武田四天王(武田四名臣)。武田家を最後まで支え続けた最強の武将達

武田四天王(武田四名臣)。武田家を最後まで支え続けた最強の武将達

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武田四天王とは、戦国大名の武田家を支えた重臣たちのことです。
武田信玄の父の武田信虎たけだのぶとらが、内乱が続いていた甲斐の国を統一した際に、当主を支えた家臣たちです。
そして、武田信玄たけだしんげんが戦国最強となりえるために必須の存在でもありました。
武田信玄の息子の武田勝頼たけだかつよりの代で武田氏が滅びゆく時も、最後まで武田家を支えた忠臣たちです。
今回は武田家の栄枯盛衰に人生を捧げた、武田四天王についてみていきます。

武田四天王は8名いた?武田家に支えた最強の武将達

武田四天王とは、武田信玄の親子三世代を支えた家臣の中で、武勇や軍略に優れていた家臣たちを指します。
武田信虎・武田信玄・武田勝頼と三世代もの長い期間ですから、ずっと同じメンバーであったわけではありません。
武田四天王は大きく二つに分けることができます。
一つ目の武田四天王は、武田信玄の父親の武田信虎に仕えていた家臣たちです。武田信虎から武田信玄への当主交代を支えました。
二つ目の武田四天王は、武田信玄の時代から息子の武田勝頼の時代を支えた家臣たちです。
つまり、武田四天王は八名いたのです。

【武田信虎時代の武田四天王】

  • 板垣信方いたがきのぶかた
  • 甘利虎泰あまりとらやす
  • 飯富虎昌おぶとらまさ
  • 小田山昌辰

【武田信玄・勝頼 時代の武田四天王】

  • 山県昌景やまがたまさかげ
  • 馬場信春ばばのぶはる
  • 内藤昌豊ないとうまさとよ
  • 高坂昌信こうさかまさのぶ

武田信虎時代に武田四天王と呼ばれていた武将達

武田信虎時代に武田四天王と呼ばれた武将たちは、以下の四指します。 

・板垣信方(1489~1548)
武田信玄家臣団の初代筆頭として武田氏を支える。

・甘利虎泰(1498~1548)
筆頭家老として、板垣信方と双璧を成す。

・飯富虎昌(1504~1561)
甲州騎馬軍団の赤備えを最初に作り武田氏の発展に貢献するが、謀反を企てた疑いで処罰される。

・小山田昌辰(生誕不明~1579)
備中の守として武田家を支える。

武田信玄の父である武田信虎は、内乱が続いていた甲斐の国を統一し、甲府の城下町を作った人物です。
戦国大名としての武田氏の基盤を築き上げました。
そんな活躍を支えた家臣たちの中で、特に武勇や軍略に優れていたのが、武田信虎時代の武田四天王です。

武田信虎は勇猛である半面、暴君としての面も持っていたようで、次第に人心を失い、遂には息子である武田信玄に甲斐の国から追放されてしまいます。
武田信玄は、1541年(天文10年)のクーデターによって武田家の当主になりました。
クーデターによって武田信玄は父親を甲斐の国から追放しましたが、追放した後も父親に物資を送るなどの援助を続けていたそうです。
父親が過ごしていた場所も武田信玄の弟の城でした。
父親を追い出したクーデターの後も、父子の関係性は悪くなかったと言われています。

このクーデターの時に武田信玄を支えたのも、武田信虎時代の武田四天王たちでした。
彼らは、それまで仕えていた武田信虎ではなく、武田信玄を支持したのです。彼らの力添えがなければ、武田信玄は当主に付くことが出来なかったかもしれません。

1560年前後から武田信虎時代の武田四天王たちから、武田信玄時代の武田四天王へと世代交代していきます。
武田信虎時代の武田四天王である板垣信方甘利虎泰は、1548年(天文17年)上田原の戦いで戦死、飯富虎昌は1568年(永禄8年)に、武田信玄の嫡男である武田義信に謀反を勧めたとの嫌疑で、切腹を命じられています。
唯一生きていた小田山昌辰も、時を同じくして隠居しています。

こうして、武田信虎時代の武田四天王は、新しい武田四天王へと入れ替わって行ったのです。

武田信玄時代に武田四天王と呼ばれていた武将達

武田信虎時代の武田四天王が表舞台から姿を消していく一方で、頭角を表してきた武将たちがいます。
その中でも特に活躍著しかった家臣たちが、武田信玄時代の武田四天王と称されています。

