渋沢栄一とはどんな人?年表形式で簡単に、功績と人物像を徹底解説!

渋沢栄一とはどんな人?年表形式で簡単に、功績と人物像を徹底解説!

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現代にも残る名だたる大企業を500社以上も設立し、ノーベル平和賞に2度ノミネートされ、2024年から新一万円札の顔になり、2021年大河ドラマ青天を衝けの主人公渋沢栄一しぶさわえいいち
今回は、渋沢栄一とは一体どんな人だったのか、年表や逸話を紹介しながら、渋沢栄一の人生をを分かりやすく解説していきます。

渋沢栄一とはどんな人?

渋沢栄一は、幕末から昭和初期にかけて活躍した実業家です。
現代の日本経済の基盤を作り、「日本の資本主義の父」とも呼ばれる日本経済の発展に尽くした渋沢栄一の人生を、まずは年表で見ていきましょう。

渋沢栄一の年表

西暦(和暦)年齢                           
1840年(天保11)0歳
武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市)に、父・渋沢市郎右衛門元助、母・エイの長男として誕生

1845年(天保15)5歳
父から漢籍の手ほどきを受ける

1847年(弘化4)7歳
従兄の尾高惇忠おだかあつただのもとに通い、論語、四書五経、日本外史を学ぶ

1858年(安政5)18歳
尾高惇忠の妹・千代と結婚

1861年(文久1)21歳
江戸に出て儒学者・海保漁村かいほぎょそんの門下生となる
北辰一刀流の千葉栄次郎ちばえいじろうの道場に入門する

1863年(文久3)23歳
尊王攘夷の思想に目覚め、従兄で義兄の尾高惇忠、従兄の渋沢喜作らと倒幕の計画を立てるが、惇忠の弟で渋沢の従弟にあたる尾高長七郎おだかちょうしちろうの懸命な説得により中止する。
親族に迷惑がかからないよう、父に勘当された体裁を取り、京都に奔走する。

1864年(元治1)24歳
江戸で交友関係のあった一橋家家臣・平岡円四郎ひらおかえんしろうの薦めにより一橋慶喜ひとつばしよしのぶ(のちの徳川慶喜とくがわよしのぶ)に仕える

1866年(慶応2)26歳
一橋慶喜が征夷大将軍となったことに伴い、幕臣となる

1867年(慶応3)27歳
パリで行われる万国博覧会の使節団に随行、フランスへ渡航する。

1868年(慶応4/明治元年)28歳
明治維新により江戸幕府が倒れたため、帰国。
静岡で徳川慶喜に面会する

1869年(明治2)29歳
日本で初めての株式会社「商法会所」を設立。
大隈重信おおくましげのぶに説得されて明治政府に出仕し、大蔵省に務める

1873年(明治6)33歳
大蔵省を退官。
第一国立銀行を設立する

1882年(明治15)42歳
妻・千代がコレラで死亡

1883年(明治16)43歳
兼子と再婚

1909年(明治42)69歳
数え年で70歳の古稀に達し、実業界引退を表明。
第一銀行と東京貯蓄銀行(第一銀行系の貯蓄銀行)をのぞく61の会社役員を辞任

1916年(大正5)76歳
論語と算盤を著す

1931年(昭和6)91歳
永眠

渋沢栄一の家系図に関して、こちらの記事にも詳しくまとめてあります。

渋沢栄一とは何をした人なのか?

渋沢栄一は日本の資本主義の父と呼ばれています。

  • 日本で最初の株式会社を作った
  • 日本で最初の銀行を作った
  • 500以上の企業を設立に携わり育てた
  • 教育や社会事業、国際経済にも積極的に携わった

これらの功績が、近代日本経済の礎になったと言われています。
渋沢栄一は、500以上の会社設立に携わり、社会事業などにも携わったなんて、とても一人で行ったとは思えないほどの功績を残した人なんです。

渋沢栄一は、日本の近代化の土台を作った

渋沢栄一は武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市血洗島)の農家に生まれました。
藍玉(染料を固形化したもの)の製造販売と養蚕を営み、米や野菜なども生産する豪農で、21歳の時に江戸へ遊学します。

