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吉田松陰の生涯を年表で簡単に解説!弟子は?死因は?功績は?

吉田松陰の生涯を年表で簡単に解説!弟子は?死因は?功績は?

吉田松陰(1830-1859)は幕末の思想家・教育者です。
松下村塾で多くの弟子を教え、明治維新を精神的に率いたことで有名ですが、具体的にどのような人物だったのでしょうか?
今回は、吉田松陰の生涯を年表をもとに、その生涯を振り返りながら、弟子や死因などについて、簡単に解説していきます。

吉田松陰とはどんな人?

吉田松陰は現在の山口県萩市で生まれ、29歳でこの世を去りました。
吉田松陰は、一体どのような人物だったのでしょうか。

吉田松陰よしだしょういん
生年:1830 (文政13)年 長州萩城下松本村(現在の山口県萩市)
没年:1859(安政6)年 満29歳没
父:杉百合之助 | 母:滝
肩書:兵学師範、松下村塾主宰
思想:尊王攘夷、倒幕論者

吉田松陰の年表

1830(文政13)年 0歳
長州萩城下松本村(現在の山口県萩市)にて、長州藩士である父・杉百合之助、母・滝の次男として生まれる

1834(天保5)年 4歳
山鹿流兵学師範である叔父・吉田大助の養子となり、兵学を修める

1835(天保6)5歳
叔父・吉田大助が死亡
代わって叔父の玉木文之進が吉田松陰を教える
吉田松陰は吉田家の当主となる

1839年(天保10)9歳
長州藩の藩校、明倫館の兵学師範に就任

1841(天保12)11歳
長州藩主 毛利慶親もうりたかちかに御前講義を行う

1842(天保13)12歳
叔父・玉木文之進が松下村塾を開き、吉田松陰も入塾する

1850(嘉永3)20歳
西洋兵学を学ぶため九州遊学

1851(嘉永4)21歳
肥後藩の宮部鼎蔵みやべていぞうと共に東北遊学
出発日の約束を守るため、長州藩の通行手形を持たずに旅立ち、脱藩になる

1852(嘉永5)22歳
脱藩の罪で藩士の身分を取り上げられる

1853(嘉永6)23歳
10年間の他国遊学の許可が出る

1854(嘉永7/安政元)24歳
ペリーが伊豆国下田(現在の静岡県下田市)に来航
長州藩足軽の金子重之助かねこしげのすけとともに密航を試みるも失敗し自首
長州藩の牢屋・野山獄に入れられる

1855(安政2)25歳
出獄を許され、実家の杉家に幽閉処分となる

1857(安政4)27歳
叔父・玉木文之進の松下村塾を引き継ぎ、主宰者として実家で授業を始める

1858(安政5)28歳
日米修好通商条約が締結
倒幕を唱えたため危険人物と見なされ、再び野山獄に投獄される

1859(安政6)29歳
安政の大獄に連座し、江戸へ送致される
伝馬町牢屋敷に入れられ、斬首刑に処される

吉田松陰とは何をした人なのか?

吉田松陰は次のことで有名です。

  • ・松下村塾で優秀な人材を育てた
  • ・数多くの名言を残した

吉田松陰は、幕末の志士を多数輩出した松下村塾を主宰しました。
また吉田松陰はメモ魔として知られており、残された多数の著作や手紙から、多くの名言が生まれました。
現代でも「覚悟の磨き方」や「吉田松陰1日一言」など書籍化されており、吉田松陰の言葉に触れることができます。

松下村塾で優秀な人材を育てた

松下村塾は、吉田松陰の叔父・玉木文之進が1842(天保13)年に開きました。
長州藩には藩校の明倫館がありましたが、明倫館には士分と認められた者しか入学できません。松下村塾は武士や町民の身分を問わず、分け隔てなく開かれた私塾でした。

1855年(安政2)、野山獄を出て実家の杉家に幽閉処分となった吉田松陰は、家族や親族に講義をして過ごしました。
ここに近所の子弟が多く参加するようになったため、実家の隣の小屋を改装し、1857(安政4)年、松下村塾の名前を引き継ぎ、8畳1間の塾を主宰しました。
松下村塾は一方的に講義をするのではなく、弟子と一緒に意見を交わしたり、弟子が得意分野を講義したり、登山や水泳なども行う「生きた学問」だったといわれています。

松下村塾の塾生には、

  • 伊藤博文いとうひろぶみ
  • 高杉晋作たかすぎしんさく
  • 山縣有朋やまがたありとも
  • 久坂玄瑞くさかげんずい
  • 吉田稔麿よしだとしまろ

など、のちに明治維新・明治新政府の中心となった人物が多くいました。
高杉晋作、久坂玄瑞は、
識の高杉、才の久坂」と称され、「松下村塾の双璧」と呼ばれました。
また、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿の3人を
松陰門下の三秀」と呼び、さらに入江九一いりえくいちを合わせて「松下村塾の四天王」と称されました。