山県昌景高坂昌信馬場信春内藤昌豊の四名で、いずれも武勇に優れた武将たちでした。武田信玄が戦国最強と呼ばれた裏には、この四名の存在が欠かせません。

・山県昌景(1524~1575)
甲州騎馬軍団 赤備えを無敵部隊に育てました

・馬場信春(1515~1575)
生涯一度もかすり傷一つ負わなかった言われる、戦いの名手でした

・内藤昌豊(1522~1575)
武田家の真の副将とよばれ、武田軍を支えました

・高坂昌信(1527~1578)
美男子で信玄とは愛人関係だったといわれています。海津城の城代として、甲斐国の守りの要でした。

当時の武田家では、次々に優秀な家臣が育っている層の厚さを感じられます。
武田信玄の人を見る目の秀逸さと、人材育成の能力の高さがみてとれますね。

武田家には、四天王以外にも武田二十四将と呼ばれた最強武将がいた

武田二十四将図(Wikipediaより)

武田家には、武田四天王以外にも、武田二十四将とよばれる武将たちがいました。これは、実際に戦国時代に実在した職名ではありません。
後世に、武田家家臣の中で人気の高い知将や、勇将たちにつけられた呼称です。
武田信玄の知恵袋として有名な山本勘助らも、この武田二十四将図ではよく描かれている人物です。

  • 山本勘助やまもとかんすけ(1501~1561)
  • 横田高松よこたたかとし(1587~1550)
  • 多田三八郎たださんぱちろう(生誕不明~1563)
  • 真田幸綱さなだゆきつな(1513~1574)
  • 真田信綱さなだのぶつな(1537~1575)
  • 真田信繁さなだのぶしげ(1525~1561)
  • 穴山信君あなやまのぶただ(1541~1582)
  • 秋山虎繁あきやまとらしげ(1527~1575)
  • 一条信龍いちじょうのぶたつ(1539~1582)
  • 小畠虎盛おばたとらもり(1491~1561)

その他二十四将図によって異なります。

江戸時代には戦国時代の講談や軍記が広く親しまれていました。
武田信玄は徳川家康が唯一負けた相手として、「徳川家康を人間的に成長させた人物」として人気だったそうです。
武田信玄の活躍を綴った軍記や講談の中で活躍した家臣団を、浮世絵師が「武田二十四将図」として描きました。
武田二十四将図は何種類もあり、武田信玄を含んで二十四人のものや、武田信玄と二十四人の家臣を描いたものなど様々です。

描かれた武田二十四将図によって家臣の顔ぶれも異なっていました。
今で言うところのアイドルの人気選抜メンバー写真といったところでしょうか。その時々で若干の顔ぶれが異なるものの、武田四天王などの固定メンバーはいつも存在している点などが共通してます。

武田四天王は、なぜ最強と呼ばれたのか?

ここからは、武田信玄時代の武田四天王に更に注目していきます。
武田四天王は、当時最強と恐れられる存在でした。一人一人が高い能力を持っていただけでなく、武田信玄と厚い信頼関係が結ばれていました。

このメンバーは、通常ならば、重臣には抜擢され無いような家柄のものや、嫡男ではなく家を継げないもいました。
しかし、武田信玄は家柄ではなく実力主義で取り立てました。
そのため、能力が高いだけでなく、武田信玄に対しての恩義や忠誠も強かったといわれています。

【武田信玄時代の武田四天王】

  • 山県昌景 -赤備えはこの男から始まった-
  • 馬場信春 -かすり傷一つ負わなかった最強の男-
  • 内藤昌豊 -武田家の副将とよばれた男-
  • 高坂昌信 -武田信玄も惚れるほどのイケメン武将-

それぞれを詳しくみていきます。

山県昌景 -赤揃えはこの男から始まった-

武勇に優れた武田信玄時代の武田四天王ですが、中でも山県昌景は一際に優れており、「最強武将」との呼び声も高い人物です。
山県昌景は、武田信虎時代の四天王の一人である飯富虎昌の、20歳以上年の離れた弟とされています。
最初は、兄の繋がりで武田信玄に仕え始めます。
そのころの名前は飯富源四郎というものでした。飯富源四郎(山県昌景)は、武田信玄の元でめきめきと実力を付け頭角を現してきます。
そんな折兄の飯富虎昌と、武田信玄の嫡男の武田義信が謀反を企てていることを知ります。飯富源四郎(山県昌景)は、そのことをすぐさま武田信玄に伝え、謀反は未然に防がれました。

この功績により、格上の氏族である山県氏の名称を与えられて山県正景となりました。また、兄の飯富虎昌が作り上げていた甲州騎馬軍団 赤備えを引き継いだのもこの時とされています。

