新選組とはどんな組織だったのか?年表や組織図、主な功績など簡単に解説!

新選組とはどんな組織だったのか?年表や組織図、主な功績など簡単に解説!

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新選組とは、幕末の京都で治安維持活動をしていた浪士隊のことです。新撰組と表記されることもあります。大河ドラマやゲームなど様々なメディアで取り上げられていて、幅広い年齢層に人気があります。
今回は、その新選組とはどのような組織だったのか?年表や組織図をみながら解説していきます。新選組という名前の由来や、隊服に込められた想い、また、最後はどうなってしまったのかなどもご紹介します。

新選組とはどんな組織?

新選組は約6年間の活動期間があります。その間、どのようなことをしてきたのでしょうか?新撰組の年表を通して、新選組がしてきたことを確認していきましょう。

新選組の年表を簡単に解説

  • 1862年(文久2年)
    将軍・徳川家茂の上洛に際して、将軍警護の名目で幕府が浪士を募集
  • 1863年(文久3年)2月
    200名余りの浪士で「浪士組」を結成。将軍上洛に先駆けて京都へ出発する
    →会津藩お預かりとなり、「壬生浪士組」と名乗るようになる
  • 1863年(文久3年)8月
    会津藩と薩摩藩が長州藩を京都から追放した「八月十八日の政変」を手伝う
    →活躍が認められ、「新選組」の名前を得る
  • 1863年(文久3年)9月
    芹沢鴨と中心とする水戸派を一掃し、近藤勇・土方歳三を中心とする試衛館派が組織の中心となる
    ※試衛館:江戸時代末期に江戸市中にあった、天然理心流剣術の道場。ここに土方歳三や沖田総司など新選組の中核をなすようなメンバーが通っていたとされている
  • 1864年(元治元年)6月
    池田屋事件にて、御所焼き討ちを計画していた攘夷派浪士を追い詰める
  • 1864年(元治元年)8月
    禁門の変にて、京都での勢力を奪回しようとした長州藩が市街戦を決行。新選組はその鎮圧に幕府軍と共に参加
  • 1864年(元治元年)9月
    池田屋事件と禁門の変での働きが評価され、朝廷・幕府・会津藩から感状と恩賞を下賜される
    →第二次隊士募集。伊東甲子太郎らの一派を引き入れることに成功し、200名を超す大集団となる
  • 1867年(慶応3年)3月
    伊東甲子太郎、藤堂平助、斎藤一ら13人が御陵衛士を結成して離隊する(斎藤一は後に新選組に復帰する)
  • 1867年(慶応3年)6月
    幕臣取り立てが決まる
  • 1867年(慶応3年)12月
    油小路事件にて、御陵衛士との抗争が起きる
    →伊東甲子太郎らを暗殺する
  • 1868年(慶応4年)1月
    戊辰戦争勃発。鳥羽・伏見の戦いに幕府軍として参戦し、新政府軍と戦うが敗北する
  • 1868年(慶応4年)4月
    局長・近藤勇が新政府軍に包囲され投降する
    →土方歳三など残された新選組隊士は旧幕府軍へと合流する
  • 1869年(明治2年)5月
    箱館戦争にて、新政府軍と戦っていた土方歳三が戦死する
    →新選組は降伏し、解散する
    →旧幕府軍も降伏し、戊辰戦争は終結する

新選組の名前の由来と隊服に込められた想い

壬生浪士組は、会津藩から「新選組」という名を与えられました。
新選組とは、もともと会津藩にあった剣客集団の名で、それは武芸に秀でた藩士で構成されていたそうです。その名誉ある名を受け継ぐのに相応しいと認められたからこそ、新選組の名を与えられたのです。

また、新選組といえば、浅葱色で袖に白い山形が染め抜かれている羽織の隊服が有名です。
この羽織は、永倉新八が「ダンダラ」と述懐したことから、新選組のダンダラ羽織と呼ばれています。なぜこのデザインにしたのかという明確な記録はありません。しかし、忠義に殉じた赤穂浪士にあやかろうとしたのではないかと考えられています。

新選組の局中法度

新選組には、内部規律を守るための強制的な規律である局中法度きょくちゅうはっとと呼ばれるものがありました。これは1863年(文久3年)5月頃に芹沢鴨・近藤勇両局長が中心となって作ったと言われています。

