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武田信玄の年表。甲斐の虎と呼ばれた男は一体どんな人物なのか?簡単に解説!

武田信玄の年表。甲斐の虎と呼ばれた男は一体どんな人物なのか?簡単に解説!

武田信玄は、甲斐の虎とも戦国最強ともいわれている戦国武将です。
織田信長が最も恐れた男としても有名です。
また、武勇に優れているだけでなく、内政でも手腕を発揮し、甲斐の国の発展に貢献しました。人を大事にし、家臣からの人望も厚かった。
今回は、そんな武田信玄が生まれてから、53歳でなくなるまでの生涯を年表で見ながら、武田信玄の功績や主な戦いなどをみていきます。

武田信玄の年表。甲斐の虎の生涯

武田信玄の生い立ちから、亡くなるまでを年表でみていきます。

【武田信玄の年表】

【武田信玄の年表】

1521年(大永0年)1歳
武田家第18代当主の武田信虎の次男として生まれる。幼名は勝千代

1523年(大永3年)3歳
兄の竹松が7歳で亡くなったことで、信玄は嫡男となる

1525年(大永5年)5歳
弟の武田信繁が生まれる 1533年(天文2年)13歳
結婚する。翌年の出産の時に妻子が共に死去

1536年(天文5年)16歳
元服し武田晴信となる。同年、再婚する

1541年(天文10年)21歳
父、武田信虎を家臣と共に甲斐から追放し、武田家の第19代の家督を相続

1550年(天文19年)30歳
砥石崩れ、村上義清に大敗

1553年(天文22年)32歳
第一次川中島の戦いで上杉謙信と戦う

1554年(天文23年)33歳
甲相駿三国同盟を結ぶ 1555年(天文22年)34歳
第二次川中島の戦い

1557年(弘治3年)36歳
第三次川中島の戦い

1561年(永禄4年)40歳
第四次川中島の戦い

1564年(永禄7年)43歳
第五次川中島の戦い

1573年(元亀3年)52歳
三方が原の戦いで、織田信長・徳川家康連合軍と戦い圧勝

1574年(元亀4年)53歳
死去

武田信玄の主な戦いまとめ

武田信玄はいくつもの戦いを勝ち抜き、周辺の勢力を圧倒していきました。戦歴は72戦で戦績は49勝3敗20分といわれています。そんな戦いのなかでも武田信玄の人生のターニングポイントとなった四つの戦いを詳しく見ていきます。

【武田信玄の主な戦い】

  • 武田信虎の追放
  • 砥石崩れ
  • 川中島の戦い
  • 三方ヶ原の戦い

武田信虎を追放、武田家の家督を継ぐ

武田信玄は、父親である武田信虎を甲斐から追放し、家督を継ぎました。
武田信玄はクーデターによって当主の座についたのです。 
武田信虎は豪胆な気質の持ち主で、内乱が続いていた甲斐の国を治めて城下町をつくりました。
しかし、豪胆な気質は、横暴さや苛烈さとして表にでることも度々あったそうです。また、信虎は独断で物事を判断する傾向も強い人物だったようで、そんな信虎に対して家臣達は疲弊していき、信虎は次第に人望を失っていきました。
一方で、武田信玄は、家臣の意見を聞き入れて結論を出すなど、家臣達の意見を尊重していました。
そんな武田信玄の方に、家臣たちの人心が集まるのは必須といえるでしょう。

そしてついに、1541年(天正10年)に武田信玄は信虎が国を離れている隙に、国境を封鎖し、甲斐から追放します。
下剋上が当たり前だったこの時代では、当主交代のクーデターが前党首を追放しただけなのは、比較的穏やかな方法といえるのではないでしょうか。
追放された信虎は、娘の嫁ぎ先である今川家に身を寄せます。
武田信玄は父を追放し家督を継ぎましたが、追放後も今川家に対して父の面倒を隠居費を送っていたといいます。
追放したとはいえ、父親に対して仕送りをするなど、人を大切にする人格者だったようですね。

武田信玄の敗北、砥石崩れ

砥石城跡(Wikipediaより)