山県昌景の率いる甲州騎馬軍団の強さは圧倒的で、
「赤備えが来るぞ」と言われるだけで敵兵たちには衝撃がはしり、チリジリに逃げ出すものもいたそうです。

山県昌景の見た目は小柄で風貌もさえなかったようですが、騎馬隊の先頭を切って果敢に戦う姿はとても迫力があったそうです。

ある時、山県昌景に強い理由聞いたところ、
訓練も大事ですが、戦いに挑む心掛けが一番大事だと知っているからです。いつも初心の覚悟で慎重に策を練り、勝てる戦にしてから戦っているのです。
と答えたとの逸話があります。最強の名を得ても慢心しない心に脱帽です。

山県昌景は武田信玄が亡くなった後も、重鎮の筆頭として武田家に仕え続けます。しかし武田勝頼との折り合いは悪く、疎まれていたといわれています。
山県昌景は、1575年(天正3年)長篠の戦いで戦死します。享年47歳でした。

馬場信春 -かすり傷一つ負わなかった最強の男-

武田信玄時代の武田四天王の中で「不死身の鬼美濃」とよばれる人物、馬場信春です。なんと、70回以上もの戦闘に参加するも、生涯一度もかすり傷を負わなかったといわれているほどの戦上手な武将です。

また、強いだけでなく、城を築くノウハウも持っていた知将で、深志城や諏訪原城、小山城などの武田氏の支城を築いた人物とされています。

年齢は武田信玄よりも7歳年上で、武田信玄が武田信虎を追放し、当主交代を果たした時から武田信玄に仕えていました。

馬場信春の性格を伺い知ることができる逸話があるます。
武田信玄が勝利した敵城にあった宝物や財宝を持って帰ろうとしました。
しかし、馬場信春がそれを知ると、「武田信玄を貪欲な武将として後世の笑いものにしてはいけません。」と財宝を火の中に投げ込んだそうです。
誇り高き性格であることがわかりますね。
また、馬場信春の行動を知った武田信玄が、自分の指示に従わなかったことに腹を立てるのではなく、「馬場信春は、さすがであるなぁ」と感心したと言われており、武田信玄が馬場信春をいかに信頼していたかも伝わるエピソードです。

馬場信春も、武田信玄の遺言を守り、信玄が亡くなった後も武田勝頼を支える重鎮の一人となります。しかし、山県昌景と同様に、武田勝頼からは疎まれていたといわれています。

不死身といわれた馬場信春の最後も1575年(天正3年)長篠の戦いでした。享年61歳でした。

内藤昌豊 -武田家の副将と呼ばれた男-

最強武将といわれた山県昌景に「真の副将」と称された内藤昌豊。
武略に長けており、武田信玄の戦ったほぼ全ての戦に参加していました。
武田信玄とは内藤昌豊も非常に強い信頼関係で結ばれていたといわれています。そんな二人の信頼関係示すエピソードがあります。
数々の戦で手柄を上げている内藤昌豊ですが、武田信玄は感謝状をあげることは一度もなかったそうです。
当時、当主から感状を貰えることは家臣にとって非常に大きな喜びでした。
「こんなに活躍している内藤昌豊になぜ感状をあげないのか?」
と問われた武田信玄は
内藤昌豊ほどの人物ならば、活躍するのが当たり前だから必要ないのだ」
と答え、内藤昌豊も
合戦は大将の勝利を得るためのものだから、自分がどれだけ活躍したかにこだわるなんて小さいことです。
と気にしなかったそうです。
本当に信頼し合っている二人でなければできないことですよね。

内藤昌豊も武田信玄が亡くなった後は武田勝頼を支える重鎮の一人となりますが、他の四天王たちと同様に、武田勝頼からは疎まれていました。
内藤昌豊もまた、1575年(天正3年)長篠の戦いでした。享年54歳でした。

高坂昌信 -信玄も惚れるほどのイケメン武将-

武田四天王の中で、ずば抜けて美男子だったと言われているのが、高坂昌信です。武田氏の活躍や戦術を記録した書である、甲陽軍艦の著者とも言われています。
高坂昌信は、長年に渡り、海津城の城代も任されています。
海津城は、武田信玄との往年のライバルである上杉謙信との戦いの最前地帯にある城で、守りの要となる大事な拠点です。
そんな大事な城を任されている高坂正信は、実力もあり、武田信玄からの信頼も厚いことが分かります。