この局中法度は、以下の五箇条からなります。

一、士道二背キ間敷事
一、局ヲ脱スルヲ不許
一、勝手二金策致不可
一、勝手二訴訟取扱不可
一、私ノ闘争ヲ不許
右条々相背候者切腹申付ベク候也

意味としては、

一、武士道に背くようなことはしてはいけない
一、新選組を脱退することは許されない
一、勝手に人の金を奪ったり借金したりしてはいけない
一、勝手に訴訟を起こしたり関係したりしてはならない
一、個人的な争いをしてはいけない
この五箇条を破った者は切腹をさせる

というものになります。

局中法度は、新選組の法として厳格に運用され、内部粛清に使用されていました。この局中法度により粛清された隊士は約50名にものぼります。これは、それほどまでに新選組内部での派閥争いが激しかったということも示しているのです。

新選組の組織やメンバーにはどんな人物がいた?

一時期は隊士が200名以上も所属していた新選組ですが、メンバーにはどのような人物がいたのでしょうか?ここでは、組織図を見ながら新選組の主要なメンバーについて解説していきます。

新撰組の組織図

1865年(慶応元年)当時の新選組組織図

新撰組の主要メンバー一覧

芹沢鴨せりざわかも
新選組結成当初の筆頭局長。近藤勇も局長でしたが、扱いは近藤より上席でした。しかし、日頃から乱暴狼藉が絶えなかったため、会津藩より処分せよとの命令が近藤に下ります。そして、近藤らが暗殺に踏み切るのです。これを機に、新選組は近藤を局長、土方歳三を副長とする指揮系統を整えていくことになります。

近藤勇こんどういさみ
新選組局長。江戸市中で試衛館道場を営み、その人柄を慕って多くの剣士が門人や食客になりました。戊辰戦争の際に新政府軍に捕まり、坂本龍馬暗殺の罪を被せられ処刑されてしまいます。

新見錦にいみにしき
新選組結成当初の副長。芹沢グループであったため、副長の中でも上席でした。しかし、芹沢同様乱暴狼藉が絶えず、局長の説得にも耳を貸さなかったため、隊規により切腹することになりました。幹部での初めての粛清者となります。

山南敬助やまなみけいすけ
新選組結成当時は副長でしたが、芹沢らの一派が一掃された後に、局長、副長に次ぐ地位である総長になります。しかし、元治2年に突然「江戸へ行く」と置き手紙を残して行方をくらましました。新選組において脱走は切腹と定められていたため、沖田総司が追跡し捕縛します。そして、そのまま切腹することになりました。

土方歳三ひじかたとしぞう
新選組副長。近藤勇とは義兄弟の契りを交わしていました。そのため、新選組では近藤の右腕として様々な指揮命令をしていたとされています。隊の規律を厳守していて、反するものがいれば誰であろうと粛清しました。戊辰戦争の箱館戦争にて戦死します。

伊東甲子太郎いとうかしたろう
新選組参謀。1864年(元治元年)の二次隊士募集にて、同門の藤堂平助の仲介で新選組に加盟しました。しかし、その後近藤と袂を分かち御陵衛士を結成し、新選組を離隊します。そして、油小路事件で新選組に暗殺されることになるのです。

沖田総司おきたそうじ
新撰組一番隊組長兼撃剣師範。剣の腕が天才的で、新選組の中でも一、二を争う遣い手でした。当時不治の病と言われていた肺結核のため、鳥羽・伏見の戦い以降参戦できないまま病死してしまいました。

永倉新八ながくらしんぱち
新撰組二番隊組長兼撃剣師範。剣の腕では、沖田と一、二を争っていました。明治を生きた数少ない幹部の一人で、新選組を離脱後は精兵隊を結成します。晩年は小樽で過ごし、最期は虫歯が原因で骨膜炎と敗血症を併発して亡くなりました。

斎藤一さいとうはじめ
新撰組三番隊組長兼撃剣師範。斎藤は敗戦が続いていっても、常に最前線で戦い続けます。その剣の腕は、沖田、永倉に並ぶとまで言われていました。終戦後は、東京に移住し警視庁に勤めて、晩年は学校の撃剣師範も勤めていました。最期は胃潰瘍のため、亡くなりました。