武田信玄は、生涯70戦以上もの戦いを行いましたが、ほとんど負けませんでした。負け戦のうちの2回が、北信濃の戦国大名である村上義清むらかみよしきよとの戦いでした。
とくに、2度目の敗戦はコテンパンにやられてしまったようで、敗戦後は、武田信玄は影武者を身代わりにして、命からがら撤退をしています。
この戦いは、砥石崩れと呼ばれています。

武田信玄にとって、一度目の村上義清への敗北は、1548年(天文17年)のことでした。そのリベンジに機会が訪れたのが、1550年(天文19年)です。
当時の武田信玄は、砥石城を侵略することで、信濃侵略の足掛かりにしようと考えていました。

当時の砥石城の兵力がわずか500程度、それに対して武田信玄は7000と、圧倒的に武田信玄有利でした。
南信濃を落として勢いにのる武田軍にとって、この侵略は余裕であると勝利を確信していたのではないでしょうか。
しかしながら本格的な城の攻略を初めてわずか20日後には、武田信玄は撤退を決断、そして撤退中にも1000人以上が打ち取られる甚大な被害を受けています。

なぜ、武田信玄は砥石城を侵略できず、撤退時に甚大な被害をうけることになったのでしょうか。

武田信玄の敗因の一つに、砥石城の立地にあります。
砥石城は、切り立った山の上に立っており、通じる道は細い一本道だけです。
最初は比較的なだらかな山道でも、登るほどに傾斜がきつくなっていきます。
甲冑を着た状態で登るのは、さぞや大変だったことでしょう。

さらに、砥石城の村上軍の士気の高さが武田信玄の想像以上だったようです。
一本道を登ってくる武田軍に向かって、村上軍は石を落としたり、熱湯を浴びせたりして、粘り強く城を守り続けました。
武田信玄の軍が、砥石城の攻略に手間取っている間に、村上軍の援軍が集まってしまったというわけです。

この砥石崩れは、武田信玄の最大の失策といわれています。

武田信玄を撃退した難攻不落の砥石城ですが、1551年(天文20年)に真田幸綱によってあっさりと陥落されます。内通者がいたたのではないかといわれています。

砥石城の陥落によって村上氏は一気に追い詰められ、村上義清は信濃の国から落ち延びます。
落ち延びた先は越後の上杉謙信でした。
この村上義清が上杉謙信のところに身を寄せたことが、武田信玄と上杉謙信のライバル関係が確立されるきっかけになったのです。

「川中島の戦い」武田信玄の永遠のライバル上杉謙信

川中島の戦い(Wikipediaより)

武田信玄は越後の戦国大名である上杉謙信と度重なる激闘を繰り返します。
川中島の戦いです。川中島の戦いは、全部で5回も繰り返されました。

一度目の川中島の戦いは、1553年(天文22年)に起きました。
当時の武田信玄は、信濃の大部分を制圧していました。
武田信玄は、残りの信濃地方も手に入れるために進軍します。
上杉謙信はこのままでは自国も危ういと危機感を抱き、村上氏の救援要請を受けるかたちで、千曲川とさい川が合流する三角地「川中島」で武田軍と激突します。第一次川中島の戦いでは、上杉謙信が武田信玄を撤退させることに成功しています。

信玄は第一次合戦の後、今川家と北条家とで三国同盟を組みます。

その後、越後の近くの寺を味方につける等の準備を整え、武田信玄は1555年(天文22年)に再び侵略を試みます。これが第二次川中島の戦いです。
第二川中島の戦いでは、味方につけたお寺を警戒して、上杉謙信が身動きを取りづらくすることに成功しています。
この第二次川中島の戦いは、最終的に駿河の今川義元いまがわよしもとが仲介に入り、停戦協定を結ぶことになりました。

停戦協定中の1557年(弘治3年)に、信玄側が協定を破るかたちで信州への侵略を開始します。
第三次川中島の戦いです。
攻め入られると素早く撤退する「啄木鳥戦法きつつきせんぽう」を駆使して相手軍を翻弄し、領土を拡大してきます。
第三次川中島の戦いも、室町幕府の第13代将軍である足利義輝あしかがよしてるの仲介によって、武田信玄と上杉謙信が和睦して収束しました。

