伝」全8巻が刊行されました。
大政奉還や、江戸城を明け渡したことなどで、その当時は批判的な意見も多かった徳川慶喜の名誉を回復し、正しい姿を後世に伝えなければいけないという渋沢栄一の強い想いが、実に25年もの歳月をかけて結実したのです。
この徳川慶喜公伝は、1巻から4巻が慶喜の伝記、35章のうち誕生から静岡移住に至る前半生に33章までが当てられています。
作成にあたっては、様々な書簡や手記、談話が引用されました。
5巻から7巻は附録として、系図や年譜、文書の記録や引用書目を掲載。
8巻は索引と文書記録細目となっています。
渋沢栄一は徳川慶喜の良き理解者だった?
慶喜は江戸城を新政府に無血開城したため、逆賊とまで言われるほどの悪評を背負いながら謹慎生活を送っていました。
当時の情勢的にはフランス軍の援助を受けて薩長軍と戦うという選択肢もありましたが、江戸が戦場になれば100万人の市民が戦火に巻き込まれることになります。100万の命を守るため、徳川慶喜は256年続いた江戸幕府の滅亡を受け入れたのです。
のちに、渋沢栄一は徳川慶喜についてこのように語っています。
「公は世間から徳川の家を潰しに入ったとか、命を惜しむとかさまざまに悪評を受けられたのを一切かえりみず、何の言い訳もされなかったばかりか、今日に至ってもこのことについては何もいわれません。これは実にその人格の高いところで、私の敬慕にたえないところです」
また「徳川慶喜公伝」にはこう綴っています。
「侮辱されても国のために命を持って顧みざる偉大なる精神の持ち主」
徳川慶喜や大政奉還などについて、大正時代の教科書には、慶喜が城を明け渡した臆病者だと記されていますが、現在の教科書には外国の介入を防いで日本の独立を守った名君として記されています。
これは、徳川慶喜の最良の理解者であった渋沢栄一が、慶喜の尊厳を守ったともいえますね。
まとめ:渋沢栄一と徳川慶喜は、互いに認め合う素晴らしい関係性だった
日本資本主義の父「渋沢栄一」と江戸幕府最後の将軍「徳川慶喜」。
日本の歴史にとっては、どちらも重要な人物です。そんな二人は互いに信頼・尊敬し合う意外な関係でした。
今回の内容を簡単にまとめると、
- 渋沢栄一はもともと倒幕を計画していたが、徳川慶喜仕えた幕臣だった
- 渋沢栄一の才能を見出したのは徳川慶喜
- 渋沢栄一をパリ万博へ送り出したのは徳川慶喜
- 渋沢栄一は徳川慶喜を心から尊敬し、その名誉を回復するために「徳川慶喜公伝」を編纂した
渋沢栄一は、日本資本主義の父とも呼ばれ日本の近代化や経済に多大な影響を与えた人物ですが、自分が仕えた主君の尊厳を取り戻すためにも尽力した人物だったんですね。
渋沢栄一とは一体どんな人だったのか、こちらの記事にも詳しくまとめてあります。
わかりやすい記事をどうもありがとうございます。
渋沢栄一と徳川慶喜の関係について大変興味深いものがあります。
また埼玉はどういうところなのかについても
渋沢栄一は大いに参考になる存在だと思ったりします。