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紫式部の性格は?どんな人だった?清少納言と比較しながら簡単に解説!

紫式部(生没年不詳)は、平安時代中期に活躍した歌人・作家です。

『源氏物語』や『紫式部日記』などの、日本文学を代表する作品を残したことで有名です。

そんな紫式部は、どのような性格だったのでしょうか?

この記事では、紫式部の性格について簡単に解説していきます。

紫式部の性格は?

紫式部は、数々の有名な作品を生み出す一方で、宮仕えをし、彰子の家庭教師をしていました。

これだけを聞くと、バリバリのキャリアウーマンのようですが、実際はどのような性格をしていたのでしょうか?

ここでは、紫式部の性格について簡単に解説していきます。

紫式部は目立つことを嫌った引っ込み思案な性格だった?

【紫式部の性格】

  • 控え目
  • 引っ込み思案
  • 負けず嫌い
  • 真面目
  • 目立つことが嫌い
  • 内向的

紫式部は、幼少期からすらすらと漢文を読み上げるような教養と知性に溢れた人物でした。

しかし、当時宮中では「漢字は男が使い、ひらがなは女性が使う」という考えが一般的だったのです。

そのため、紫式部は周りの目を気にして、漢字の「一」すら読めないフリをしていたと言われています。このことから、目立つことを嫌い、周りから嫌われることを恐れていたことが伺えます。

しかし、そんな自身の秀才ぶりを隠していた紫式部ですが、清少納言に対しては負けず嫌いな一面を見せています。

似たような境遇であったため、何かと比べられることが多かったのでしょう。

紫式部は、『紫式部日記』の中で清少納言の悪口をひたすら書いているのです。

よほど、比べられることに腹が立ったのか、負けてなるものかと奮起させようとしたのかはわかりませんが、清少納言のことを強く意識していたのは間違いないでしょう。

紫式部は後輩思いの一面もあった?

紫式部が、後輩思いだとわかるエピソードがあります。

奈良・興福寺から八重桜が宮廷に献上されたときのことです。

桜のお礼を詠むという大役を紫式部が任されました。

しかし、紫式部はそれを新入りの伊勢大輔(いせのたいふ)に譲ります。

この大きな手柄を自分の認めた後輩に譲るという、後輩思いの一面を覗かせたというわけです。

ちなみに、この際に伊勢大輔が詠んだ歌は、

「いにしえの 奈良の都の 八重桜 きょう九重に 匂いぬるかな」

以上のように、伊勢大輔は紫式部の期待通り、見事な歌を詠み、人々を感心させました。

そして、それ以来、伊勢大輔は紫式部のことを姉のように慕っていたそうです。

紫式部には、後輩思いの一面もあり、人を見る目もあったようですね。

紫式部は幼少期は好奇心旺盛な明るい子どもだった?

紫式部は、目立つことが嫌いな内向的な性格でした。

しかし、幼少期はそうではなかったのです。

幼少期は、むしろ好奇心旺盛な明るい子供でした。

紫式部が幼少期の頃、父親の藤原為時は花山天皇のもとで式部丞として働いていました。そして、紫式部はその影響で宮廷に興味を持ちます。

父親が帰ってくると、飛びつくようにやってきて、毎日のように宮廷のことについて質問攻めにしていたそうです。

父親もその勢いに困りながらも、優しく返答してあげていました。そして、紫式部はそれを目を輝かせて聞き入り、文に書き残していたそうです。

他にも紫式部は、仏教の経典や日本書紀をはじめ、父の所有していた難しい蔵書など、女性が読まないような書物も読み漁りました。

食事を取ることすら忘れるくらい読書を続け、気に入った文章は暗記してしまうほどでした。

それほどまでに、紫式部は好奇心旺盛で、勉強熱心。故に、幼少期から非常に高い教養を身につけていたのです。

紫式部と清少納言の性格の違いは?

紫式部とよく一緒に話題にされるのが清少納言です。

ライバルだったのではないかと噂もされる2人ですが、その性格に違いはあったのでしょうか?