江戸幕府最後の将軍である徳川慶喜に仕えたことから、1867(慶応3)年パリの万国博覧会へ向かう使節団に随行し、ヨーロッパ各国を訪問。
最新の産業について知見を得ます。特に元銀行家のフリューリ・エラールからは、銀行や株式会社の仕組みを学びました。
渋沢栄一は、この時にヨーロッパ各国を訪問して西洋の文化に触れたことに刺激を受け、日本の近代化を強く意識するようになったといわれています。
きっかけは「パリ万博」だったんですね。

1868(慶応4)年明治維新が起き、使節団は帰国します。
渋沢は静岡に謹慎していた徳川慶喜と面会し、そのまま静岡藩に出仕しました。
静岡藩を説得し、官民合同で日本初となる株式会社商法会所を設立しました。
商法会所は金融商社のことで、現金の貸付や預金の受付、米穀や肥料の買付、事業を始める資金の貸付などを行いました。
今の銀行と商社の業務を兼ね備えたような会社です。

1869(明治2)年、大隈重信の求めに応じ、大蔵省の官僚になります。
明治政府の黎明期は日本がめまぐるしく変化した時代ですが、渋沢栄一も度量衡の統一廃藩置県に伴う藩札の引換簿記法や貨幣法の整備租税制度や郵便制度の導入国立銀行条例の制定などに携わりました。

予算編成を巡って大久保利通や大隈重信と対立した渋沢栄一は、1873(明治6)年に大蔵省を退官します。

そうして民間人となった渋沢栄一は、制定に関わった国立銀行条例に基づき、株式会社第一国立銀行を設立します。
この国立とは、国の条例に基づくという意味であり、国営という意味ではありません。
こうしてはじめて民間の力で経営される会社が誕生しました。
これを皮切りに、渋沢は近代日本の土台となる事業を次々に興していったのです。

渋沢栄一が関わった銀行に関して、こちらの記事にも詳しくまとめてあります。

渋沢栄一は、現代にも残る数々の有名企業を設立した

渋沢栄一が手掛けた事業は、銀行、ホテル、製紙、紡績、保険、ガス、汽船、鉄道、郵船など多岐に渡り、500以上の企業の設立・運営に関わりました。
その多くは現在も名を残す企業・事業で、ここではその一部をご紹介します。

【渋沢栄一が設立・運営に携わった企業(一部)】

  • 第一国立銀行(現在:みずほ銀行)
  • 帝国ホテル
  • 日本鉄道(現在:JR東日本)
  • 東京瓦斯会社(現在:東京ガス)
  • 共同運輸会社(現在:日本郵船)
  • 田園都市株式会社(現在:東急電鉄、東急不動産)
  • 東京株式取引所(現在:東京証券取引所)
  • 抄紙会社(現在:王子製紙、日本製紙)
  • 大阪紡績株式会社(現在:東洋紡)
  • 東京海上保険会社(現在:東京海上日動)
  • 麒麟麦酒(現在:キリンホールディングス)
  • サッポロビール(現在:サッポロビールホールディングス)
  • 秩父セメント(現在:太平洋セメント)
  • 畿内電気鉄道株式会社(現在:秩父鉄道株式会社)
  • 澁澤倉庫