吉田松陰は倒幕を唱えたため危険人物と見なされ、1858(安政5)年に再び野山獄に投獄されます。
松陰の松下村塾は1~2年しか開塾されませんでしたが、その後の弟子たちの活躍を見れば、いかに高度な講義が行われていたかが分かります。

数多くの名言を残した

吉田松陰は論語や孟子など四書五経に基づく思想家で、示唆に富む数多くの名言を残したことでも知られます。享年29歳の短い生涯ながらも、残された著作や手紙などの書き物は50を超えます。

吉田松陰が残した中でも、特に有名な著作と名言をご紹介します。

士規七則
いとこの玉木彦介の元服を祝して松陰が贈った言葉で、のちに松下村塾の規則となりました。時には松陰が一節を記し、弟子に贈ることもあったそうです。

を立てて以て万事の源と為す。」

すべての実践は志を立てることから始まるというこの言葉は、志の在り方を重んじた松陰の思想がはっきりと現れています。

講孟余話こうもうさっき
吉田松陰が24歳の時に著しました。これは松陰が孟子についてまとめた本で、作成中は「講孟剳記こうもうさつき」といわれましたが、完成と同時に「講孟余話」と改題されました。
1854(嘉永7)年、吉田松陰はペリー来航に合わせて密航を試み、野山獄に投獄されました。
この時、囚人を相手に論語や孟子を講じ、内容をまとめたのが「講孟余話」です。

「仁とは人なり。人に非(あら)ざれば仁なし、禽獣(きんじゅう)是(こ)れなり。仁なければ人に非ず、禽獣に近き是なり。必ずや仁と人と相合するを待ちて道と云(い)うべし。」

仁とは人間にそなわった人を思いやる心である。鳥や獣には仁がない。仁がなければ人間ではなく、鳥や獣に近いものになってしまう。従って、仁がそなわった人間としての行動こそが人の道ということができる。
ただの思想家に留まらず、自ら行動し、投獄されながらも人の在り様を説く松陰らしい言葉です。

吉田松陰の名言については、こちらの記事でより詳しく紹介しています。
吉田松陰の名言20選!幕末の天才が残した言葉を分かりやすく解説>>

吉田松陰とはどんな人物だった?

吉田松陰は2度投獄されています。
1度目は、ペリー来航に合わせて密航を試みたため。
2度目は、尊王攘夷を激しく主張したため。

2度も投獄されながらも、自分の意思を貫き通した吉田松陰。
吉田松陰の人柄をまとめると、

  • 9歳にして藩校の兵学師範に就任し、天才と呼ばれていた
  • 好奇心旺盛で、黒船に乗り込み海外へ行こうとしていた
  • 妻子はなかったが、弟子たちに恵まれ慕われていた

それぞれ詳しく見ていきましょう。

天才と言われた幼少期

吉田松陰の父・杉百合之助は生真面目な男で、母・滝は明るく前向きな性格でした。杉家は大変貧しく、松陰も畑仕事をしながら四書五経を暗唱したそうです。
1834(天保5)年、松陰は4歳で叔父・吉田大助の養子になりましたが、翌年に大助は逝去します。
そうして、吉田家当主となった松陰は家業である兵学師範の職を継ぐため、もう一人の叔父・玉木文之進から厳しい教育を受けて育ちました。

松陰は1839年(天保10)年、9歳にして長州藩の藩校・明倫館の兵学師範に就任します。
玉木文之進が後見に付いていたとはいえ、生徒ではなく先生として学校に入ったのですから驚きですね。

1841(天保12)年、11歳の松陰は長州藩主藩主 毛利慶親の前で「武教全書」の講義を行いました。
それを見た毛利慶親は大変驚き、「松本村に天才あり」と松陰の名が知れ渡ったそうです。

きっかけは黒船来航?投獄された理由とは

1850(嘉永3)年、吉田松陰は西洋兵学を学ぶため九州に遊学し、長崎や平戸を旅しました。
この初めての遊学は、吉田松陰にとって大きな影響を与えます。

1851(嘉永4)年、松陰は友人の宮部鼎蔵と共に東北へ遊学することを計画します。江戸時代は各所に関所があり、通行手形が必要でしたが、松陰は宮部鼎蔵との出発日の約束を守るため、長州藩の通行手形を持たずに旅立ちました。期せずして脱藩してしまったのです。
翌1852(嘉永5)年江戸に戻った松陰は罪に問われて萩に送還され、「育(はぐくみ)」という長州藩独特の処分を受けました。松陰の士分(藩士の身分)は剥奪、家禄は没収されるものの、士分は父・杉百合之助が引継ぎ、父の監視の下で10年間の遊学期間を与えられるというものです。
遊学して見聞を広め、10年後には士分を取り戻すという寛大な処置であり、毛利慶親が松陰の才能を評価していたところが大きかったようです。

