吉田松陰の松下村塾には四天王と呼ばれる弟子がいた!吉田松陰の教えとは?

吉田松陰の松下村塾|四天王や門下生一覧、松下村塾ではどんな教えをしていたのか?

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幕末の思想家・教育者である吉田松陰よしだしょういん(1830‐1859)は、松下村塾しょうかそんじゅくを主宰し多くの弟子を教えました。松下村塾の当時の建物は現存しており、世界遺産に登録されています。
今回は、吉田松陰の主宰していた松下村塾とはどんな塾だったのか?門下生について、そして松下村塾の四天王とは誰なのか?を詳しく見いきます。

吉田松陰の松下村塾とは、一体どんなことを教えていたのか?

松下村塾は、吉田松陰の実家である長州萩城下松本村(現在の山口県萩市)に開かれた私塾です。
幕末や明治政府で活躍した人物を多く排出している松下村塾では、どのようなことを教えていたのでしょうか。
詳しくみていきましょう。

松下村塾の成り立ち

松下村塾は吉田松陰が開いたと思われがちですが、実際は吉田松陰の叔父・玉木文之進が始めました。
松下村塾の成り立ちとその歴史を見ていきましょう。

【松下村塾の歴史】

1842年(天保13)
叔父・玉木文之進が松下村塾を開く
吉田松陰も入塾

1849年(嘉永2)
近所で塾を営んでいた久保五郎左衛門(吉田松陰の外伯父)が、松下村塾の名前を引き継ぐ

1855年(安政2)
吉田松陰が長州藩の牢獄・野山獄を出て実家の杉家に幽閉処分となる
家族や親族を相手に講義をするようになる

1856年(安政3)
吉田松陰の講義に、近所の子弟が多く参加するようになる

1857年(安政4)
実家の隣の小屋を改装。松下村塾の名前を引き継ぎ、8畳1間の塾を主宰する。

1858年(安政5)
吉田松陰が倒幕を唱え、再び野山獄に投獄されたため、松下村塾が中断


長州藩には藩校の明倫館がありました。
明倫館は、水戸藩の弘道館、岡山藩の閑谷学校と並び、日本三大学府の一つと称された学校で、吉田松陰はわずか9歳で明倫館の兵学師範に就任しました。
生徒としてではなく、兵学師範です。吉田松陰は幼少の頃から非常に優秀だったのです。
この明倫館の出身者には木戸孝允きどたかよし桂小五郎かつらこごろう)、高杉晋作たかすぎしんさく井上馨いのうえかおるらがいます。
漢学、音楽、医学、天文学、算術などのほかに、広大な敷地で剣術や馬術なども教わることができました。

明倫館は名門であるがため、士分と認められた者しか入学できませんでした。
その一方で、松下村塾は武士や町民の身分を問わず、分け隔てなく門戸が開かれていました。

松下村塾の門下生はどのような活躍をした?

吉田松陰が松下村塾を主宰したのは、1857年から1858年のわずか2年ほどでしたが、その門下生の多くは倒幕運動や明治新政府で活躍をしました。
どんな門下生がいたのか?詳しく見ていきましょう。

日本の近代化を推し進めた、松下村塾の門下生たち

尊王攘夷を唱える吉田松陰の影響を受け、松下村塾の門下生の多くは倒幕運動に身を投じました。
特に久坂玄瑞高杉晋作吉田稔麿などは戦いの最前線で活躍しましたが、明治維新を見ずに道半ばで亡くなった人も多くいました。

生き残った門下生は、伊藤博文いとうひろぶみ山県有朋やまがたありともは内閣総理大臣となったり、他の門下生も明治新政府の要職や大学の創業者など、日本の近代化を推し進める重要人物となりました。

長州という、幕府や朝廷から離れた場所にある学校から、しかも身分を問わず近所の子供を集めただけの松下村塾から、日本を変える人物が多数輩出されたのは、とんでもないことですね。

吉田松陰の教え

松下村塾に定まった科目はなく、授業は塾生が来ればいつでも行われました。授業の内容は次のようなものです。

  • 孟子(漢詩)
  • 山鹿流兵法
  • 時事
  • 倫理学
  • 地理学
  • 歴史
  • 経済
  • 芸術

時には吉田松陰の弟子が得意分野を講義したり、時には登山や水泳なども行われたそうです。
吉田松陰は入塾を希望する者には必ず
「何のために学ぶのか」
を質問し、学ぶだけではなく実行することの大切さを説きました。
また、吉田松陰は教卓も置かず、世界地図を持って動き回り、弟子と一緒に討論を行いました。今でいうアクティブラーニングを、すでに幕末に実践していたのですね。