現代でも名だたる大企業ばかりです。日頃目にする企業は、実は渋沢栄一が設立に関わっていたなんて、思いもよりませんよね。

渋沢栄一が関わった企業に関して、こちらの記事にも詳しくまとめてあります。

渋沢栄一は、教育や社会事業にも尽力していた

渋沢栄一はは実学教育や社会事業にも大きく尽力しています。

【渋沢栄一が設立・運営に携わった教育、社会事業】

  • 商法講習所(現在の一橋大学)
    森有礼と共に設立し、支援を続けました。
  • 大倉商業学校(現在の東京経済大学)
    創立委員として大倉喜八郎に協力。
  • 高千穂高等商業学校(現在の高千穂大学)
    評議員として設立に協力。
  • 東京女学館
    伊藤博文、勝海舟らと共に設立。実業界引退後には第五代館長を務めました。
  • 日本女子大学
    支援を続け、逝去直前の1931(昭和6)年には校長も引き受けていました。
  • 二松學舎(現在の二松學舎大学)
    第三代舎長に就きました。
  • 学校法人国士館/同志社大学/早稲田大学
    基金募集援助、運営支援を行いました。
  • 養育院(現在の東京都健康長寿医療センター)
    東京市からの要請で、困窮者の救済を目的とし運営しました。
  • 東京慈恵会/日本赤十字社/癩予防協会
    設立などに携わりました。
  • 財団法人聖路加国際病院/財団法人滝乃川学園(日本初の知的障がい児施設)
    初代理事長を務めました。
  • YMCA環太平洋連絡会議
    日本側議長に就きました。
    1923(大正12)年関東大震災の際は、いち早く臨時病院や避難所の開設を行い、孤児院を建て、大震災善後会を発足させて寄付金集めに奔走しました。
  • 日本国際児童親善会
    設立に携わり、アメリカの人形(青い目の人形)と日本人形(市松人形)を交換するなどして、交流を深めることに尽力しました。

渋沢栄一が関わった大学に関して、こちらの記事にも詳しくまとめてあります。

渋沢栄一とは一体どんな人物だった?

渋沢栄一が目指していたのは、民間の力で国の力を高めることであり、国民全体が豊かになることでした。国民が豊かになれば、世界と渡り合える日本になれると考えていたのです。
そんな渋沢栄一を慕い尊敬し、渋沢の家に寄宿していた若者たちは、勉学や成果発表の場として1886(明治19)年に龍門社を結成しました。
龍門社という組織の命名者は、旧師であり従兄・義兄の尾高惇忠です。
龍門社には経済界で活躍する人々が集い、昭和初期には数千名の会員数になりました。
現在は渋沢栄一記念財団に名称を変更し、活動が引き継がれています。

このように渋沢栄一は、実業家としての手腕に優れただけでなく、人々を引き付ける魅力的な傑物だったようです。そして、国民全体を豊にすることで世界と渡り歩こうと、青年の育成にも務めていたのです。

渋沢栄一の教え「論語と算盤」

渋沢は1916(大正5)年に論語と算盤を著し、幼いころに学んだ論語をベースに、倫理と利益の両立を掲げました。
道徳経済同一論です。
経済だけを発展させて利益を独占するのではなく、国全体を豊かにするため利益は全体で共有して社会に還元するべきと説き、自身も実践しました。
渋沢栄一が著した論語と算盤は、プロ野球の栗山英樹監督や、メジャーリーガーの大谷翔平選手も読んでると言われるほどの名著として、今もなお読み継がれ私たちに深い感銘を与えてくれます。

渋沢栄一の教え「士魂商才」

論語と算盤には、士魂商才しこんしょうさいという言葉が出てきます。これは渋沢の造語です。
この士魂商才のもとになった言葉は「和魂漢才わこんかんさい」です。
現代訳すると、「日本人としての大和魂を持ちながら、中国の学問を手本にして活用する」という意味です。
この和魂漢才は菅原道真が著したとされる菅家遺誡かんけいかいに記されており、幕末の頃により国粋主義的、尊王攘夷などの政治的な意味を込めた形で広められました。 
これを渋沢栄一は士魂商才として、人の世に立つには武士のような崇高な精神が必要だけれども、それに偏重して商才が無ければ経済上自滅するため、士魂と商才がなければいけないと説きました。

また渋沢栄一は、士魂商才を身に付けるにあたり、最もためになるのは論語だとしています。

渋沢栄一の教え「視観察」

論語と算盤には、視観察しかんさつという人間観察法についても記されています。
人を見抜くには、「視・観・察」の三つの方法がある。
第一に、その人の行動を視る
第二に、その行動の動機は何なのかを観る
第三に、その人がどんな目的を達成すれば満足するのかを察する

このように観察すれば、その人の人間性がはっきり分かるというものです。
忙しい身でありながら、面会の依頼があると可能な限り面会していたという渋沢栄一ならではの人間観察方法ですね。

