武田信玄の風林火山はどんな意味?実はその続きがあるって本当?
武田信玄といえば言わずと知れた甲斐(山梨県)の戦国武将です。
武田信玄と聞いて風林火山という言葉を思い浮かべる方は多いのではないでしょうか?
この言葉は武田信玄の軍旗に書かれた言葉として有名になりました。
今回は、武田信玄がなぜ風林火山という言葉を使ったのか、その意味、「風林火山」に続く言葉に注目していきます。
目次
武田信玄の風林火山とは
戦国時代、戦の時はそれぞれの武将が目印として旗(軍旗)を立てていました。
軍旗を立てることにより、敵に威圧感を与えたり、誰が活躍したのかわかりやすくする働きがありました。
戦国時代には戦目付という役割の監視役がおり、戦場で活躍した場合、軍旗は自分の功績をアピールする方法でもあったのです。
風林火山という言葉は、武田信玄の軍旗に書かれた言葉として知られています。
しかし実際は、風林火山の4文字ではなく、「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」と書かれていました。
その意味は
- 風…疾きこと風の如く(風のように早く敵を攻める)
- 林…徐かなること林の如く(敵に見つからないように林のように静かに落ち着いて待つ)
- 火…侵掠すること火の如く(火が燃え広がるように敵に攻め込み攻撃する)
- 山…動かざること山の如し(山のように落ち着いて守り抜く)
風林火山は、「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」を略したものですが、いつ頃から使われ始めたのか正確な情報はありません。
戦国史研究者によると、1953年に発表された歴史小説「風林火山」(井上靖 著)が最初ではないかと言われています。
風林火山という言葉は、比較的新しく登場したもののようです。
武田信玄が「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」14文字の軍旗だったのに対し、武田信玄のライバル上杉謙信の軍旗は「毘」と「龍」のそれぞれ一文字を軍旗にしていました。
その他、同じ時代に安芸(広島県)で勢力を伸ばしていた 三本の矢の逸話で知られる毛利元就は、毛利家の家紋である「一文字三星」を軍旗にしていました。
これらのシンプルな軍旗に比べると、武田信玄の軍旗はメッセージ性の高い旗と言えるかもしれません。
余談ですが、実はこの毛利元就、戦での戦いぶりから「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」を信玄よりも実行しているのではとも言われています。
風林火山=武田信玄のイメージなので意外ですよね。
武田信玄は風林火山を旗に掲げていたのはなぜ?
武田信玄が「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」を軍旗に使った理由は定かではありません。
他の武将が六韜の兵法を軍旗に記載していてそれに対抗した。などの説があります。
戦国時代に日本で知られていた兵法と言えば、六韜と三略(共に中国の兵法書)だったそうです。
その中で孫子の兵法を知っていた武田信玄は、他の武将より一歩リードしていたのかもしれません。武田信玄は、自分の知識を敵にアピールする目的もあったかも知れませんね。
武田信玄が掲げていた風林火山どこからとった?
現代では、武田信玄=風林火山というイメージで、武田信玄が唱えた言葉と思っている方も多いかもしれません。
風林火山とは「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」を略したものです。
実はこの言葉、武田信玄が作り出したものではなく、孫子の兵法という紀元前500年頃の中国の軍事書物に記載されていたものなのです。
武田信玄の風林火山は孫子の兵法から?
武田信玄の軍旗「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」の文言は、快川紹喜という僧侶に書かせたとされています。
武田信玄の合戦などが記されている『甲陽軍鑑』という書物には、この軍旗が1561年から使用されていると書かれています。
風林火山のもとになったこの文言は、孫子の兵法という紀元前500年頃の中国の軍事書物にかかれている言葉で、戦での戦い方を説いています。
風林火山の言葉のイメージは、かなり好戦的な戦い方を推奨していると思いきや、本当は外交によって戦を避けるべきだと述べています。
実は、「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」には続きがあるのです。
全文は
「故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山、難知如陰、動如雷霆」
(故に其の疾きこと風の如く、其の徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如く、知りがたきこと陰の如く、動くこと雷霆の如し)
風林火山に含まれていない「難知如陰、動如雷霆」の部分の意味は
- 隠…知りがたきこと陰の如く(密かに行動し、敵に姿を見せない)
- 雷…動くこと雷霆の如し(落雷のように徹底的に敵を攻撃する)
です。
なぜ武田信玄は風林火山陰雷とせず、「陰」と「雷」の部分を省略したのでしょうか。
これには諸説あり
- 「難知如陰、動如雷霆」が「侵掠如火、不動如山」と意味がほぼ同じであるため省略した。
- 意図的に「難知如陰、動如雷霆」を省略した。
- スペース的に「難知如陰、動如雷霆」まで入らなかった。
など様々な意見があります。
「難知如陰、動如雷霆」はいずれも、敵に知られてはいけないと説いている言葉です。
それをわざわざ旗に記載して敵に見せつけるのは矛盾しています。
甲斐の虎と呼ばれ、戦国最強の武将ともよばれる武田信玄ですから、作戦として意図的に「難知如陰、動如雷霆」を省略した可能性も十分あるでしょう。
武田信玄の風林火山は北畠顕家から?
武田信玄がこの「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」の軍旗を使ったのは、伊勢(三重県)に進出していた北畠氏が、六韜(中国の代表的な兵法書)を掲げていたのに対抗したという説も有力です。
一節には、北畠顕家が武田信玄よりも早く「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」という文句を軍旗に使用しており、武田信玄はそれを元に作ったのではないかという説もありますが、確定的な証拠はまだありません。
まとめ:武田信玄の風林火山は孫子の兵法が元祖。そして続きもあった
甲斐の虎と呼ばれ恐れられた武田信玄。
風林火山は武田信玄を表す言葉として広く知られていますが、実は武田信玄自身の言葉ではなく、更に省略されていることがわかりました。
今回の内容を簡単にまとめると、
- 風林火山には続きがあり、「風林火山陰雷」だった
- 風林火山は孫子の兵法から引用していた
- 「風林火山」を使い始めたのは北畠顕家の影響だった可能性もある
今となってはどのような意図で孫氏の文言を引用したのか、そしてなぜ一部を省略したのかわかりませんが、今後も風林火山の言葉は、武田信玄を表す言葉として親しまれていくでしょう。