紫式部と清少納言の関係は?性格や作品、仕えた人などエピソードで簡単に解説!
紫式部(生没年不詳)と清少納言(966(康保3)〜1025(万寿2))は、ライバルだったのではないかと言われることがあります。
それは本当なのでしょうか?
この記事では、それぞれの性格や代表的な作品などを見ながら、2人の関係性について簡単に解説していきます。
目次
紫式部と清少納言の関係性は?
紫式部と清少納言といえば、平安時代の代表的な作家です。
その同じ時代に生きていた2人の関係性はどのようなものだったのでしょうか?
ここでは、紫式部と清少納言の関係性について簡単に解説していきます。
紫式部と清少納言はどんな人だった?主な作品は?
紫式部(生没年不詳)
代表作品:『源氏物語』『紫式部日記』
紫式部は、藤原為時の娘として生まれます。幼少期は、歌集や漢詩、歴史書などを読み込み、文学的才能を育むこととなりました。
そして、20代後半で藤原宣孝と結婚しますが、3年ほどで死別することになってしまいます。その悲しみを紛らわすように『源氏物語』を書き始めたのです。
その『源氏物語』が宮中で評判となったことにより、その文才に目をつけた藤原道長にスカウトされ、中宮・彰子の家庭教師になります。
生没年については、正確な記録が残っておらず判明していません。
清少納言:966年(康保3年)〜1025年(万寿2年)
代表作品:『枕草子』
清少納言は、清原元輔の娘として生まれました。
紫式部同様、和歌や漢学を学ぶ環境に恵まれていたため、幼少期から文学的才能を育んでいました。
そして、その才を買われて、中宮・定子の家庭教師として宮中仕えすることになります。定子は清少納言のことを気に入り寵遇しました。そんな定子に、清少納言も惚れ込みました。
ところが、定子の父・藤原道隆が逝去すると、清少納言の立場は変わっていくのです。
藤原道隆が逝去したことにより、弟の藤原道長が権力を強めます。そして、定子の兄・藤原伊周が策謀により流刑とされると、「清少納言は道長方のスパイだ」という噂が流れ始めるのです。
これを受けて、清少納言は宮中を出て、家に引きこもってしまいます。
定子は、清少納言に早く戻ってきてほしいと、当時としては大変貴重だった上質な紙を20枚も送りました。
清少納言は、これをとても喜んで、その紙に宮中での出来事を色々と書き込んでいきます。それが『枕草子』です。
定子の思いに応えて宮中に戻った清少納言でしたが、その後すぐに定子は産後の衰弱により亡くなってしまいます。
清少納言はとてもショックを受け、再び宮中を去り、隠遁生活に入りました。
60歳近くまで生きたと言われていますが、死因ははっきりとわかっていません。
紫式部と清少納言は誰に仕えていた?政治的に対立していた?
先程もお伝えしたように、紫式部と清少納言は2人とも中宮(天皇の妃)に仕えていました。
紫式部は彰子という人物、清少納言は定子という人物です。
この彰子と定子は、当時の権力者である藤原道長と藤原道隆の娘でした。
藤原道長と藤原道隆は実権を握るために、自分の娘を時の天皇・一条天皇の中宮にしようと考えていました。娘を中宮にし、天皇の子供を授かれば、自身は天皇の祖父となるため実権を握れるというわけです。
そのため、彰子と定子はいわゆる恋敵となり、親同士から見ると政治的に対立する関係でした。
そんな中、先に仕掛けたのは藤原道隆です。藤原道隆は、定子を一条天皇の中宮としました。
清少納言は、そんな定子に仕え、華々しい宮中生活を送っていました。
しかし、藤原道隆が病死すると、その生活は一変してしまいます。
まず、先程もお伝えしたように、後ろ盾を失った定子は、産後の衰弱により亡くなってしまうのです。
そして、その後釜に入るように、彰子が中宮となりました。
ちなみに、中宮、いわゆる妃は普通1人なのですが、このような事情のため一条天皇には妃が2人存在していたことになります。これはあまりない事例で、「一帝二后」と呼ばれています。
権力闘争で勝利した藤原道長が、権力を使用して強引に嫁がせた結果、このような結果となりました。
紫式部と清少納言は直接面識はなかった?
紫式部と清少納言の仕えていた人物は、政治的に対立するような関係性だったため、2人もライバルのような関係だったのではないかと考える人もいます。
しかし、2人は実は直接の面識はなかったと言われています。
清少納言は、紫式部が宮中に入る前に、そこから去っているので、微妙に宮仕えの時期がズレているのです。
そのため、後から宮中に入った紫式部は、同じような立場の清少納言のことを意識していたかもしれませんが、2人がバチバチに争っていたということはなかったということになります。
紫式部と清少納言の違いは?
紫式部と清少納言は、性格が真反対だったという話があります。
このように、紫式部と清少納言は似たような境遇でしたが、違う点もあるのです。
ここでは、紫式部と清少納言の違う点を簡単に解説していきます。
紫式部と清少納言の違うところは?性格は真反対だった?