渋沢栄一の教え「知情意」

渋沢栄一は、知・情・意ち・じょう・いという人間の3つの働きについて言及しています。

知は知性、情は感情、意は意志
知性を優先して己の利益を追及し、他人の感情を大切にしなければ周囲から人が離れてしまいます。
感情を優先すると、感情に飲み込まれて暴走することがあります。
意志を優先すると、自己主張が強いただの頑固者になってしまいます。

人間社会で成果をあげるには、この3つのバランスが大切だと渋沢栄一は説いています。

渋沢栄一の教え「蟹穴主義」

渋沢は蟹穴主義かにあなしゅぎという言葉で、自分の身の丈を知ることの重要性について触れています。
蟹は穴を掘るときに、自分の甲羅の大きさしか掘らない。
人間はつい欲を出して、自分よりも大きな穴を掘りたくなるが、掘った穴の大きさを誇るのではなく、自分の力量を見極めて自分のできることを行うことが肝要だと説いています。

渋沢栄一の逸話

渋沢栄一には、数多くの会社設立や社会貢献事業に携わったということの他にも、多くの面白い逸話があります。いくつかご紹介します。

渋沢栄一は実は過激派?高崎城を乗っ取ろうとしていた

江戸に遊学していた若き日の渋沢栄一は、尊王攘夷の思想に傾倒し、1863(文久3)年、従兄で義兄の尾高惇忠や従兄の渋沢喜作らと、高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜外国人居留地を焼き討ちにして幕府を倒すという計画を立てていました。
しかし、惇忠の弟で従弟の尾高長七郎の懸命な説得により、この計画は未遂に終わります。
これをきっかけに京都へ逃れ、一橋慶喜に仕えることになったのですから、数奇な運命としか言いようがありません。
もし、この時渋沢栄一が高崎城を乗っ取っていたら、日本の近代化は随分と遅れていたかもしれませんね。

渋沢栄一はノーベル平和賞の候補になった

1926(大正15)年と1927(昭和2)年の2回、ノーベル平和賞の候補になりました。
推薦書は、当時の加藤高明かとうたかあき内閣総理大臣をはじめとする政財界の連名で、他にも海外の著名人からも推薦されていました。
渋沢栄一は、アジアにおける経済外交の重鎮として、国内外から広く評価されていたのです。

渋沢栄一が、紙幣に掲載されるのは実は2度目?

2024年に新一万円札の顔となる渋沢ですが、実はこれまでにも紙幣に印刷される肖像の候補者として何度も選ばれていました。
1963(昭和38)年には最終選考まで残りましたが、当時は偽札防止のため髭のある人物を肖像にしていたことから、髭の無い渋沢は採用されませんでした。
このときに作成されたデザイン案は、お札と切手の博物館(国立印刷所博物館)に展示されています。

また、1902(明治35)年~1904(明治37)年に大韓帝国で発行された初期の第一銀行券には、経営者だった渋沢の肖像が描かれていました。
のちに韓国統監だった伊藤博文が、一国の紙幣に民間の銀行券を使用することに反対し、韓国独自の中央銀行に切り替えています。
渋沢栄一の顔がお札に印刷されるのは、実は2024年で2度目だったのですね。

渋沢栄一の功績に関して、こちらの記事にも詳しくまとめてあります。

まとめ:渋沢栄一とは、日本の資本主義の父と呼ばれ、まさに日本の基礎を作ったすごい人物だった!

渋沢栄一は、幕末に生まれ尊王攘夷派でしたが、平岡円四郎との出会いから幕府に仕えることとなり、パリ万博を視察したことがきっかけで日本の近代化を一気に押し進めた、日本の資本主義の父と呼ばれる人物です。

今回の内容を簡単にまとめると、

  • 日本初の株式会社や銀行を作った
  • 500以上の企業や学校・福祉事業に携わり、現在も多くの企業や事業が日本経済を支えている
  • 論語と算盤に基づく思想が、多くの企業人に影響を与えた
  • ノーベル平和賞の候補になったことが2回ある
  • 紙幣に印刷されるのは実は2度目

日本の資本主義と呼ばれる渋沢栄一の功績は数知れず、近代日本の基礎を築いたすごい人物だということが分かりましたね。
2021年の大河ドラマ「青天を衝け」でどのように描かれるのか楽しみですね。

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