紫式部の百人一首の歌は?歌の意味や背景のエピソードなどを簡単に解説!
紫式部(生没年不詳)は、平安時代中期に活躍した歌人です。
『源氏物語』や『紫式部日記』など、日本文学を代表する作品を書き残しました。
そんな紫式部の詠んだ歌が百人一首にも収録されています。
紫式部の詠んだ、百人一首に収録されている歌はどのようなものなのでしょうか?
この記事では、紫式部の百人一首に収録された歌の意味や、背景のエピソードなどを簡単に解説していきます。
目次
紫式部の百人一首の歌は何?
紫式部の歌が、百人一首に収録されています。
百人一首とは、百人の優れた歌人の歌を、1人につき一首ずつ選んだ秀歌撰のことです。
それでは、百人一首に選ばれた紫式部の歌はどのようなものだったのでしょうか?
ここでは、紫式部の百人一首の歌を簡単に解説していきます。
見出し1-1 紫式部の百人一首の歌の現代語訳や意味は?
【紫式部の百人一首の歌】
「めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな」
現代語訳:
「久しぶりにめぐり逢えたのに、それが貴女だとわかるかどうかのわずかな間にあわただしく帰ってしまわれた。まるで雲間にさっと隠れてしまう夜半の月のようではありませんか」
紫式部の歌は、百人一首の第57番目の歌で、「新古今集」から出典されています。
歌の意味としては、久しぶりに会えた友人が、積もる話もしきれないほど短い時間で帰ってしまうのを、雲に隠れてしまった月に例えながら、寂しく思っているというものです。
ちなみに、この歌は競技カルタにおける、いわゆる「一字決まり」に該当します。
そのため、覚えておくと有利にですね。
紫式部の百人一首の歌の表現技法は?
この歌の表現方法を詳しく見ていきましょう。
「めぐり逢ひて」
「めぐり逢ひ」の対象は、この歌では「月」となっています。しかし、新古今集の詞書から、実際は幼馴染の友人(女性)だということがわかります。
つまり、月に託して、友人とめぐり逢ったことを表しています。
また、「月」と「めぐる」は縁語(関係が深くよく一緒に使われる言葉)です。字余り。
「見しやそれとも」
「し」は、過去の助動詞「き」の連体形です。また、「や」は、疑問の係助詞で、結びは省略されています。
「それ」は、月のことを示していますが、先程同様、幼馴染と重ねています。
そして、「と」は引用の格助詞で、「も」は強意の係助詞です。
「わかぬ間に」
「わか」は、カ行四段の動詞「わく(分く・別く)」の未然形。「ぬ」は、打ち消しの助動詞「ず」の連体形。つまり、「分からない」という意味になります。
また、「に」は時を表す格助詞です。つまり、先程の「見しやそれとも」の部分と合わせると、「見たのがそれ(月)かどうかもわからないうちに」となります。
「雲隠れにし」
「に」は完了の助動詞「ぬ」の連用形。「し」は過去の助動詞「き」の連体形。
つまり、「(月が)雲に隠れてしまった」という意味になります。
「月」は先程からお伝えしているように、幼馴染のことを示しているので、「幼馴染がいなくなってしまった」ということを表しています。
「夜半の月かな」
「夜半」は夜中・夜更けの意味です。そして、最後の「かな」は詠嘆の終助詞となっています。
しかし、『新古今集』や百人一首の古い写本などでは、「月影」となっているものもあるようです。
紫式部の百人一首の歌の背景エピソードは?恋の歌ではない?
紫式部の百人一首の歌は、その歌の意味から、恋の歌と思われがちですが、実はそうではありません。友人との別れを惜しんでいる歌なのです。
それでは、紫式部はなぜこんなにも幼馴染の友人との別れを惜しんでいたのでしょうか?
それには、紫式部のそれまでの環境が関係しています。
紫式部は、父・藤原為時が越前(現在の福井県)に赴任したため、20代半ばの頃は地方で暮らしていました。
しかし、雪国での生活がよほど厳しかったのか、1年ほどで都に戻ってきています。
当時の地方暮らしは、今のように交通網が発達していることもなく、電話もテレビもなかったので、なかなか遠隔地にいる友人と気軽に逢ったり話したりすることはできなかったでしょう。都を離れて地方でくらす紫式部の寂しさは、相当なものだったはずです。
この歌には、その時に感じた寂しさが、よく表されているのです。
紫式部はどんな人?