松原忠司まつばらちゅうじ
新撰組四番隊組長兼柔術師範。松原は壬生浪士組時代からの隊士です。最期は病死したとされていますが、謎が多く明確なことはわかっていません。

武田観柳斎たけだかんりゅうさい
新撰組五番隊組長兼文学師範。甲州流軍学を修めていましたが、幕府がフランス式兵制を取り入れたことによって時代遅れとなってしまいその地位が揺らいでしまいます。そのため、除隊を願い出て一旦新選組を離れることにしますが、密かに倒幕活動を行っていたことが露見し、暗殺されてしまいました。

井上源三郎いのうえげんざぶろう
新撰組六番隊組長。寡黙で温厚な性格で、組の中でも年長者でもあったので、近藤や土方からの信頼が厚かった人物です。最期は鳥羽・伏見の戦いにて、腹部に敵の銃弾を受けて戦死します。

谷三十郎たにさんじゅうろう
新撰組七番隊組長兼槍術師範。大坂焼き討ち計画を未然に防いだり、大坂の豪商との献金要請の際には交渉役を勤め、大金を得ることに成功したりしています。最期は京都の祇園社にて死去したとされていますが、死因は不明です。

藤堂平助とうどうへいすけ
新撰組八番隊組長。斎藤とともに、最年少幹部となります。剣の腕は確かで、市中巡察や戦いの際には、常に先頭に立っていました。伊東甲子太郎と共に新選組を離脱し、御陵衛士になります。最期は、新選組に殺害された伊東甲子太郎の遺骸を引き取りに来たところを襲撃されて戦死しました。

鈴木三樹三郎すずきみきさぶろう
新撰組九番隊組長。伊東甲子太郎の実の弟になります。そのため、兄とともに新選組に加入し、その後離脱して御陵衛士になります。油小路事件後は、新政府軍側として戊辰戦争に参加しました。晩年は警察官として勤めた後、老衰にて死去しました。

原田左之助はらださのすけ
新撰組十番隊組長。短気で豪傑肌の人物であったため、新選組の主だった戦いには全て参戦しています。永倉と共に新選組を離脱後は、精兵隊を結成。その後永倉とも別れ、彰義隊に入隊しますが、上野戦争で負傷を負ってしまいます。そのときの傷が元で死亡したとされています。

新選組の主な功績

新選組の主な功績といえば、池田屋事件が挙げられるでしょう。
池田屋事件とは、元治元年6月に京都三条の旗籠・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊皇攘夷派志士を、新選組が襲撃した事件です。
このとき、尊王攘夷派志士たちは、京都の放火と一橋慶喜・松平容保の暗殺などを企てていました。この事件で多数の犠牲者を出しましたが、これらのことを未然に防いだことにより新選組の幕府からの評価が上昇するのです。

また、尊王攘夷派志士たちの方にも犠牲者が多数出ており、このことが原因で明治維新が数年遅れたという説を唱えている人も居ます。

新撰組は坂本龍馬の暗殺に関係ある?

坂本龍馬といえば、薩長同盟の成立に協力するなど倒幕・明治維新に関与した重要な人物です。その坂本龍馬の暗殺に新選組が関わっているという話があるのです。

坂本龍馬が暗殺されたのは、1867年(慶応3年)11月に土佐藩陸援隊隊長 中岡慎太郎と共に京都河原町の「近江屋井口新助邸」にいるときでした。このときに、近江屋から数メートルのところにある土佐藩邸から駆けつけた谷干城(たにたてき)は、「こなくそ」と実行犯が伊予弁を話していたのを証言したのです。そして、新選組の中で伊予出身である原田左之助、大石鍬次郎らの仕業であると主張しました。

しかし、1870年(明治3年)に箱館戦争で降伏した元京都見廻組隊士 今井信郎いまいのぶおが坂本龍馬暗殺の実行犯であると自供していたことがわかりました。従って、これが現在の定説となっていますが、この他にも多くの異説が存在しているため、真相は闇の中です。

新選組の最後は戊辰戦争

一時期は200名を超えるほどまでに勢力を拡大し、幕臣にまで取り立てられるほど組織として絶頂の状態にあった新選組ですが、幕府が1867年(慶応3年)に大政奉還を行ったことにより雲行きが怪しくなってきます。

約300年続いた江戸幕府が終わりを迎えたその翌年、薩摩藩・長州藩・土佐藩を中心とした新政府軍と旧幕府軍との間に、最大の内戦である戊辰戦争が勃発します。そこに新選組は当然旧幕府軍として参戦しますが、初戦の鳥羽・伏見の戦いで敗北。戦況の不利を悟った隊士たちが続々と脱退していったことにより、新選組は一気に弱体化していきます。

