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聖武天皇のエピソードを紹介!なぜ大仏を作った?天皇として初めて出家した?

聖武天皇(701年(大宝元年)〜756年(天平勝宝8年))は、奈良時代に活躍した第45代天皇です。

仏教を深く信仰していたため、全国に国分寺や国分尼寺を建立したり、東大寺の大仏を建立したりしたことでも知られています。

そんな聖武天皇には、どのようなエピソードがあるのでしょうか?

この記事では、聖武天皇に関するエピソードを簡単に解説していきます。

聖武天皇のエピソード①|聖武天皇は民衆の協力で大仏を作りたかった

聖武天皇は、743年(天平15年)に東大寺盧舎那仏像の造立の詔を出します。

鎮護国家を目指していたので、大仏を作ることによって、社会の安寧を願い、祈る場所としたのです。

そして、聖武天皇の大仏造立に際しては、もう1つ大事な目的がありました。

それは、民衆の想いを1つにすることです。

あるとき、聖武天皇は、大阪にある智識寺の盧遮那仏を拝みました。

その際、このお寺が、民衆が資金や材料、労力を出し合って作られたものだと知り、非常に感銘を受けたのです。

これがきっかけで、聖武天皇は「民衆の協力で大仏を作りたい」と考えるようになりました。

聖武天皇自身が、富や権力を使って作るのは簡単ですが、それでは形だけの仏像となってしまい、世の中をいっそう不安定にしてしまうと思ったのです。

みんなで作ることによって、民衆の想いを1つにしようと試みました。

そこで詔を出し、「一本の草、一握りの土でも差し出せるものは協力してほしい」と呼びかけるのです。

しかし、世の中は不安定な状態で、その元凶である聖武天皇に進んで協力しようという民衆はなかなかいません。

そこで白羽の矢が立てられたのが、行基でした。

行基は、当時、各地で民衆へ布教活動をしながら、橋や池などを作って人々を助けており、民衆からの信頼が非常に厚かったのです。

聖武天皇から協力の依頼を受けた行基は、弟子たちを連れ、大仏建立の寄付を集めるために各地を旅するなど、大仏造立における非常に重要な役割を担ってくれました。

こうして、多くの民衆の協力を得ながら、大仏は完成するのです。

聖武天皇のエピソード②|聖武天皇は首(おびと)という自分の名前を嫌っていた

聖武天皇の諱(いみな:生前の実名)は、「首(おびと)」であったと言われています。

しかし、実はこの諱は当時の記録にほとんど残されていないのです。

天皇ほどの人物の名前が記録に残されていないのは不思議なことですよね。

これはなぜかというと、聖武天皇が自分の名前を嫌っていたからだと言われています。

首という名前は、母方の祖父である藤原不比等に由来していたため、それを嫌った聖武天皇自身が記録を残させなかったのであろうと考えられているのです。

聖武天皇のエピソード③|聖武天皇は度重なる厄災を自身の責任だと考えていた

聖武天皇の治世では、立て続けに飢饉や病気の流行が起きたり、政治情勢もあまりよくありませんでした。

そして、当時は災いなどが起きると、為政者のせいにされる風潮があったのです。

聖武天皇も例に漏れず、立て続けに起こる飢饉や病気の流行は、自身の責任であると考えました。

悩みすぎてノイローゼになっていたのではないかと考える人もいるのです。

その証拠に以下のような言葉を残しています。

「責めはわれ一人にあり」

この言葉から、「全責任は自分にある」ということを深く受け止めている聖武天皇の様子が伺えますね。

そして、どうしたらよいのかと悩む中、光明皇后の勧めもあり、仏教に解決を求めます。

光明皇后自身も、篤い仏教信者だったのです。

仏教に帰依することにより国の安泰を願う、それが聖武天皇にできる唯一のことだったのかもしれません。

聖武天皇のエピソード④|聖武天皇は天皇で初めて出家した

聖武天皇は鎮護国家を目指していましたが、なかなか不安定な政治情勢は解消されませんでした。

そんな中、聖武天皇の第二皇子である安積親王が急死してしまい、その直後に聖武天皇自身も病気で重篤に陥ります。

その後、一時は回復の兆しを見せるも、聖武天皇と共に政務を遂行していた元正太上天皇が崩御してしまったことにより、再び体調が悪化してしまうのです。

このように憔悴しきった聖武天皇は、体調不良を理由に、皇女の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位することにします。

