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和宮は左手がなかった?替え玉だった?徳川家茂の妻 皇女和宮の謎に迫る!

和宮は左手がなかった?替え玉だった?徳川家茂の妻 皇女和宮の謎に迫る!

江戸幕府の第14代将軍だった徳川家茂とくがわいえもちの正室 和宮親子かずのみやちかこは、日本の長い歴史の中で、武家に嫁いだ唯一の皇族の女性です。幕末の動乱を治めるために、公武合体の象徴として、江戸幕府へと降嫁してきました。

そんな皇女和宮には、数多くの謎が存在しています。
左手が無かった、替え玉だった、また棺の中に成人男性が写った写真を抱えていたと言います。その写真に写っていた人物は誰だったのでしょうか?
今回は、激動の幕末を生き抜いた皇女和宮の謎に注目していきましょう。

皇女和宮にまつわる謎

江戸幕府の再編強化をはかる政策、公武合体の象徴として将軍の徳川家茂に皇族から降嫁してきた悲劇の皇女 和宮には、いくつもの謎めいたエピソードが存在しています。

【皇女和宮にまつわる謎】

  • 皇女和宮の棺には、左手の無い女性が眠っている。皇女和宮は、左手が無かった…?
  • 徳川幕府に嫁いできた皇女和宮は、替え玉?
  • 皇女和宮の棺の中で、遺骸が抱えていた写真に写る成人男性は誰?
  • 皇女和宮の棺の遺骸と,徳川家茂の棺に入っていた和宮の髪では、DNAが一致しなかった?

それぞれの謎を簡単に解説していきます。

和宮には左手がなかった?

1950年代(昭和30年代)に、徳川将軍墓所のある増上寺の一部が売却されることになりました。現在の東京プリンスホテルがある場所です。これに伴い歴代将軍と正側室の墓所が改葬の為、発掘調査される事となり、和宮の墓もその対象となりました。

この時の報告書に、
「皇女和宮の遺骨はキレイな状態で残っていたにも関わらず、左手の手首から先の骨が、いくら探してもみつからなかった」
と書かれていたのです。

和宮の遺骨には、左手首から先が無いことは、事実のようです。そこで、別の謎がでてきます。

  • 皇女和宮は、生前から左手が無かったのか?
  • それとも、亡くなった後に左手が無くなったのか?

【皇女和宮は、生前から左手が無かった説】

  • A:皇女和宮の肖像画には、左手が描かれていない。
  • B:反対意見:当時の美意識により、手を描かれていない作品は他にも存在している。

「皇女和宮は生前から左手が無かった」と考える人々が掲げる証拠のひとつが、皇女和宮の銅像や肖像画です。
増上寺にある銅像や日本女子会館にある銅像では、皇女和宮の左手が隠れており、肖像画にも写真にも左手が描かれていないからです。このことから、皇女和宮は、何かの出来事により、左手首を欠損したのでは、と推測できるというのです。

しかしながら、反対意見も存在します。
皇女和宮以外の人物が書かれた肖像画や浮世絵、写真でも、両手や片手を着物の袖に隠したものが、多く存在しています。よって、皇女和宮の銅像や肖像画に左手が描かれていなかったことは、生前から左手を失っていた直接の論拠とするには、弱いと言えるのではないかというのです。

実際、江戸時代では手が小さい方が美人とされていましたし、明治時代になって、
写真が出現した時も、写真に手が写ると手が大きくなるとの俗信が流行り、手を隠して写真を取るこたは珍しくなかったそうです。着物の構造上、両手首まで見えている着物よりも、手が隠れるくらいたっぷりとした着物を着ている方が上品に見えることも確かですし、十二単のような皇族の正装姿では、左手は出さないことがルールとしてあるそうです。

【皇女和宮が亡くなった後に左手が無くなった説】

  • A:左手欠損に関する記録が存在していない
  • B:かの部分はキレイに残っているので、左手首だけが無くなるのは不自然

皇女和宮が亡くなった後に左手首から先が無くなったのでは?と考える人々の中には、皇女和宮が生前に左手を欠損したのだとしたら、どの文献にも記録がないのはおかしい。というのです。
それに対して、「ほかの体の部分が残っているのに、左手首より先の部分だけが無くなるのは不自然である」という意見もあります。

皇女和宮は亡くなる前の3年もの間、脚気を患っていたため、左手首の骨がもろくなっていました。そのため分解が早く進んだ」と主張していたり、「発掘時に土砂が入り込んだため、泥にうもれてしまった」や、「棺が欠損し、遺骨の姿勢が不自然であった点から埋葬時に棺を落とすなどのトラブルがあり、左手が粉砕されてしまった」などの説明がされています。

和宮の左手がなくなったのは生前?死後?
いずれにせよ、棺の中で眠る皇女和宮の左手は確かに存在していないようです。左手がいつ欠損してしまったのかは、生前説も生後説のどちらも決め手に欠けると言わざる得なく、未だ謎の中といえるでしょう。

和宮は偽物?替え玉だった?