第三次川中島の戦いから4年後の1561年(永禄4年)に、武田信玄は川中島南部に築いた海津城に本陣を置き、上杉謙信の本拠地である越後を目指して進軍を開始します。
第四次川中島の戦いです。
武田信玄は上杉軍を挟み撃ちする作戦をたてますが、その作戦は上杉謙信に見抜かれ、信玄よりも先に上杉軍に侵略を開始されてしまうのです。
武田軍は別部隊が到着することで、甚大な被害をだしつつも、なんとか上杉軍を退けることに成功しました。

1564年(永禄7年)に上杉謙信は川中島に攻め入り、第五次川中島の戦いが勃発します。
しかし、この戦いで二人が直接対峙することはありませんでした。

武田軍と上杉軍の一進一退の攻防が続いた川中島の戦いは、結局はどちらが勝ったのでしょうか?

実は川中島の戦いでは、武田信玄も上杉謙信のどちらも勝利宣言をしているのです。

これは、戦いの目的の違いによるものでした。

武田信玄は、領土拡大を目指していますから、川中島一帯を手に入れることができたことで、勝利した判断しました。

一方で上杉謙信の戦う目的は、越後に攻め入ろうとしている武田軍を追い出すことです。
武田軍を越後の本拠地まで攻め入らせてませんので、上杉謙信にとっても勝利と判断できるということです。

5度も戦った川中島の戦い、実はどちらも負けていない、勝利宣言をしているとは意外です。こうしてみると、確かにどちらも目的は果たしていますし、勝利していると宣言できますね。

「三方ヶ原の戦い」織田信長・徳川家康に圧勝

1573年(元亀4年)に武田信玄は、室町幕府最後の将軍足利義昭あしかがよしあきからの求めに応じ、京に向かって進軍を開始します。
それまで友好な関係を続けていた織田信長と決別したのです。

織田信長を討つことを目的とした武田軍の上洛を阻止するべく、立ち上がったのが織田信長と同盟関係だった徳川家康とくがわいえやすでした。
武田軍は最初に三方ヶ原の北端にある二俣城を攻め落とします。
指揮を任されていた武田勝頼たけだかつよりが、籠城する城の井戸を破壊したことで、二俣城は開城したといわれています。

徳川家康は次の城である浜松城で武田軍を迎え撃つ準備をととのえますが、武田軍は浜松城を素通りするかたちで京へと進軍を勧めます。
徳川家康は追撃のチャンスを得たりと浜松城を飛び出して、武田軍に背後から襲い掛かります。
しかし、全ては武田信玄の計画通りでした。
背後をとれたと思った徳川家康が三方ヶ原台地に到着したとき、目の前には万全の布陣の武田軍が待ち構えていたのです。
武田信玄はあらかじめ三方ヶ原の地形を把握しており、徳川家康はまんまとおびき出されてしまったのです。

午後四時に始まった戦いは、わずか2時間ほどで終わりを迎えました。
武田軍の圧勝です。徳川軍は総崩れとなり、2000人以上もの死傷者を出しながら徳川家康は逃亡しました。
徳川家康が生涯負けた戦はこの三方ヶ原の戦いだけと言われており、
武田信玄は、徳川家康公の人間性を成長させた武神であった」として後世で高く評価されています。

武田信玄がしたこと、功績まとめ

武田信玄が行ったことは、戦いに勝ったことだけでありません。武田信玄は内政にも長けていました。武田信玄が行った功績をみてきましょう。

武田信玄が結んだ三国同盟

武田信玄が行った政治活動の一つに三国同盟があります。
これは、甲相駿三国同盟ともよばれ、駿河国を支配していた今川氏、甲斐国を支配していた武田氏、相模国を支配していた北条氏が、1554年(天文23年)に交わした和平協定です。

今川氏、武田氏、北上氏が、互いに相手の娘を嫡男の正室として迎えることで、この平和協定を確立させていきました。
この同盟は、別の敵がいる隣り合う拮抗した勢力をもつ国が協定を結ぶことで、各々が戦うべき相手に注力できる点で非常に有効だったといえるでしょう。
武田信玄が幾度となく上杉謙信と激闘を繰り返せていたのも、この三国同盟の存在が欠かせません。