じつは、武田信玄と高坂昌信の関係は家臣以上のものだったとも言われています。当時の将軍たちは、男娼を持つことも珍しくなかったようで、高坂昌信は武田信玄の恋人だったというのです。
武田信玄から高坂昌信への浮気の弁明書も残されています。公私にわたって二人は厚い信頼関係を築いていたといえるでしょう。

高坂昌信もまた、武田信玄が亡くなった後は武田勝頼を支える重鎮の一人となりますが、他の四天王たちと同様に、武田勝頼からは疎まれていました。
武田勝頼h、高坂昌信に対しあれこれ口だしてくる人であると愚痴を言っていたともいわれています。
甲陽軍艦も、軍記としての役割だけでなく、武田勝頼へのアドバイスのために書かれたものではないか?との見る人もいます。

高坂昌信は、 長篠の戦いには参加はしませんでした。
当主が勝頼になってからも、海津城の城代を任されており、防衛上城を離れるわけには行かなかったからです。
そんな高坂昌信ですが、長篠の戦いから三年後に海津城内にて病気で亡くなりました。享年52歳でした。

武田信玄に支えた武田四天王のうち、3人は長篠の戦いで戦死しています。
長篠の戦いがいかに壮絶な戦いだったのかを感じますね。

武田四天王の最後の戦い「長篠の戦い」

長篠の戦い(Wikipediaより)

武田信玄時代の武田四天王のうち3名が、1575年(天正3年)長篠の戦いで命を落とします。重鎮を失った、武田家はどんどん力を失い、ついに滅亡してしまいます。つまり、「長篠の戦いが武田氏滅亡のターニングポイントだった」との見方をよくされています。

武田四天王は全員、武田信玄が亡くなった後も、信玄の遺言に従って武田勝頼を支える重鎮の一人となります。
しかし、武田勝頼からは疎まれていきます。
武田勝頼にとっては武田四天王からのアドバイスも、偉大な父と比べられていると感じてしまったのかもしれません。
長篠の戦いの時も、出陣した山県昌景や内藤昌豊、馬場信春の武田四天王たちは撤退を進言しましたが、武田勝頼は自分の側近の意見を採用し、決戦を決断してしまいます。
自分の意見と異なっても、当主の判断にしっかりと従う忠義の家臣たちですから、決戦となったら命がけで戦います。

山県昌景が率いる騎馬軍団は、果敢に真っ先に攻撃をしかけていきますが、敗北。最強の騎馬軍団も場が整っていなければ力を発揮できなかったのです。

武田四天王らが、はじめに進言した撤退は武田勝頼に却下され、戦い続けましたが、戦場が苦しくなり、ついに武田勝頼も撤退を決断します。

武田勝頼を無事に甲斐の国まで撤退させるため、馬場信春と内藤昌豊は武田軍の殿しんがりを務めます。
山間の地形をうまく使い、迫りくる織田連合軍の大群をたった数百の兵で阻み続けたのです。
しかしその道中で、内藤昌豊は打ち取られてしまいます。
内藤昌豊の尽力もあり、武田勝頼は無事に逃げ切ることができました。
戦場から武田勝頼の姿が見えなくなると、馬場信春は自分の首を差し出しその人生に幕を閉じます。
不死身の鬼美濃と呼ばれた馬場信春は、無傷でだったといわれています。

長篠の戦いに敗北し、逃げ帰った武田勝頼を出迎えたのが武田四天王の最後の一人の高坂昌信でした。
高坂昌信は海津城の防衛のため、長篠の戦いには出陣していなかったのです。
高坂昌信は、武田勝頼を手厚く迎え入れ、衣装や武具を取り換えて敗軍の将に見えないように体面を配慮したと言われています。

まとめ:武田四天王は、武田家の滅亡の瞬間まで支えた最強の武将達だった

今回の内容を簡単にまとめると、

  • 武田四天王は八名いた(信虎時代・信玄時代)
  • 武田信虎時代の武田四天王は、武田信玄の当主交代を支えた
  • 武田信玄時代の武田四天王は、武田信玄の発展の要となった
  • 武田信玄時代の武田四天王は、武田信玄が亡くなった後も武田家を支え続けたが、長篠の戦いでほとんどが戦死した

武田信玄は数々の名言を残しましたが、その中でも有名なものに
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」
というものがあります。
信頼できる人の集まりは、城や石垣などに匹敵する力になる。情けは人の心をつなぐが、仇は国を滅ぼすこととなるという意味です。
武田信玄にとって、強い信頼関係で結ばれた武田四天王たちは、城よりも石垣よりも堀よりも大きな大きな力となって、武田家の繁栄を支えてくれた存在だったのですね。

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