松下村塾の門下生からはのちの日本をつくった人物が多数排出された

左から、山県有朋・木戸孝允・伊藤博文(松陰記念館)

松下村塾の塾生名簿は現存していませんが、その門下生は約90名いたと言われています。
その松下村塾の門下生の中でも、幕末から明治にかけて特に活躍した人物を一覧としてご紹介していきます。

松下村塾の門下生一覧

松下村塾の門下生を一覧でご紹介します。

久坂玄瑞くさかげんずい(1840‐1864)
松下村塾の双璧と呼ばれ、長州藩の尊王攘夷の志士として活躍
禁門の変きんもんのへん蛤御門の変はまぐりごもんのへんで自害

高杉晋作たかすぎしんさく(1839‐1867)
松下村塾の双璧と呼ばれ、長州藩の尊王攘夷の志士として活躍
奇兵隊を組織したが、肺結核により死去

吉田稔麿よしだとしまろ(1841‐1864)
久坂玄瑞、高杉晋作と合わせて松下村塾の三秀と呼ばれる
松下村塾初期の門下生「三無生」の一人
長州藩の尊王攘夷の志士として活躍するが、池田屋事件で討ち死

入江九一いりえくいち(1837‐1864)
久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿と合わせて松下村塾の四天王と呼ばれる
禁門の変きんもんのへん蛤御門の変はまぐりごもんのへんで自害

伊藤博文いとうひろぶみ(1841‐1909)
明治維新後、初代内閣総理大臣となる

山縣有朋やまがたありとも(1838‐1922)
第9代内閣総理大臣

前原一誠まえばらいっせい(1834‐1876)
明治維新後、萩の乱の首謀者として処刑

品川弥二郎しながわやじろう(1843‐1900)
明治維新後、内務大臣をつとめる
現在の獨協大学や京華中学・高校を創立

山田顕義やまだあきよし(1844‐1892)
明治新政府で初代司法大臣をつとめる
日本大学の前身である日本法律学校や、現在の國學院大学を設立

野村靖のむらやすし(1842‐1909)
入江九一の弟
明治維新後、内務大臣、逓信大臣などを歴任

正木退蔵まさきたいぞう(1846‐1896)
現在の東京工業大学の初代校長、ハワイ総領事
イギリス留学時、「宝島」で知られる文豪スティーブンスンに吉田松陰の思い出を語り、スティーブンスンは世界初の松陰の伝記「YOSHIDA-TORAJIRO(ヨシダ トラジロウ)」を著している。

飯田俊徳いいだとしのり(1847‐1923)
日本最初の鉄道技術者養成機関として設立された工技生養成所で教鞭を執るなど、日本の鉄道敷設に努めた

松浦松洞まつうらしょうどう(1837‐1862)
松下村塾初期の門下生「三無生」の一人
安政の大獄によって江戸に送られる直前の吉田松陰の肖像画を描き残した
長井雅楽ながいうたの暗殺を企図するが断念し、自害。

増野徳民ましのとくみん(1841‐1877)
松下村塾初期の門下生「三無生」の一人
長井雅楽暗殺計画に加わろうとして失敗し、故郷で医業に専念。

寺島忠三郎てらしまちゅうざぶろう(1843‐1864)
長州藩の尊王攘夷の志士として活躍
禁門の変きんもんのへん蛤御門の変はまぐりごもんのへんで自害

有吉熊次郎ありよしくまじろう(1842‐1864)
禁門の変きんもんのへん蛤御門の変はまぐりごもんのへんで自害
作家・有吉佐和子の曾祖父

時山直八ときやまなおはち(1838‐1868)
奇兵隊参謀として活躍
北越戦争における越後長岡藩との朝日山攻防戦にて敗死

玉木彦助たまきひこすけ(1841‐1865)
玉木文之進たまきぶんのしんの息子で、吉田松陰の従弟
元服の際、吉田松陰から「士規七則」を贈られる
美弥郡絵堂の戦いで負傷し自害

駒井政五郎こまいまさごろう(1841‐1869)
戊辰戦争で征討軍の軍監を務める
二股口の戦いで戦死

渡辺蒿蔵わたなべこうぞう(1843‐1939)
明治維新後、造船技術者として活躍
吉田松陰から直接教わった松下村塾塾生として最後の生き残りで、唯一昭和時代まで生きた

松本鼎まつもとかなえ(1839‐1907)
明治維新後、内務官僚、政治家として活躍

岡部富太郎おかべとみたろう(1840‐1895)
木戸孝允が妻・幾松と婚姻する際に、幾松の養父役になった
明治維新後は山口・大阪・兵庫の各県に出仕

ほんの一部ですが、吉田松陰の松下村塾の門下生からは、幕末から明治にかけて激動に変化する日本の中で、総理大臣や政治家など、変革期をになった人物が多数排出されています。
この門下生一覧だけでも、松下村塾にどれだけ優れた人物がいたのかが伺えますね。

