西郷隆盛の死因は腫れ物?西南戦争での最後の様子と最後に残した言葉とは?

西郷隆盛の死因は腫れ物?西南戦争での最後の様子と最後に残した言葉とは?

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西郷隆盛:1828年(文政10年)1月23日〜1877年(明治10年)9月24日は、幕末から明治初期にかけて活躍した薩摩藩出身の武士です。江戸城無血開城を成功させたり、現代の日本の基礎となる条例などを数多くつくりあげ、大久保利通・木戸孝允と並び維新の三傑とも称されています。

西郷隆盛は、明治の初期の頃に49歳の若さで亡くなっています。西郷隆盛の晩年は、感染症により皮膚が硬化し腫れ上がったりと病気に苦しめられていました。また、かなりの甘いもの好きで、肥満にも苦しめられられたようです。

西郷隆盛最後の戦いとなった、日本最後にして最大の内乱「西南戦争」

今回は、西郷隆盛の死因や、西南戦争での最後の様子、最後の言葉に込められた想いについて解説していきます。

西郷隆盛の死因は西南戦争での自害?

幕末から明治にかけて活躍した西郷隆盛の最後の戦いとなったは、日本最大にして最後の内乱「西南戦争」です。
西南戦争は、明治政府に対して士族(江戸時代の武士階級の人々)の内乱で、その中心人物となったのが西郷隆盛です。
西南戦争は、熊本・宮崎・大分・鹿児島と九州南部で起こった内乱です。この戦いで、明治政府軍の勢いに押された西郷隆盛は、別府晋介に介錯を依頼し自らの命を断ちました。

西郷隆盛と見分けれたのは腫れ物だった

西郷隆盛は1877年(明治10年)の西南戦争に敗れ、別府晋介の介錯で自害しています。西郷隆盛の首は見つからないように隠されたと言われていますが、なぜ首のない遺体が西郷隆盛と分かったのでしょうか。

晩年に西郷隆盛が患っていたある病がきっかけで、首のない遺体が西郷隆盛だと判明したのです。

その病はフィラリア症と言い、蚊を媒介して糸状の寄生虫がリンパ管やリンパ節に寄生するもので、体の末梢部分の皮膚が増殖して硬くなったり、陰嚢に水がたまるといった症状を引き起こす病気です。
西郷隆盛も、晩年はこの病気によって陰嚢が人の頭ほどに腫れて馬に乗れず、いつも篭を使っていたという話もあるようです。これが真実なら、身体から西郷隆盛を見分けることが出来たのではないかと言われています。

実は、西郷隆盛が悩まされていたこの腫れ物によって亡くなったのではないか?という説があるのですが、これは嘘のようです。なぜこのような説が出たのかは不明ですが、おそらく西南戦争で亡くなった際に、西郷隆盛を見分ける基準になったというのが真相のようです。

西郷隆盛は肥満で苦しんでいた

西郷隆盛は、薩摩名物の豚骨や甘い物に目が無かったようで、かなりの肥満体質でした。遺された軍服などから身長5尺9寸(約 178cm),体重29貫(約110kg)だったと推定されています。この当時の日本人男性の平均身長は155cm前後と言われており,まさに肥満体質だったようです。

その肥満のせいで40歳を超えて胸の痛みを訴えるようになり、親交のあった明治天皇が心配し、ドイツ人の医師の診察を受けさせたと言います。医師の診断で、中風(現代の脳卒中)の危険を指摘された西郷隆盛は、過激なダイエットプログラムを課されたそうです。

【西郷隆盛のダイエットプログラム】

  • 日5回の下剤(ひまし油)を飲む
  • 食事制限
  • 運動療法

真面目な性格の西郷隆盛は、下剤の服用で下痢をして体力が弱っている上に、少ない食事で、愛犬を連れて毎日ウサギ狩りに出かけたといいます。その甲斐あって体重は3年間で30kgほども落ちたようです。

上野の西郷隆盛像は、愛犬を連れてウサギ狩りをしている様子を再現したものです。

西郷隆盛の銅像の除幕式の際、西郷隆盛の妻・糸が「うちの旦那さぁはこげな人じゃなか!」と絶叫したといいます。狩りに適さない着流し姿に納得しなかったらしく、これを耳にした西郷隆盛の弟・西郷従道が、あわてて注意したというエピソードが残されています。

西郷隆盛はなぜ西南戦争を起こしたのか?