そして、東大寺に行幸し、大仏の前に着座し、仏の僕を意味する「三宝の奴」を自称し、そのまま出家してしまいました。

天皇の出家は、聖武天皇が初めてのことで、天皇が仏の臣下であることを宣言するという異例の事態は、さぞ臣下たちを驚かせたことでしょう。

このように、聖武天皇は、自らが出家することによって、仏教に対する深い信仰心を示してみせたのです。

聖武天皇の妻・光明皇后のエピソード

聖武天皇の妻である光明皇后は、女性で、しかも皇后の身でありながら、仏の教えを実践した人と伝えられています。

聖武天皇に仏教を勧めたのも光明皇后であったと言われていますし、自身でも貧しい人々に施しをするための「悲田院」という施設や、怪我や病気に苦しむ人々のための「施薬院」という施設を設置して慈善活動に尽力していました。

光り輝くほどに美しかったと言われている光明皇后ですが、特に有名なエピソードがあります。

それは、いつものように光明皇后が仏様に祈っていた時のことでした。

突然、

「人々のために功徳風呂を作り、千人の体を洗いなさい」

という不思議な声が聞こえてきたのです。

光明皇后は、これをお告げだと考え、身分の区別なく誰でも入れる大きな蒸し風呂を作りました。

そして、そこに集まってきた人々の体を丁寧に洗っていったのです。

やがてその数が999人となり、お告げの千人まであと1人となったところで、最後にやってきたのは病気で体中が膿んでいる老人でした。

光明皇后は今までの人々と同じように体を丁寧に洗い始めます。

洗っている途中、老人は

「この体の膿を吸い取ってくださる方があったら、必ず病気は治ると医者が言います。皇后様におすがりしようとやってまいりました」

と言うのです。

光明皇后もさすがにこれには躊躇したものの、何事も仏の思し召しと心に決め、勇気を出して膿を吸い取ってあげました。

すると、老人の体がまばゆい金色の光に包まれ、「自分は阿閦仏である」と告げて、天に昇っていったのです。

このように、光明皇后は、仏教の興隆に尽力されていました。

聖武天皇に関するQ&A

聖武天皇に関するQ&Aを簡単に解説していきます。

  • 聖武天皇は何をした人?
  • 聖武天皇の時期に栄えた文化は?
  • 奈良時代の天皇には誰がいた?
  • 奈良時代の権力争いの変遷は?

聖武天皇は何をした人?

聖武天皇がしたことは、主に3つのことが挙げられます。

  • 全国に国分寺や国分尼寺を建立したこと
  • 東大寺の大仏を建立したこと
  • 墾田永年私財法を出したこと

それぞれ詳しく解説していきます。

・全国に国分寺や国分尼寺を建立したこと

聖武天皇が天皇になってからというもの、天然痘の流行や災害、飢饉が多く、また政治情勢も非常に不安定であったため、聖武天皇は「どうしたら世の中が安定するのだろう」と常に頭を悩ませていました。