ここでは、紫式部と清少納言の性格の違いを簡単に解説していきます。

清少納言の性格は?

【清少納言の性格】

  • 明るく陽気
  • 気が強い
  • ユーモアに溢れている
  • 機転が利く
  • 社交的
  • 無邪気
  • ポジティブ

紫式部は、人前で自身の教養の高さを出すようなことを嫌いましたが、清少納言は違います。

清少納言は、周りの目を気にすること無く、自身の教養の高さを大っぴらに披露していました。

時には、漢詩の知識を使って、男性貴族と互角にやり取りするようなこともあったようです。

また、非常に明るく社交的であったため、周りから非常に人気が高い女官でした。

紫式部と清少納言の性格の違いは、父親の育て方の違いだった?

紫式部と清少納言は、簡単に言えば、ネガティブ思考とポジティブ思考であり、真反対の性格でした。

それでは、その性格の違いの原因は何だったのでしょうか?

それは、父親の育て方に影響されていたのではないかと言われています。

それぞれの教育方針を見ていってみましょう。

・紫式部

紫式部の父親は藤原為時です。紫式部は、藤原為時からとても厳格に育てられました。

紫式部も好奇心旺盛な子であったため、時間を忘れるくらい勉学に励みました。

しかし、ある時のことです。

その日、藤原為時は、紫式部の弟に漢詩を教えていました。それをそばで聞いていた紫式部は、なんと弟よりも先にそれを覚え暗唱してしまうのです。

本来であれば、漢詩の知識を吸収することは悪いことではなく、むしろ褒められるべきことです。

しかし、当時は漢詩は男性が身につけるもので、女性が嗜むものではないという常識がありました。

そのため、藤原為時は紫式部に向かって、

「残念だよ。お前が男に生まれてこなかったのが私の運の悪さだ…」

このように言い放ったのです。

紫式部は、このときのことを大人になってから日記に記しています。

それほどまでに、子供心に刺さる一言だったでしょう。

このような経緯があったため、紫式部は決して自身の知識をひけらかしたり、目立ったりはしないと心に決めたのかもしれません。

・清少納言

清少納言の父親は清原元輔です。

清原元輔は、歌人としてとても有名な人物で、そして、非常にユーモアに溢れる人でもありました。

そのことを表すエピソードがあります。

加茂祭の時のことです。清原元輔は、落馬してしまいます。そして、その際に、頭に被っていた烏帽子が脱げて、光り輝く禿頭が露わになってしまうのです。

当時、人前で烏帽子を脱いで頭をさらけ出すというのは、人前でパンツを脱ぐことと同じくらい恥ずかしい行為だとされていました。

そんな絶望的にピンチな状況でしたが、清原元輔は烏帽子を被り直しもせず、

「禿頭のせいで烏帽子がツルッと脱げてしまったよ」

と周囲に説明し始めたのです。

唖然としていた周囲の人々は、その説明を聞いて爆笑の渦に包まれたそうです。

このように、父親がユーモアに溢れる人物であったため、娘にも同じように接していたことが容易に想像できます。

つまり、清少納言のユーモアあふれる性格は父親譲りということですね。

また、清少納言は、清原元輔がかなり高齢になってからの子供で、さらに末っ子でした。そのため、非常に可愛がられて育てられてきたのです。

こうして、清少納言は明るく朗らかで、図太い性格になったのではないかと考えられます。

紫式部と清少納言はライバルだった?

紫式部と清少納言の仕えていた人物が、政治的に対立するような関係性だったため、2人もライバルのような関係だったのではないかと考える人もいます。

しかし、実は2人は直接の面識はなかったと言われています。

清少納言は、紫式部が宮中に入る前に、そこから去っているので、微妙に宮仕えの時期がズレているのです。

そのため、後から宮中に入った紫式部は、同じような立場の清少納言のことを意識していたかもしれませんが、2人がバチバチに直接争っていたということはなかったということになります。

紫式部と清少納言の性格はそれぞれの後宮の雰囲気にも影響した?