西南戦争は、1877年(明治10年)に起こった、士族による明治政府への反乱のことです。士族とは、江戸時代に武士階級に当たっていた人々で、倒幕運動の際、明治政府に協力し、貢献していました。

士族が明治政府に反乱を起こした原因は一体何だったのでしょうか?

この戦いは、薩摩藩や長州藩の士族たちが中心となりました。倒幕に成功し、時代は明治に変わりましたが、武力と権力は必要ないとされ、士族の特権が、次々と廃止されていきます。

これに不満を募らせた、各地の士族達が明治政府に対して反乱を開始します。
1874年(明治7年) 佐賀の乱を皮切りに、1877年(  明治10年) の西南戦争まで続いていったのです。

【廃止された士族の特権】

  • 秩禄処分  1876年 (明治9年)
  • 廃刀令   1876年 (明治9年)3月28日
  • 士農工商の廃止
  • 平民苗字必称義務令

秩禄処分とは、給料の打ち切りです。江戸時代、士族達は将軍や大名から秩禄(給料)をもらうことで生活を成り立たせていました。時代が明治に変わっても、当初は、戊辰戦争による功績が讃えられ、明治政府から秩禄が支給されていたようです。しかし、近代国家実現のためには、多額の費用がかかり、士族に秩禄を支払い続けることが厳しくなった明治政府が、秩禄の支払いを打ち切ったのです。

廃刀令は、1873年(明治6年)の「徴兵令」によって帯刀権廃止し、武士の命とも言える刀を差しての外出を禁止しました。これに伴い皇族、政府の役人、軍人、警察官以外の者の帯刀は禁止されました。

士農工商の廃止は、江戸時代にあった身分制度の中でも士族と言う階級は、最も上位に位置する特権階級でした。その特権階級の権利を取り上げられたのです。

また、苗字を名乗れたのも、士族のみに与えられた特別な権利でしたが、1875年(明治8年)を平民苗字必称義務令により苗字を名乗れる特権を奪われました。

秩禄の打ち切りで、士族の生活大きく影響を受け、廃刀令や士農工商、平民苗字必称義務令では、士族としてのプライドが傷つけられたといい、これをきっかけに内乱が次々と勃発していきました。

【西南戦争へと発展した士族の反乱】

・佐賀の乱 :1874年(明治7年)
江藤新平・島義勇らが中心となり、佐賀で起こった内乱。士族側の兵士の人数は約3,000〜11,000人。
近代兵器を装備した政府軍に簡単に鎮圧されてしまいます。
戦死者は士族側が173人、政府軍が戦死209人。江藤や島を含む13人が死刑となりました。

・神風連の乱 :1876年(明治9年)
廃刀令への反対運動として起こされた内乱。士族側の兵士の人数は約170人。
熊本鎮台司令官の種田政明宅、熊本県令の安岡良亮宅を襲撃し殺害した後、全員で熊本城内を襲撃し、城内にいた兵士らを次々制圧した。しかし、新政府軍の本格的な反撃を受け、指導者が次々と死亡。それを受け、多くの兵士が自刃した。戦死者は士族側が124人、政府軍が戦死60人。

・秋月の乱:1876年(明治9年)
神風連の乱に呼応して、福岡で起こされた内乱。士族側の兵士の人数は約230〜240人。
政府軍が出動すると敵わないと察知した兵士が、大分方面に逃走し現地の士族たちに呼応を呼びかけますが、応じる者なく、結局新政府軍に鎮圧されました。戦死者は士族側が17人、政府軍が戦死5人。

・萩の乱:1876年(明治9年)
神風連の乱と秋月の乱に呼応して、山口で起こった内乱。士族側の兵士の数は約200人。
わずか200人の兵士では勝てるはずもなく、幹部ら5人が萩を抜け出し東京に行き、天皇直訴をしますが、途中で捕まり斬首刑となりました。萩に残された兵士も、新政府軍に1週間ほどで鎮圧されてしまいました。

・西南戦争:1877年(明治10年)
熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった、日本最大にして最後の内乱。
士族側の兵士の数は約30,000人。対する政府軍は80,000人〜100,000人。一連の士族反乱で最大規模となった。
西郷隆盛の自害により、幕を閉じた。

西郷隆盛を西南戦争へと突き動かしたのは大久保利通?