場所が悪いのかもしれないと遷都を繰り返してみたものの、あまり効果はありません。

そんな中、聖武天皇は、次第に仏教への帰依を深めていくのです。

そして、仏教による鎮護国家を目指していくこととなります。

その政策の一歩として掲げられたのが、全国に国分寺や国分尼寺を建てることです。

各寺院には、四天王による御加護が得られる金光明最勝王経が安置されました。

こうすることにより、全国民の仏教への信仰を深めようとしたのです。

・東大寺の大仏を建立したこと

鎮護国家を目指してしたことは、国分寺・国分尼寺の建立だけではありません。

次にしたことは、大仏の造立です。

国家を上げた一大プロジェクトとなった大仏の造立ですが、これを作ることにより、社会の安寧を願い、祈る場所としました。

大仏の大きさは天平当時で15m以上であり、その大仏を納める大仏殿も合わせると、相当な規模だったことが伺えます。

また、仕上げの段階で金鉱脈が発見されたことにより、金メッキ仕上げとなったようで、工事に関わった人員は、延べ260万人以上とも言われています。

聖武天皇自らも、民衆とともに作業を行ったようで、いかにこの事業へ積極的に取り組んでいたのかがわかりますね。

ちなみに、後世大仏は二度の戦火に遭い、現在見られる大仏は江戸時代に修復されたものとなっています。

・墾田永年私財法を出したこと

聖武天皇は仏教のことばかり考えていたわけでもありません。

経済対策として、「墾田永年私財法」を出します。

これは、「新しく耕した土地は永久に私有を認める」という決まりでした。

当時、飢饉や貧しさに苦しんだ農民たちが、土地を捨てて逃げ出した結果、土地は荒れ果て税も取れなくなってしまっていたのです。

このままではいけないと、聖武天皇は墾田永年私財法を出して、土地の個人所有を認めたわけですね。

しかし、大宝律令では、「土地と人民は国のものである」という公地公民制があります。

この墾田永年私財法は、その大前提を崩すものだったのです。

個人所有が認められた結果、「荘園」が発生し、次第に公地公民制は崩れていきました。

以上のように、聖武天皇は、主に鎮護国家を目指して仏教を広めることに尽力していたことがわかります。

聖武天皇の時期に栄えた文化は?

聖武天皇の時期に栄えた文化は、天平文化と言います。

奈良時代は、遣唐使の影響などによって、国際色豊かな仏教文化が日本にもたらされました。

その結果、天平文化は、唐を中心にペルシアやインドなど世界各地の影響を包含した文化となっています。

また、聖武天皇の仏教政策の影響を受け、国家仏教色が強いのも特徴の1つです。

そして、平城京を中心に、壮大で華麗な建造物や仏像などが次々と建てられました。

\ 聖武天皇の時代に栄えた天平文化についてはこちらの記事で詳しく解説しております /

奈良時代の天皇には誰がいた?

【奈良時代の天皇一覧】

  • 第43代天皇:元明天皇(707年(慶雲4年)〜715年(和銅8年))
  • 第44代天皇:元正天皇(715年(和銅8年)〜724年(養老8年))
  • 第45代天皇:聖武天皇(724年(神亀元年)〜749年(天平感宝元年))
  • 第46代天皇:孝謙天皇(749年(天平勝宝元年)〜758年(天平宝字2年))
  • 第47代天皇:淳仁天皇(758年(天平宝字2年)〜764年(天平宝字8年))
  • 第48代天皇:称徳天皇(764年(天平宝字8年)〜770年(神護景雲4年))(孝謙天皇重祚)
  • 第49代天皇:光仁天皇(770年(宝亀元年)〜781年(天応元年))
  • 第50代天皇:桓武天皇(781年(天応元年)〜806年(大同元年))

奈良時代の権力争いの変遷は?

奈良時代の天皇は、天皇中心の政治を作っていこうとしていましたが、実際の権力は、藤原氏とその他が交互に担っていくこととなりました。

簡単に流れを見ていくと、

藤原不比等→長屋王→藤原四子→橘諸兄→藤原仲麻呂(恵美押勝)→道鏡→藤原百川

以上のような流れで、激しい権力争いが繰り広げられていました。

この中でも、特に注目したいのが藤原不比等です。

奈良時代初期の元明・元正天皇は女帝で、自然と太政大臣の発言力が強まっていきました。そしてこの際、実質的に最上位の地位にあったのが、右大臣・藤原不比等でした。

奈良時代の基本路線は、この藤原不比等によって作られたと言っても過言ではありません。

さらに、藤原不比等は自身の娘を文武天皇と結婚させるなどして、天皇との結び付きを深めていきました。

このことが、後に絶大な権力を握ることとなる藤原家の基盤となっていくのです。

奈良時代は、平安時代に全盛期を誇る藤原氏の、基礎が出来上がった時代と言い換えることもできるでしょう。

まとめ:聖武天皇は常に国のことを考え、国のために行動していた天皇だった

聖武天皇の治世では、立て続けに飢饉や病気の流行が起きたり、政治情勢もあまりよくありませんでした。そこで聖武天皇は国の安泰を願い、鎮護国家を目指し、そのような行動をしていました。

今回の内容をまとめると、

  • 聖武天皇は国のことを常に考え、度重なる厄災は自身の責任であると考えていた
  • 聖武天皇は、国の安泰を願い鎮護国家を目指した
  • 聖武天皇の妻 ”光明皇后”も仏教の興隆に尽力していた

聖武天皇は、度重なる厄災から逃れるため、何度も遷都を行ったりもしました。このことから、「ノイローゼ」「軟弱」「わがまま」といったようなイメージを持たれることもあります。しかし、誰よりも国のことを責任を持って考えていた天皇であったと言えるでしょう。

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