「戦わずして勝つ」武田信玄が実践していた孫子の兵法

武田信玄の戦勝率は、引き分けもいれると95%になります。
武田信玄がここまで負けなかったのは、中国の孫子の兵法を徹底的に学んだからだと言われています。
武田信玄が孫氏の兵法を師事していたことは、信玄の旗印である風林火山も、孫子の兵法の一説から抜粋したことで有名ですよね。

孫子の兵法は、紀元前500年ごろの中国春秋時代の兵法書です。
孫子の兵法は、戦わずして勝つことを理想としていました。
また、戦いに勝利した後も、敵を完全に潰さないことの大切さも説いていました。武田信玄もその教えを実践し、養子縁組を行ったり、敵を取り入れ家臣にしたりと外交戦でも孫子の兵法を駆使しています。

さらに、武田信玄は戦い方にも上中下があり、五分程度の勝利が一番よい(上)であるとしています。七部の勝利が中で、完全勝利は下であるというのです。

完全に勝利してしまうことは、驕りを生じ、後の士気も向上しません。
五分の接戦くらいが、次につながる最もよい勝利であると言っています。
先を見通していた武田信玄ならではの深い見識ですよね。

武田信玄は、政治や行政にも優れた手腕を発揮していた

武田信玄の内政面での一番の業績としては、治水事業があります。
甲斐の国は、釜無川と御勅使川みだいがわという二つの川が氾濫をおこして人々を苦しめていました。
そこで武田信玄は防堤を築きました。武田信玄が築いた堤防で、洪水被害は抑えられ、肥沃の土地を手に入れることができたのです。
いまでも信玄が築いた防堤は信玄堤と呼ばれています。
また、信玄は甲斐の国の金山開発に成功しました。
採掘した金は、外交や調略に大いに役立てたと言われています。

武田信玄は、人材を大事にしていた

武田信玄は家臣を大事にし、働きやすい環境づくりを行っていました。
そのひとつが、「甲州法度之次第こうしゅうはっとのしだい」というルールブックです。
最後の文に、「国主も破れば処罰を受ける」と書いてある点が武田信玄らしいです。
家臣が守ることは、自分も守るべきだし、当主であっても間違っていれば罰を受け入れる姿勢をみせていたのです。
当時では斬新な考えだったのではないでしょうか。
また、信玄は、家柄や身分にとらわれず、有能の名人材を活用することに積極的だったといわれています。
武田信玄の名言に、
人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり
というものがあります。
これは、信頼できる人の集まりは、城や石垣、堀にも匹敵する。人は情けを掛けると味方になるが、権力で押さえつけたり不信感を与えると害意をもつようになる。」という意味です。
武田信玄はこの名言の内容を実践していたのです。

また武田信玄は、軍議の時は家臣の意見を充分に聞いたうえで、判断を下していました。
家臣の意見はしっかりと聞くけれど、判断と責任は自分で行うという武田信玄の姿は、まさに理想の上司といえるでしょう。
このように家臣を大切にした信玄は家臣たちの信頼も厚く、他の武将たちも羨ましがるような堅固な結束力を誇っていたそうです。

まとめ:武田信玄は、強いだけではなく、人を大事にし政治面でも優れた人物だった

武田信玄は、甲斐の虎ともいわれている最強の戦国武将ですが、武勇に優れているだけでなく、内政でも手腕を発揮し、甲斐の国の発展に貢献しました。また家臣を大事にすることで高い信頼関係を結んでいました。現代の社会でも理想の上司となりそうな人物ですよね。
今回の内容をまとめると

  • 武田信玄は生涯で2度しか負けたことがないほど、多くの戦いを勝ち抜いた強い武将だった
  • 上杉謙信との戦い、川中島の戦いはどちらも勝利宣言していた
  • 武田信玄は人を大事にしていた
  • 武田信玄は、政治面でも優れた手腕を発揮していた

織田信長が最も恐れた戦国武将だったといわれる武田信玄。とにかく戦さに強く、そして強いだけでなく人を大事にしていた、素晴らしい武将だったことがわかりますね。

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