紫式部と清少納言の違いを見ていきましょう。
【伴侶】
紫式部:夫と結婚3年で死別する
清少納言:夫と離婚するも、その後も交流はあった
【仕事に対する姿勢】
紫式部:宮中で働くことはつらく、恥ずかしいことだと感じていた
清少納言:宮中で働くことはすごくプラスなことだと感じており、他の女性たちも宮中で働くように勧めていた
【性格】
紫式部:内気で自己肯定感は低いが、自意識過剰でプライドが高い
清少納言:勝ち気でポジティブ、非常にユーモアにも富んでいた
【知識に対する姿勢】
紫式部:当時は女性が漢文の知識を持つことや、漢字を書けることなどはあまりよく思われない風潮があったため、紫式部は漢字が書けるのにそのことを決してひけらかすようなことはしなかった(漢字の「一」ですら、目立たないために書かないようにしていた)
清少納言:漢文や漢字の知識を堂々と披露して、並みいる男性たちを唸らせた。
このように比べてみると、紫式部と清少納言は、宮中で働いていたという共通点はありますが、性格は全く反対だったように感じますね。
紫式部と清少納言には共通点も?
先ほどお伝えしたように違う点がたくさんある2人でしたが、実は共通点もいくつかあるのです。
- 夫と早くに別れ、シングルマザーとなっていたという点
- 田舎の主婦が、その教養を買われて出仕した点
- 仕えている主に惚れ込み、「主こそが最高!」と考えている点
- 大作と言われる作品を書いた点
清少納言の後釜のようなところで紫式部は宮中に入ったため、何かと比較されることがありました。
そのため、紫式部は日記に清少納言の悪口を書くなど、悪い印象を持つこととなってしまったのです。
しかし、ここまで似たようなところがあるので、2人はきちんと面識さえあれば、仲良くなっていたかもしれませんね。
紫式部は日記で清少納言の悪口を言っていた?
紫式部は清少納言と似たような境遇にあり、比較されることが多かったせいか、清少納言のことを強く意識していたようです。
『紫式部日記』では、なんと清少納言の悪口を言っていたなんてことも…。
ここでは、紫式部が清少納言のことをどのように思っていたのかを簡単に解説していきます。
紫式部は、日記で清少納言について評価していた
清少納言について、紫式部は『紫式部日記』で以下のように述べています。
「清少納言は偉そうに定子に仕えていた人。頭がいい風を装って漢字を書きまくっているけれども、よく見たら幼稚な間違いもしている。男性の前ではちょっと頭が悪い感じに見せた方がいいのに、清少納言が私ならわかると得意げにしているのを見ると腹が立ってしょうがない。自分は特別だと思っているのかもしれないけれど、そういう人に限って偽の教養しかもちあわせていないもの。いつも気取っていて、あんな薄っぺらい態度をとるような人がいい人生を送れるだろうか、いや送れるはずがない」
以上のように、紫式部は清少納言について酷評しています。
清少納言は、比較されることが多かったり、自分が我慢していることを嬉々としてやっていたりと、紫式部としても相当鬱憤が溜まっていたのかもしれません。
紫式部は実は紫式部日記で自虐も多くしていた?
紫式部日記の中で、清少納言について酷評していた紫式部ですが、実はその後のページでは清少納言への悪口の倍くらい自虐をしているのです。
「こんなふうに人のことを評している私こそ、この先どうしよう…。まったく誇れる長所も自信もない。将来の希望もない。私なんて慰めの余地すらない。それでも、自分のことを寂しい女だと思いながら生きるのだけはやめよう。と、思いたい気持ちだけは、まだなくなっていないのだけれど…」
以上のように始まる自虐文には、紫式部の不安定な心の内がよく表れています。
「紫式部日記=清少納言の悪口」というイメージが世間に浸透していますが、紫式部は他人の悪口の100倍くらい、自分への悪口も書いていたのです。
まとめ:紫式部と清少納言は似たような境遇故に比較されることが多かった
紫式部と清少納言は、それぞれ中宮に仕え、似たような境遇の中、活躍していました。そして、近い時期に宮中で働いていたため、何かと比較されることが多かったのですが、直接的な面識はありませんでした。
今回の内容をまとめると、
- 紫式部は彰子、清少納言は定子という中宮に仕えていた
- 紫式部はネガティブ、清少納言はポジティブといったように、性格は真反対だった
- 紫式部と清少納言は、似たような境遇ゆえに比較されることが多かったが、直接的な面識はなかった
- 紫式部と清少納言は、比較されすぎて、紫式部は清少納言のことを強く意識し、日記で悪口を書いていた
『源氏物語』を書いていた紫式部ですが、宮中に入ると途端に創作意欲を失ってしまいます。それは、それほどまでに宮中での暮らしがつらかったということなのでしょう。
そんな折、似たような境遇の清少納言が話し相手としていてくれたのなら、紫式部は救われていた可能性が高いです。そうしたら、『源氏物語』を超える超大作が生まれていた可能性もあったかもしれませんね。