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紫式部と藤原道長の関係は?愛人だった?藤原道長のお陰で源氏物語は完成した?

紫式部(生没年不詳)は、平安時代中期に活躍した歌人・作家です。

2024年の大河ドラマ『光る君へ』でも主人公として、吉高由里子さんが演じられることで話題となっています。そして、そのドラマの中では、紫式部と藤原道長の関係性が主軸として描かれると言われています。

実際の紫式部と藤原道長の関係性とはどのようなものだったのでしょうか?
この記事では、紫式部と藤原道長の関係性について簡単に解説していきます。

紫式部と藤原道長の関係は?

紫式部にとって、藤原道長は人生の転機を運んできた人と言っても過言ではないような存在でした。

ここでは、紫式部と藤原道長の関係性について簡単に解説していきます。

紫式部は藤原道長の娘・彰子の家庭教師だった?

紫式部は、藤原道長の娘・彰子の家庭教師でした。

どういう経緯で藤原道長の娘の家庭教師になったのでしょうか?

当時、藤原道長は娘の彰子に天皇の子を産ませることによって、権力を手にしようと考えていました。しかし、天皇は愛する定子を亡くしたばかりで、定子のことを忘れられないあまり、定子の妹の元に通うなどしており、彰子に全く興味を持ってくれていませんでした。

そこで、藤原道長は、彰子の周辺に優秀な女房を揃えることによって、彰子自身を魅力的な女性に教育させようと考えたのです。

そして、目をつけられたのが、『源氏物語』を書いたことで宮中で評判になっていた紫式部でした。

こうして、彰子の魅力向上のために、紫式部はその才能を買われ、家庭教師となったのです。

つまり、紫式部にとって藤原道長は、教え子の父親であり、雇い主であったということですね。

紫式部と藤原道長は愛人だったという説も?

紫式部と藤原道長は、雇われる側と雇う側の関係だったわけですが、実は愛人だったのではないかとする説も存在しています。

その根拠として挙げられるのが、貴族の系譜を記した『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』という本です。

この尊卑分脈では、紫式部は「源氏物語作者」「道長妾」と記されています。

「妾」とは愛人のことを指します。つまり、紫式部は藤原道長の妾だと記されているということになります。

しかし、尊卑分脈は、一部の記述の信憑性が低いと指摘されているので、これが確実なものかどうかまでははっきりとしていません。

紫式部は『紫式部日記』に藤原道長について書いている?

紫式部と藤原道長は、よきビジネスパートナーのような存在でした。

しかし、愛人ではないかとする噂が出てしまうようなエピソードもあったのです。

それは、紫式部の書いた『紫式部日記』に書かれていました。

ここでは、『紫式部日記』に記された2人のエピソードを簡単に解説していきます。

女郎花のエピソード

原文:

渡殿の戸口の局に見出せば、ほのうちきりたる朝の露もまだ落ちぬに、殿ありかせ給ひて、御隨身召して遣水払はせ給ふ。

橋の南なる女郎花のいみじう盛りなるを、一枝折らせ給ひて、几帳の上よりさし覗かせたまへる御さまの、いと恥づかしげなるに、我が朝顔の思ひ知らるれば、「これ。遅くてはわろからむ」とのたまはするにことつけて、硯のもとに寄りぬ。

女郎花 盛りの色を 見るからに 露の分きける 身こそ知らるれ

「あな、疾」と、微笑みて、硯召し出づ。

白露は 分きても置かじ 女郎花 心からにや 色のそむらむ

(口語訳)

渡殿の戸口にある女房の部屋で外を眺めると、うっすらと霧がかかっている朝の露もまだ落ちない頃に、殿(藤原道長)が、(庭を)歩きまわりなさって、随身をお呼びになって、遣水(に落ちた葉など)を取り除かせなさいます。

橋の南にある女郎花でたいそう真っ盛りであるのを、一枝お折りになって、几帳の上からちょっと顔をお出しなさるご様子が、たいそうご立派でいらっしゃるので、私の朝寝起きの顔(のだらしなさ)を身にしみて感じるのですが、「これ、遅くなってはいけないだろう」とおっしゃるのにかこつけて、硯のもとに近づいたのです。

女郎花の盛りの色を見たばかりに、露が区別して、私の身のことが思い知られます

「あぁ、(和歌を詠むのが)早い」と微笑んで、硯をお取り寄せになります。

白露が分け隔てて降りるわけではないでしょう。女郎花は心によって(美しい)色に染まるのではないのでしょうか。(だから、あなたもその心次第ではないですか)

これは、簡単に言うと、藤原道長が早朝に紫式部の元に訪ねてきて、花を送ったから歌を早く詠んでくれと迫っているシーンですね。

紫式部は、早朝にも関わらず整っている顔をしている藤原道長を立派だとし、それに比べて私は…と恥ずかしがっているのです。 

しかし、藤原道長は、そんな紫式部を見て、「あなたの心がけ次第で美しくなれるんだから、自信を持ってよ」と励まします。

早朝からこんなやり取りをしているだなんて、恋仲なのかと疑われてもおかしくありませんよね。

梅の枝のエピソード

原文:

源氏の物語、御前にあるのを、殿の御覧じて、例のすずろごとども出できたるついでに梅の下に敷かれたる紙に書かせ給へる、

すきものと 名にし立てれば 見る人の 折らで過ぐるは あらじとぞ思ふ

給はせたれば、

人にまだ 折られぬものを 誰かこの すきものぞとは 口ならしけむめざましう

と聞こゆ。

(口語訳)