西南戦争は、1874年(明治7年)佐賀の乱に始まった明治政府に対する士族の反乱の最後の戦いで、1877年(明治10年)に起こった、日本最後にして最大の内乱です。
薩摩藩(鹿児島)の士族が中心となり、起こった西南戦争のリーダーとなったのが西郷隆盛でした。
西郷隆盛は、この戦いで大久保利通と激突することになりましたが、もともとこの2人は、薩摩藩の藩主島津斉彬に登用され、明治維新実現のために共に戦った朋友関係でした。

島津斉彬の意思を継ぎ、江戸城無血開城など明治維新に多大な貢献をした西郷隆盛は、なぜ自ら作った明治政府に反旗を翻す行動を起こしたのでしょうか?

江戸時代の既得権益を取り上げられた士族達が明治政府に不満を持ち、各地で反乱が続く中、西郷隆盛を首班とする政府が、武力によって朝鮮を開国させようとします(征韓論)。

当時、鎖国体制をとっていた朝鮮に日本が軍を送ることで、朝鮮を開国させようとしたのです。
そこには、ロシアの存在が関係しているようです。
日本にとって脅威の存在だったロシアが、万が一朝鮮を占領したら、日本は自国の防衛がより難しくなるため、朝鮮に対して開国をして国力を上げるよう働きかけつつ、国防体制を整えることが必要と西郷隆盛は考えていました。

しかし、この征韓論は、明治政府の間で賛成派と反対派に意見が真っ二つに分かれていました。その時、反対派にまわったのが岩倉具視大久保利通です。

西郷隆盛は「朝鮮派遣が認められなければ、明治政府を辞任する」考えを示し、薩摩出身者が大量に辞任するのを恐れた明治政府が、西郷隆盛の朝鮮派遣を認めます。

しかしこの西郷隆盛の考えに対し、征韓論反対派の大久保利通は辞表を表明。
そんな中、征韓論に反対だった岩倉具視が太政大臣代理に就任。
西郷隆盛らは、岩倉具視に対して使節派遣を明治天皇に上奏することを求めますが、岩倉具視は、派遣決定の上奏とともに、自らの意見である派遣中止も上奏しました。
結局、明治天皇は朝鮮使節派遣の中止を選択し、西郷隆盛の朝鮮派遣は幻となったのです。

西郷隆盛はこれを不服として明治政府を辞職。板垣退助、江藤新平もすぐさま辞表を提出し、参議などを辞職し、明治政府を去ります。辞職した彼らは、明治政府の中でも影響力が大きく、特に薩摩の指導者だった西郷隆盛の辞任の影響はとてつもなく大きいものでした。
西郷隆盛らの辞職を知った、約600人もの官僚・軍人が明治政府を辞職します。

この一大政変を「明治六年の政変」といいます。そうして、彼らは地方で士族の反乱の主導者となり、各地で士族の乱や自由民権運動が起こっていきます。そして最後には、西郷隆盛による西南戦争へと繋がっていったのです。

西郷隆盛は西南戦争で敗北すると考えていた

明治政府に不満を持っていた全国の士族達は、同じく明治政府に不満を持ち、辞職をした西郷隆盛を支持するようになり、集まるようになります。

西郷隆盛は、もともと戦争には反対でした。既に九州では各地で暴動が起きていたので、自分のもとに集まった士族達を危険視していました。

そこで、西郷隆盛は暴動を抑えることを目的に、私学校を設立し、士族達を教育していきました。しかし、その私学校では軍事訓練も行われていたため、このことが明治政府の反感を買うことになります。