紫式部がどのような人物だったのかを簡単に解説していきます。
紫式部(むらさきしきぶ):生没年不詳
代表作品:『源氏物語』『紫式部日記』
紫式部は、藤原為時の娘として生まれます。幼少期は、歌集や漢詩、歴史書などを読み込み、文学的才能を育むこととなりました。
そして、20代後半で藤原宣孝と結婚しますが、3年ほどで死別。その悲しみを紛らわすように『源氏物語』を書き始めたのです。
その『源氏物語』が宮中で評判となったことにより、その文才に目をつけた藤原道長にスカウトされ、中宮・彰子の家庭教師になります。
生没年については、正確な記録が残っておらず判明していません。
紫式部の他の代表作品は?
紫式部は歌人でもありましたが、作家でもありました。
そのため、百人一首の歌の他にも、代表作品が残っています。
ここでは、紫式部の他の代表作品について簡単に解説していきます。
紫式部の代表作『源氏物語』
『源氏物語』は、平安時代に書かれた世界最古とも言われている全54巻の長編小説です。
内容としては、主人公・光源氏と多くの女性たちとの恋愛模様や、出世話などが書かれています。
編成としては、3部構成になっており、
- ・第一部(1〜33巻):光源氏の女性遍歴や成功の物語
- ・第二部(34〜41巻):栄華を極めた光源氏の転落・最後の物語
- ・第三部(42〜54巻):光源氏の息子・薫を中心とした物語
と分かれています。
ずっと光源氏の話だと思われがちですが、実は、後半は息子の話となっているのです。
紫式部の代表作『紫式部日記』
『紫式部日記』は、平安時代の1008年(寛弘5年)から1010年(寛弘7年)までの約1年半の間を書き残した日記です。
内容は多岐にわたるのですが、基本的な内容は「彰子(しょうし)という女性の出産記録と、その後のお祝いごと」について書かれています。
彰子は、紫式部が仕えていた女性で、一条天皇の中宮です。また、藤原道長の娘でもあります。このような関係上、『紫式部日記』は、藤原道長に要請されて、紫式部が書いたのではないかとする説も存在するのです。
なぜならば、彰子が天皇の子を産み、その子が天皇になれば、藤原道長は天皇の祖父ということになり、権力が手に入ります。そのため、藤原道長からしてみたら娘・彰子の出産は一大事であり、記録に残しておきたかったということなのでしょう。
このような狙いがあったため、『紫式部日記』は彰子の出産記録に紙幅が多く割かれていますが、途中から路線変更がされています。途中からは、紫式部周辺の様々な案件に対する個人的な評論のような内容になっていくのです。
この評論部分は「消息文」と呼ばれ、一般的に『紫式部日記』では、出産記録よりもこちらの方が有名となっています。
消息文は、紫式部の個人的な感情も含まれており、あまり公にできない内容となっています。そのため、この『紫式部日記』は、公的な日記なのか私的な日記なのか評価が分かれているのが現状です。
紫式部の代表作『紫式部集』
『紫式部集』は、紫式部による和歌集です。
収録されている和歌の内容から、紫式部の思想や人生で感じていた不条理・虚無感といった生涯にわたる心理の変化を読み取ることができます。
大きく二層に分かれており、前半生は人生に肯定感が強く明るい作品が多いですが、後半生は否定的で荒涼とした作風が目立つようになりました。
まとめ:紫式部の百人一首の歌は、友との別れを惜しむ気持ちを詠んだ歌だった
紫式部の百人一首の歌は、恋の歌と思われがちですが、久しぶりに会った幼馴染の友人との別れを惜しむ気持ちを詠んだ歌でした。
今回の内容をまとめると、
- 紫式部の百人一首に収録された歌は、百人一首の第57番目の歌。
- 紫式部の百人一首に収録された歌は、「新古今集」から出典されている
- 紫式部の百人一首に収録された歌は、久しぶりに会った友との別れを惜しむ気持ちを詠んだ歌だった
この時代は、和歌を詠む人がたくさんいたでしょうから、その中から100人のうちの1人に選ばれるということは、すごいことだったのでしょう。それは、約1000年経った今でも詠み続けられていることからもわかりますね。