その後も、甲府での戦いの後に原田左之助・永倉新八が離脱し、沖田総司は結核により病死、さらに局長である近藤勇も新政府軍に捕らえられて処刑されてしまいます。残された土方歳三らは、江戸から北上するように転戦していきますが、会津で斎藤が松平容保を守護するために離隊し、いよいよ新選組として残った人数はわずかとなってしまいました。

土方歳三は蝦夷地まで渡りましたが、最終的には銃撃にて戦死。その3日後に新選組は新政府軍に対して降伏します。これで、新選組は完全に終わりを迎えるのです。

戊辰戦争の後、新選組の生き残りはどうなった?

戊辰戦争の後、新選組のほとんどは死んでしまいましたが、明治維新後も生き残った幹部が3人だけ存在します。それは、永倉新八、斎藤一、鈴木三樹三郎です。この3人は新選組が終わった後、どのように過ごしていたのでしょうか?一人ずつ見ていきましょう。

・永倉新八
新選組を離脱して、靖兵隊を結成し、北関東にて抗戦します。しかし、会津藩が降伏したことを知り、そのまま江戸へと帰還。その後は、脱藩した松前藩の藩士として帰参が認められ、明治4年には結婚し、婿養子として松前に渡ることが決まります。
明治6年には杉村治備(のちに義衛)と改名し、小樽に移り住みます。刑務所の看守に剣術を教えたり、大学の剣道部を指導したり、退職後は江戸牛込で剣術道場を開いたりとアグレッシブに活動をしていたようです。
そして、大正4年に虫歯が原因で骨髄炎と敗血症を併発し死去します。享年77歳でした。

・斎藤一
戊辰戦争中は新選組が敗走する中、会津にとどまり戦い続けました。会津藩が降伏した後も戦い続け、松平容保が派遣した使者の説得によって投降し、謹慎生活を送ることになります。その後、会津藩は改易され、斗南藩となったので、斎藤も斗南藩士となりました。
斎藤は二度結婚しており、二度目の結婚後に改名して藤田五郎という名になりました。東京に移住した後は、警視庁に勤め、西南戦争には政府軍として参戦するなどしています。明治25年には退職。晩年は博物館の看守を勤めながら、撃剣師範も担っていました。
そして、大正4年に胃潰瘍が原因で、床の間に結跏趺坐(けっかふざ)をしていた状態で亡くなっていたそうです。享年72歳でした。

・鈴木三樹三郎
戊辰戦争では、新政府軍に加わり北越戦争や会津戦争を戦いました。鈴木は御陵衛士の隊士でした。そして、実兄である伊東甲子太郎を新選組に殺されていたので、最期まで新選組と敵対する新政府軍として戦っています。
明治以降は千葉県や山形県で、主に司法・警察関係に従事し、退官後は茨城県にて余生を過ごしました。大正8年に老衰のため死去します。享年83歳でした。

まとめ:新撰組とは、幕府を守るために結成された最強の剣客集団だった

新選組は基本的に浪人たちの集まりでしたが、幕府に忠義を示し続けたからこそ、幕臣にまで上り詰めたのでしょう。このことから、幕府を守るために結成され、最期まで幕府のために戦い抜いた最強の剣客集団だったということがわかりましたね。
今回の内容をまとめると、

  • ・新選組はもともと、将軍警護のために集められた浪人たちの集まりだった
  • ・前身は壬生浪士組
  • ・初期の頃は、芹沢鴨を中心とする水戸派と近藤勇を中心とする試衛館派に分かれていた
  • ・八月十八日の政変、池田屋事件、禁門の変、油小路事件などを経て体制を確立していった
  • ・功績が認められ、幕臣に取り立てられるまでになった
  • ・新選組は局中法度が厳格に運用され、内部粛清もだいぶ行われていた
  • ・戊辰戦争にて土方が討ち取られ、新政府軍に降伏することで新選組は最後を迎えた

年表を見ているだけでも、敵味方が入り乱れ、様々な思いを抱えながら戦っていったんだろうということが伺えます。その一場面一場面にドラマが生まれていたからこそ、新選組は幅広い年代の人たちに根強い人気を誇っているのかもしれません。

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