明治政府は、西郷隆盛が士族達のリーダーとなって、大規模な反乱を起こす危険人物とし、薩摩藩の火薬庫にある武器弾薬を大阪へ移す計画を立てるのです。しかし、薩摩藩の士族に目撃され、激怒した士族達が明治政府の弾薬庫を襲撃するようになったのです。士族達の暴動はもはや収集がつかない状態とり、戦争を望んでいなかった西郷隆盛も、兵を率いて東京に向かう覚悟を決めたのです。

兵を率いて東京に向かったものの、西郷隆盛はあくまでも話し合いで解決を望み、戦争に反対の姿勢を持っていたといいます。しかし、とうとう戦争を行わなければならない事態に発展します。

明治政府が、薩摩出身の警察官たちを私学校へ送り込み、それに気付いた私学校党が尋問すると、潜入目的を西郷隆盛の視察(しさつ)と自供。しかし、薩摩出身の警察官が発した視察(しさつを刺殺(しさつ)と勘違いし、それを知った西郷隆盛が、ついに明治政府に反旗をひるがえす決意を固めたのです。

そして、ついに1877年(明治10年)、ついに西南戦争が勃発しました。兵力は、政府軍70,000人、西郷軍30,000人。しかも、武器の数にも大きな差があり、圧倒的に不利な状況でした。最終的に政府軍の戦死者が6,400人、西郷軍の戦死者が6,800人。

不利な戦いの中、最終的に西郷隆盛が自害をするという結末で、佐賀の乱 (1874年 明治7年)から始まった、一連の戦いが終わりを迎えたのです。

負けると分かっていた不利な戦いに、自らの命をかけて明治政府軍との戦いを選んだ西郷隆盛は、本心では戦いを望まず、友好な対話で平和を望んでいました。士族の怒りを鎮めるため、自らが中心となり、これを最後の内乱にしようとの強い思いがあったのでしょう。

西郷隆盛の最後の時

1877年(明治10年)2月15日、記録的な大雪の中、西郷率いる薩摩軍は鹿児島を出発。明治政府も2月19日に正式な出兵を決定し、西南戦争が始まりました。
【西南戦争の流れ】

  • 2月22日〜4月14日 熊本城攻め
  • 3月4日〜3月20日   田原坂の戦い
  • 9月1日〜9月24日 鹿児島、城山の戦い

西郷軍は、勢力では圧倒的に不利なため、まず熊本城を攻め落とし、戦いの拠点にしようと考えました。熊本城は、築城の名手として名高い加藤清正の築いた名城で、難攻不落と言われていましたが、城を守る政府軍は4,000人。攻める西郷軍は14,000人。
兵士のの数では圧倒的に西郷軍が有利かと思われましたが、西郷軍の一斉攻撃も、加藤清正が築城した「武者がえし」と呼ばれる高い石垣に阻まれ、苦戦を強いられます。

そこで、直接攻撃が難しいと判断した西郷軍は、相手の食糧補給路を断ち、兵糧を欠乏させることによって打ち負かす攻め方(兵糧攻め)に変更します。しかし、この作戦も失敗に終わります。

実は、熊本城には、52日間にも亘る籠城戦を耐え抜くだけの、豊富な水や食料の備蓄があったようです。

  • ・120ヵ所もの井戸が掘られ、豊富な水を確保
  • ・食糧確保のために銀杏の木を植えた
  • ・畳に保存食であるサトイモの茎を使った
  • ・壁にカンピョウを塗りこんだ