紫式部と清少納言の性格は、ほとんど真反対のようなものでした。

それは、実はそれぞれが勤めていた後宮の雰囲気にも影響したのです。

どのような影響があったのでしょうか?

ここでは、紫式部と清少納言の性格が後宮に与えた影響について、簡単に解説していきます。

紫式部と清少納言、それぞれの後宮の雰囲気とは?

それぞれの後宮の雰囲気を簡単に解説していきます。

・紫式部

紫式部が仕えた人物は彰子です。

紫式部が彰子に仕えた際、先代であった定子後宮の明るく楽しい雰囲気がすでに語り草となっていました。つまり、紫式部と彰子には、最初から大きな負い目があったのです。

さらに、彰子はたいそう上品で奥ゆかしい性格で、あまり周りの人と関わろうとしませんでした。

そのため、彰子後宮は、定子後宮に比べて新鮮味がなく面白みがないと噂されるようになってしまうのです。

周りの人々は、定子後宮を懐かしみ、彰子後宮の陰口を言う始末。紫式部もこのような状況には困っていたようです。

派手さがなく、おとなしいというのが、彰子後宮の雰囲気です。

・清少納言

清少納言が仕えた人物は定子です。

この定子という人物は、清少納言同様、ユーモアに溢れる人物でした。時には、冗談を言って場を和ますなどしていたようです。

そして、それを聞いた清少納言が、定子を称賛するというのがお決まりの流れでした。

そのため、定子後宮は非常に明るく、自由な雰囲気となっていたようです。

彰子後宮は、真面目な人物たちで構成されていたのでしょう。

それ自体は決して悪いことではなかったはずです。これがもし、定子後宮の後でなければ、そこまで陰口を言われるようなこともなかったのかもしれません。

紫式部は清少納言と比べられるあまり日記に悪口を書いた?

紫式部は、似たような境遇故に清少納言と比較されることが多かったようです。

そのため、相当鬱憤が溜まっていたのでしょう。

自身の日記に、清少納言の悪口を書いてしまうのです。以下、その内容です。

「清少納言は偉そうに定子に仕えていた人。頭がいい風を装って漢字を書きまくっているけれども、よく見たら幼稚な間違いもしている。男性の前ではちょっと頭が悪い感じに見せた方がいいのに、清少納言が私ならわかると得意げにしているのを見ると腹が立ってしょうがない。自分は特別だと思っているのかもしれないけれど、そういう人に限って偽の教養しかもちあわせていないもの。いつも気取っていて、あんな薄っぺらい態度をとるような人がいい人生を送れるだろうか、いや送れるはずがない」

以上のように、紫式部は清少納言について酷評しています。

しかし、書いた後にやはり言い過ぎたと後悔したのでしょうか。この清少納言への酷評の後、その倍くらい自虐をしているのです。

「こんなふうに人のことを評している私こそ、この先どうしよう…。まったく誇れる長所も自信もない。将来の希望もない。私なんて慰めの余地すらない。それでも、自分のことを寂しい女だと思いながら生きるのだけはやめよう。と、思いたい気持ちだけは、まだなくなっていないのだけれど…」

清少納言への葛藤や、自身の不安な気持ちなどがよく表れている文章だと言えるでしょう。

まとめ:紫式部は目立つことを嫌った内向的な性格だった

紫式部は、人前で自身の教養の高さをひけらかさないなど、目立つことを嫌った、非常に内向的な性格でした。

今回の内容をまとめると、

  • 紫式部の性格は、目立つことを嫌った内向的だった
  • 紫式部の性格は、幼少期は好奇心旺盛な明るい子供だった
  • 紫式部の性格は、清少納言の性格とは正反対の性格だった

紫式部は、幼少期に父親に言われた言葉を気にして、目立つことを避けるようになりました。

その時に、父親が性別関係なく紫式部のことをしっかりと褒めてあげていたら、もっと紫式部は自身の長所を伸ばすことができていたかもしれません。

そう考えると、言葉選びは慎重にしなくてはならないなと考えさせられます。

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