いつもの雑談ついでに、道長様は彰子様の前に置かれてあった『源氏物語』を見て、ある和歌を詠まれた。梅の下に敷かれた紙に、さらさらとこう書かれてある。

「すっぱくておいしい」と評判の梅の枝を、折らずに通り過ぎる人がいないように、「光源氏並みに恋愛に達者な人らしい」と評判の『源氏物語』作者を目の前にして、口説かないわけにはいかないのです。

その和歌を私に送ってくださったので、私はこう返しました。

まだ折られてないのに、どうしてこの梅がすっぱくておいしいなんてわかるのですか?まだ私は男性に味わわれてはいないのです。どうしてそんな評判が立つのでしょう(不愉快です)。

こちらは、藤原道長が、「源氏物語の作者だし、さぞかし恋愛に詳しいんでしょう?」と迫ってきたことに対して、「誰も口説いてこないんだけど!?」と紫式部が怒っている場面です。

紫式部の和歌の中の「めざまし」とは、現代語の「目障り」に近しい言葉で、上司である藤原道長に、ついそんな言葉を使ってしまうほど、紫式部が怒っていたことが伺えます。

水鶏のエピソード

原文:

渡殿に寝たる夜、戸を叩く人ありと聞けど、おそろしさに音もせで明かしたるつとめて、

夜もすがら 水鶏よりけに なくなくぞ 真木の戸口に 叩きわびつる

返し、

ただならじと ばかり叩く 水鶏ゆゑ あけてはいかに くやしからまし

(口語訳)

夜、私が渡殿の部屋で寝ていると、誰かがどんどんと戸を叩いた。私は怖くなって何も言えず、そのまま夜を明かした。すると、翌朝こんな和歌が届いた。

水鶏はコンコンと鳴きますが、私は一晩中、泣きながら水鶏よりも大きな音で戸を叩いていましたよ。

これに対して、私は返歌を送りました。

普通ではない叩き方でしたが、でも本当はちょっとしたお遊びで叩いていただけでしょう?そんな水鶏に戸を開けたら、そのあとに後悔していたでしょう。

こちらは、先ほどお伝えした「梅の枝の話」の後日談となっています。

当時、恋仲の男女の場合、夜に男性が女性のもとに夜這いしに行くのが常識でした。この場面でも、藤原道長が紫式部の元にやってきています。

そのため、恋仲なのかと思いきや、紫式部はこの誘いをかわしているのです。

2人の関係は、ビジネスパートナー以外のものもありそうですが、決定的な資料がないというのが現状です。

『源氏物語』は藤原道長のおかげで完成した?

紫式部が書いた『源氏物語』は、実は藤原道長のおかげで完成したと言っても過言ではありません。藤原道長はどのような協力をしたのでしょうか?ここでは、源氏物語完成のために藤原道長がしたことを簡単に解説していきます。

見出し3-1 藤原道長が『源氏物語』を書くためのパトロンとなった

源氏物語は、書き始めた頃は、紫式部の仲間内で批評し合う程度のものでした。

というのも、当時、紙は非常に貴重なもので、そう簡単に手に入る物ではなかったのです。

そのため、紙が手に入ればその都度書く、程度のものでした。

長編にしようとしていたわけではなく、「枡形本」という小さな冊子にして書いていたそうです。

しかし、次第にその評判が広がっていき、藤原道長の元までその評判が届きます。

そして、藤原道長はすっかり源氏物語のファンになってしまうのです。

藤原道長は、紫式部を自分の娘の家庭教師として採用するわけですが、それだけではありませんでした。

藤原道長は、源氏物語を書くためのパトロンとなってくれたのです。

具体的には、大量の紙や硯の提供や、丁寧な装丁を施したりなどです。

源氏物語は、全部で54帖に分かれており、これは400字詰め原稿用紙に換算すると2500枚もの量となっています。

それほどまでの紙を提供してくれる藤原道長がいたからこそ、源氏物語は完成したと言っても過言ではないでしょう。

藤原道長は『源氏物語』の続きの催促もしていた?

源氏物語の作成の支えとなってくれていた藤原道長ですが、実は紫式部に度々続きの催促をしていたという話もあるのです。

藤原道長が源氏物語を支援していたのは、ファンだったからというのもありますが、彰子と天皇の仲を深めるという目的もありました。

天皇も源氏物語を愛読していました。そのため、続きができれば、頻繁に紫式部の元に訪れることになります。

すると、必然的に、紫式部と一緒にいる彰子と接する機会も増えるというわけです。

このような目的があったため、藤原道長は、頻繁に紫式部の元を訪れて物語の続きを催促していたというわけですね。

しかし、頻繁に藤原道長が紫式部に会いに来るものですから、恋仲なのではと疑われてもおかしくない状況だったようです。

まとめ:紫式部と藤原道長はよきビジネスパートナーだった

紫式部は、藤原道長によって彰子の教養を上げるために家庭教師に採用されました。さらに、そこから藤原道長がパトロンとなって、無事に源氏物語という超大作が完成するに至りました。そのため、2人はよきビジネスパートナーであったと言えるでしょう。

今回の内容をまとめると、

  • 紫式部は、源氏物語を書いていたおかげで、藤原道長に娘の家庭教師として採用された
  • 紫式部と藤原道長は、源氏物語の製作者との支援者の関係だった
  • 紫式部と藤原道長は、愛人だったのではないかと噂もあるが、真偽はわかっていない

一見、恋仲のようなやりとりが多い2人ですが、それぞれの立場を考えると見方が変わってきます。

紫式部にとって、藤原道長は上司のような存在です。

そんな上司から色々と迫られたら断りにくいというのがあったでしょう。

このことから、2人の関係性というのは見方によって変わっていくため、非常に奥が深い議題だと思われます。

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