熊本城は籠城戦にも強い城で、52日間にも亘る籠城戦を耐え抜き、西郷軍はひとりも城内に侵入することができませんでした。まさに、相手軍の作戦勝ちです。

のちに西郷隆盛は、「官軍に負けたのではなく、清正に負けた」と嘆いたそうです。

加藤清正の城に関しては、こちらの記事にも詳しくまとめてあります。

>>加藤清正は築城の名手だった?その城造りの技術と清正にゆかりのある城を解説!>>

西郷隆盛率いる反政府軍は、熊本城を攻めている間、同時進行で田原坂を攻めていきます。

西南戦争における最大の激戦地となったのが田原坂です。田原坂は、政府軍にとって食糧や兵器などの物資を熊本城に運ぶための重要な通路でした。

そのため西郷軍にとっても、絶対潰しておきたい場所であり、3月4日から17日間、激しい死闘が繰り広げられました。政府軍は、最新型の銃を装備、対する西郷軍は旧式の銃で戦っていましたが、連日の雨がまたしても政府軍の味方になります。西郷軍の銃が雨に濡れて使えなくなり、刀での交戦を余儀なくされます。
また、軍服、靴を備えた政府軍に対し、木綿のかすりとわらじ姿の西郷軍は次第に体力を消耗していきます。
そうして、3月20日、田原坂での戦いは政府軍の勝利で幕を閉じました。

田原坂の戦いのあと、西郷軍は西郷隆盛の故郷・鹿児島へと戻ってきます。政府軍は5万人、西郷軍372人。圧倒的な兵力差です。9月1日、西郷軍は鹿児島に戻ると、城山に籠ります。
すると、政府軍は守備城山の周囲を蟻一匹這い出る隙もないほど厳重に包囲したのです。城山の頂上付近にいた西郷軍は、砲撃が激しくなったため、東側の岩崎谷に横穴を穿ってそこに移動します。

もはやこれまでと悟った西郷隆盛は、酒宴を催し最後の戦いに臨むことを誓い合います。そして、9月24日の早朝、政府軍の総攻撃で、城山での最後の戦いが始まるです。

西郷軍の一斉攻撃も、圧倒的な戦力差の前では太刀打ちできません。次々と討たれていき、とうとう西郷隆盛の腹と股を銃弾が貫きます。
すでに立つことが出来なかった西郷隆盛は、傍らにいた別府晋介に
『晋どん・・もう、ここいらでよか・・・』
と告げ、膝まづいて襟を正し、明治天皇がおられる東方を拝礼し、手を合わせます。

別府晋介は西郷の言葉に「はい」と返事してうなずくと、

「先生、ごめんやったもんせ・・・」と涙を流しながら力を振り絞り抜刀、西郷隆盛の首めがけて振り下ろされました。
そうして、7ヵ月間に及んだ激闘が終わり、長く続いた武士の時代も終わりを迎えていったのです。西南戦争における戦死者の数は、西郷軍6,800人、政府軍6,400人。戦力では差のあった両軍ですが、互角の戦いを繰り広げていたことが分かります。

西郷隆盛の最後の言葉

体に銃弾を打ち込まれ、自らの死を悟った西郷隆盛は、傍らにいた別府晋介に

『晋どん・・もう、ここでよか・・・』と告げ、介錯を依頼し自害をする道を選びます。

もともと戦争を望んでいなかった西郷隆盛、明治政府に不満を持つ士族達の怒りを抑えるため、負けると思っていた戦いに挑み、自らの命を捧げることで、最後の士族の内乱にしようとしていたのではないのでしょうか。

西郷隆盛は薩摩の武士を相手に勇敢に戦う政府軍の兵士を見て、「これで、もう日本は大丈夫だ」と満足気に語ったといわれています。

この西南戦争があったから、武士の時代が終わり、明治新政府によって日本が近代化を迎え、今の日本へと繋がっていったのでしょう。

まとめ:西郷隆盛の死因は斬首による自害。腫れ物が西郷隆盛を見分ける決め手となった

最後まで武士達のために、自分の忠義を貫いた西郷隆盛。その最後も、負けると分かっていた戦いに、自分の命を捧げるような形で幕を下ろしました。
今回の内容をまとめると、

  • 西郷隆盛の死因は斬首による自害
  • 西郷隆盛を見分ける決め手は体に出来た腫れ物
  • 士族の怒りを鎮めるため、自らの命を犠牲にして新政府と戦った

明治維新の幕引きともいえる西南戦争以降、日本では内乱は起こっていません。西郷隆盛は、自分が犠牲になることで、新しい日本を作り出そうとしていたのかもしれません。

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