吉田松陰の影響を強く受けた人物(松下村塾の門下生以外)

ここでは、松下村塾の門下生ではありませんが、吉田松陰の影響を強く受けた人物を紹介します。

楫取素彦かとりもとひこ(1829‐1912)
もとの名は小田村伊之助ですが、藩命により楫取素彦と改名
吉田松陰とは藩校・明倫館で同僚になり、松下村塾の運営にも携わりました。
吉田松陰が投獄された後は松下村塾を継続するために塾生の指導にもあたりました。また吉田松陰の妹の寿と結婚し、寿に先立たれた後、久坂玄瑞の未亡人であった末妹の文と再婚しました

木戸孝允きどたかよし(1833‐1877)
もとの名は桂小五郎ですが、木戸孝允に改名
明治維新の指導者として大久保利通、西郷隆盛とともに維新の三傑の一人に数えられます。藩校・明倫館で師範を務めた吉田松陰から教えを受けました。
松下村塾の門下生ではありませんが、吉田松陰が「親友」と呼ぶ同志のような人物です。

松下村塾には四天王と呼ばれる、吉田松陰の弟子がいた

多くの優秀な人物を輩出した松下村塾ですが、中でも吉田松陰が目をかけ、松下村塾の四天王と呼ばれた門下生がいました。
それぞれ詳しく見ていきましょう。

久坂玄瑞

吉田松陰が
「年少防長第一流の人物たり。因って亦、天下の英才たり」
と言い、最も優秀だと評価された人物です。
高杉晋作と並び、松下村塾の双璧とも呼ばれます。松陰の末妹・文と結婚しました。
久坂玄瑞は、医者の家系に生まれ非常に勉強熱心でした。
身長180㎝の美男子だったと言われています。

吉田松陰が死罪となってからは、尊王攘夷運動の中心人物として活躍し、坂本龍馬や中岡慎太郎、西郷隆盛など幕末の志士達に多大な影響を与えました。
最期には禁門の変(蛤御門の変)で自害しました。享年25歳です。

高杉晋作

久坂玄瑞と並び、松下村塾の双璧とも呼ばれます。久坂玄瑞とは幼馴染でした。とても頑固な性格だったと言われています。
身分に関係なく攘夷の意思を持つ男子を集めて、奇兵隊を結成しました。
奇兵隊は明治維新で快進撃を続けますが、高杉晋作自身は結核にかかり、明治維新を見ずに逝去しました。享年27歳です。

吉田稔麿

久坂玄瑞、高杉晋作と並び、松下村塾の三秀と呼ばれます。
久保五郎左衛門が松下村塾を開いていた頃からの門下生として、増野徳民、松浦松洞と共に「三無生」とも言われています。
松陰から
「陰頑にして皆人の駕馭を受けざる高等の人物なり」
と高く評価されました。最期は池田屋事件で討ち死にしました。享年24歳です。

入江九一

久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿と並び、松下村塾の四天王と呼ばれます。
吉田松陰から直接教えを受けたのはわずか1か月あまりでしたが、松陰の影響を大きく受け、門下生の大半が反対した松陰の老中・間部詮勝要撃計画まなべあきかつようげきけいかくに加わるなど、最後まで師に追従しました。
最期は禁門の変(蛤御門の変)で自害しました。享年28歳です。

松下村塾の四天王は明治維新前に亡くなったが、門下生は歴史に大きく影響を与えた

幕末に地方の一私塾で多くの門下生を教え、その門下生たちはのちの明治維新・明治政府で要人につく者を排出した吉田松陰と松下村塾。その門下生たちは、明治政府にて要人になっていない者でも、優秀な人物が多数いました。
今回の内容をまとめると、

  • 松下村塾では孟子や山鹿流兵法などを教え、討論や実践を重んじる内容だった
  • 門下生の久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一は松下村塾の四天王と呼ばれた
  • 松下村塾の門下生の多くは、尊王攘夷運動で活躍したが、明治維新前に亡くなった
  • 伊藤博文、山縣有朋など明治新政府で活躍した門下生も多くいた

2年という短い期間、近所の子供を教えただけにも関わらず、歴史に名を残す優秀な人材が多数育ったのは、松陰の指導者としての能力が傑出していたためでしょう。松陰がもっと長く松下村塾で教えることができたなら、歴史は大きく変わっていたかもしれませんね。

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