皇女和宮は、偽物でだったとの逸話が存在しています。朝廷から幕府に嫁いできたのは、皇女和宮の替え玉だったというのです。

替え玉説の根拠のとされているのが、徳川家改葬の発掘調査の際の遺骨です。
皇女和宮は小さい頃から関節炎を患い、足が不自由だったといわれてます。しかしながら、調査隊が確認した和宮の遺骨からは、足は極端な内またであるものの、足が悪かった形跡はみられなかったというのです。

また、勝海舟の氷川清話では、
「御殿の庭の踏み石に、姑の篤姫と和宮の履物が置いてあり、夫である将軍徳川家茂の草履が下に落ちていたのを見つけた和宮は、ポンと庭に飛び降りて、自分の履物を下におろし、将軍の草履を石の上にあげた」
というエピソードがあります。
足が悪いはずの和宮は、ポンと庭には飛び降りられませんし、生粋のお姫さま育ちの和宮はそのような行動を果たしてとるのでしょうか?

和宮の遺体とともにあったのは、徳川家茂の写真?

徳川家改葬の発掘調査の際、皇女和宮の棺の中から、一人の成人男性が写った写真がでてきました。
写真といっても、ガラス板に薬剤を塗って像を移す湿板写真ですが、名刺サイズの小さな写真に写った男性は、長袴の直垂に立烏帽子をつけた姿だったそうです。

和宮の遺体とともにあった写真の人物は、一体誰だったのでしょうか?

最も有力なのが、夫である徳川家茂です。
和宮が亡くなった時には、徳川家茂はすでに亡くなってから11年が過ぎていましたが、その間ずっと大切にしていた写真だったのかと想像すると、胸が切なくなりますよね。

他にも、元婚約者だった、有栖川宮熾仁親王ではないかという説もあります。
公武合体の政略結婚で婚約破棄になってしまった相手を思い続けていたのでは?というわけです。

また、異母兄である孝明天皇ではないか?との説も存在しています。

様々な説を秘めたこの写真ですが、残念ながら現在は見ることはできません。写っていた人物は消えてしまい、ただのガラス版になってしまっているからです。

発掘時、写真とは気が付かずに懐中鏡の一部だと思いながら、博物館に持ち帰えられます。
博物館で発掘品の整理をしていたところ、ふと伝統の光に透かして見たら、写真であることを発見したというのです。しかしながら、調査員は仕事場の台に立てかけた状態で帰宅してしまい、翌朝来たときには、写真の膜面は消えてしまっていたのでした。

棺の中の保存環境が良くなかったことに加えて、見つけた後に保存処理をせずに帰宅してしまったことが、写真が消えてしまった原因とされています。
世紀の発見の損失にあきらめきれない調査員たちは、銀成分が残っていないか等、様々な方向から復元へのアプローチをしましたが、いずれもうまくいかなかったようです。

現在でも、写真に写っていた人物が誰だったのかは判明していません。技術が今よりも進んだいつの日か、復元できる日がきてほしいものですね。

和宮の髪じゃない?徳川家茂の遺体とともにあった謎の髪の毛

徳川家茂の墓には、女性のものと思われる頭髪が一緒に埋葬されていました。
和宮は、徳川家茂死去の報せを聞くと、自らの髪を切り、急使をもって送り届けたという記録が残っています。

しかしながら、徳川家茂の遺体とともにあった頭髪は、和宮のものではないといわれています。

徳川家茂の棺の中から、発見された美しい黒髪。DNAで分析してみると、その髪の毛の持ち主は血液型がA型である可能性が高いことがわかりました。

和宮の棺からも頭髪が採取され、DNA分析の結果、血液型がA型との結果がでました。
つまり、当時のDNA解析の結果では、別人の髪の毛だとは示していないのです。
ではなぜ別の人の髪と判断されたのでしょうか?

それは、頭髪の色です。
家茂の棺からみつかったのは、黒々とした頭髪だったのに対し、和宮の頭髪は赤味かかっていたというのです。

側室をもたなかったと言われている徳川家茂の棺の中の頭髪は、一体誰のものなのでしょうか?今となっては真相は闇の中です。

和宮と徳川家茂の仲はどうだった?

公武合体の象徴として、政略結婚からはじまった和宮と徳川家茂。
結婚前は降嫁を渋っていた和宮でしたが、徳川家茂が誠実に大切に接してくれたおかげで、次第に二人の関係はよいものになっていったと言われています。
徳川家茂が上洛しなければいけなくなった際は、和宮はお百度参りをして安全を祈願したといわれています。
徳川家茂が亡くなった後も、和宮は京へは戻らず、篤姫と協力して江戸城の無血開城に尽力したり、15代将軍の徳川慶喜に朝廷への手紙の書き方を指導するなど、全面的に幕府に協力しています。
生前に徳川家茂を嫌っていたとはとても思えません。
また和宮は自分が亡くなる際も、武家の妻として仏式で葬儀が行われ、徳川家茂の隣に葬られています。

わずか4年弱の短い夫婦生活でしたが、和宮と徳川家茂の間には、強い愛情があったのではないでしょうか。

まとめ:和宮の遺体は左手もなく、替え玉説もあるが、今となっては真相は闇の中

激動の幕末から明治時代を生きた皇女和宮には、ドラマチックな人生に付随するように数々の謎が存在していることがわかりました。

今回の内容をまとめると、

  • 皇女和宮には左手が無かった可能性がある
  • 江戸幕府に嫁いできた皇女和宮は替え玉だった可能性がある
  • 皇女和宮の副葬品である写真には成人男性が写っていたが、写真の被膜がはがれ、誰だったか不明
  • 徳川家茂の棺に副葬品として入っていた髪は、和宮のものではない可能性がある

公武合体の象徴として、政略結婚だった徳川家茂と皇女和宮。日本で唯一武家社会に嫁いだ皇女の謎が、いつか解明できるようになる日はくるのでしょうか?

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