1854(嘉永7)年ぺリーが伊豆国下田(現在の静岡県下田市)に来航した際、松陰は弟子の金子重之助とともに小舟で黒船に乗り込み、一緒に海外へ連れて行ってくれるよう頼みました
しかし、ペリーに断られた吉田松陰は、密航が発覚して藩に迷惑がかかることを恐れ、自首します。
捕らえられた松陰は長州藩の野山獄に入れられました。
これが一度目の投獄です。

二度目の投獄は1858(安政5)年、28歳のときです。
幕府が天皇の許可を得ずに日米修好通商条約を締結したことに激怒した吉田松陰は、老中・間部詮勝に条約破棄と攘夷を迫り、受け入れられなければ間部詮勝まなべあきかつを暗殺するという計画を立てます。
松陰の思想と動きを危険視した長州藩により、松陰は再び野山獄に投獄されました。
吉田松陰が投獄されたのは、いずれも自分の志に基づき行動した結果だったのです。

妻子は無くとも弟子に恵まれた生涯

吉田松陰は生涯独身で実子はいませんでしたが、周囲の人間に慕われ尊敬される存在だったようです。
投獄中は吉田松陰の母・滝が足繫く通って差し入れや洗濯をし、高杉晋作などの弟子たちは頻繁に面会に来たそうです。
また、友人の楫取素彦かとりもとひこや松陰の弟子たちは、松陰投獄後も松下村塾を存続させようと、代わって講義を行いました。
吉田松陰の思想と才能は、優秀で情に厚い人を引き寄せたのでしょう。
なお、楫取素彦と松陰の弟子・久坂玄瑞は、吉田松陰の妹2人とそれぞれ結婚しました。
久坂玄瑞の妻、のちに楫取素彦の後妻となった妹の杉文は、大河ドラマ「花燃ゆ」の主人公です。

吉田松陰の死因は死罪

吉田松陰は安政の大獄に連座して死罪となり、29歳でこの世を去ります。
吉田松陰自身に罪はありませんでしたが、評定所で自ら老中暗殺計画を暴露したため、斬首刑に処されました。
詳しい経緯を見ていきましょう。

安政の大獄に連座した理由

1859(安政6)年に行われた安政の大獄は、大老・井伊直弼が尊王攘夷派を弾圧した政治的な事件です。
攘夷派の先鋒だった梅田雲浜うめだうんぴんが捕縛され、松陰が梅田雲浜と面会していたことを理由に、松陰は野山獄から江戸の伝馬町牢屋式に移されました。
吉田松陰自身に罪は無く、梅田雲浜との会話内容を確認されるだけの取り調べでした。
しかし吉田松陰は、自ら老中 間部詮勝の暗殺計画を暴露し、幕府の批判と攘夷の必要性を述べたのです。
そうして吉田松陰には斬首刑が言い渡されました。

29年の生涯、最期の時

吉田松陰は死罪となる最後まで堂々とした態度を崩さず、処刑する役人に「ご苦労様」と声をかけたと言われます。

吉田松陰は辞世の句を3つ残しました。

・弟子たちに宛てた辞世の句
身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂
(私の身が武蔵の地で朽ちてしまおうとも、大和魂だけは留めておきたいものだ)

・家族宛にあてた辞世の句
親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん
(私が親を思う以上に、私のことを思ってくれる親心。今日私が処刑されることを、どのように聞いておられることだろう)

・辞世の句として詠んだ漢詩
我、今、国のために死す。死して君親に背かず、悠々たり天地の事。鑑照は明神にあり
(私は今、国のために命を捧げる。これは決して主君や親に対する忠孝の道に背くことではない。はるかなこの国の行く末を憂うばかりだ。神々よ、どうか御照覧ください)

死ぬことによって志が達成できるならば、いつ死んでも良い」と語っていた吉田松陰は、自分の言葉どおりに生き、短い生涯を閉じました。

吉田松陰の名言については、こちらの記事でより詳しく紹介しています。
吉田松陰の名言20選!幕末の天才が残した言葉を分かりやすく解説>>

まとめ:吉田松陰は幕末の志士に大きな影響を与えた、精神的支柱だった

吉田松陰は、幼い頃から天才と呼ばれ、その才能と人柄にたくさんの弟子が慕ってきていました。そして、自らの志と覚悟のごとくその最後を迎えました。
今回の内容をまとめると、

  • 吉田松陰は松下村塾で優秀な人材を育てた
  • 吉田松陰は数多くの名言を残した
  • 黒船の密航と尊王攘夷の思想により2度投獄された
  • 安政の大獄で死罪になった
  • 吉田松陰に学んだ門下生からは、明治政府の要人が多数排出されている

吉田松陰は29年の短い人生ながら志どおりに生き、幕末の志士に大きな影響を与えました。残された名言の多くは、いまでも私たちの精神的支柱となっています。明治政府は、吉田松陰の思想を引き継いだ門下生たちが作ったと思うと、吉田松陰の影響がいかに大きかったかを実感しますね。

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