加藤清正の子孫は、現代にも続いている?加藤清正の家系図を基に解説!

加藤清正の子孫は、現代にも続いている?加藤清正の家系図を基に解説!

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安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した加藤清正かとうきよまさ(1562-1611)。
肥後熊本藩の名君として名高く、現在でも清正公せいしょうこうさんと呼ばれ親しまれています。
そんな加藤清正の子孫は現代にも続いているのでしょうか?
今回は、加藤清正の子孫は、加藤清正の死後にどうなったのか?また、現代にも続いているのかを、家系図を基に見ていきましょう。

加藤清正の子孫を家系図で解説

加藤清正には正室、継室、側室を合わせて5人の妻がおり、それぞれ子どもをもうけています。また生母不明の男子が1人と、養子が1人います。

加藤清正の家系図

・長男:虎熊(生没年不詳)
母親は清正の正室・山崎氏。
幼くして亡くなりました。

・長女:本浄院(1598-1627)
母親は清正の側室・浄光院。
清正の朝鮮出兵に伴われた際に浄光院が懐妊し、帰国途中に生まれました。榊原康勝さかきばらやすかつ阿部政澄あべまさずみの正室。

・次男:加藤忠正かとうただまさ(1599-1607)
母親は清正の側室・本覚院
徳川家康によって江戸幕府が開かれると、徳川将軍家の人質として江戸に置かれました。天然痘により9歳で亡くなりました。

・三男:加藤忠広かとうただひろ(1601-1653)
母親は清正の側室・正応院
長男虎熊、次男忠正が早世したため、三男でありながら嫡子となりました。
1611(慶長16)年に加藤清正が死去し、11歳で加藤家の家督を継ぎました

・次女:瑤林院ようりんいん(1601-1666)
母親は清正の継室・清浄院
徳川頼宣とくがわよりのぶの正室。

・男子:貴田正勝きだまさかつ(生没年不詳)
生母は不明。
清正の家臣である貴田孫兵衛きだまごべえの長男とされていましたが、清正の庶子であったとの記録があります。

・養子:百助(1582-1607)
山崎片家やまざきかたいえの子であり、清正の正室・山崎氏の実弟
清正に実子が誕生した後、実家に戻されました。

加藤清正の死後、清正の子供たちと肥後熊本藩はどうなった?

1611(慶長16)年に、加藤清正が突然亡くなり、三男・忠広が11歳で家督を継ぎました。
しかし忠広が年若いことから、江戸幕府が介入し、5人が家老に任命され、肥後熊本藩は家老合議制による執政になりました。
翌1612(慶長17)年、幕府が、加藤家に対して9か条の掟書を出し藩政の組み替えを行った結果、筆頭家老が交代するなどし政治が混乱していきます。

1618(元和4)年、重臣が派閥争いを繰り広げる牛方馬方騒動が起きてしまいます。
このお家騒動は将軍徳川秀忠とくがわひでただが自ら裁決し、藩主の忠広の責任は不問としましたが、この御家騒動で忠広の統率力の無さが露見しました。

加藤清正の死後、なぜ加藤家は改易されたのか?

1632(寛永9)年、忠広は江戸に参勤する途中で入府を止められ、改易の沙汰を受けます。
江戸時代における改易とは、大名や旗本の所領、家禄、屋敷の没収および士分の剥奪を意味します。

改易の理由としては、
忠広の長男・光広が、諸大名の名前と花押(署名の代わりに使用される記号)を記した謀反の連判状の偽物を作って遊ぶという行き過ぎた行為があったとされています。
その他にも豊臣氏と関係が深い加藤家を幕府が疎ましく思ったという説や、忠広の統率力の低さが原因だったとする説もあります。

改易後、加藤清正の子孫はどこへ行った?

改易後に忠広は出羽国丸岡(現在の山形県鶴岡市)に、1代限りの1万石を与えられ、そこで余生を過ごしました。忠広は文学や和歌に親しみ、1653(承応2)年53歳でこの世を去ります。

遺言により、忠広は丸岡の本住寺に埋葬されました。
熊本の藩主だった加藤忠広のお墓が山形にあるのは、こうした経緯があったためです。
また、1949(昭和24)年に加藤清正の墓も山形県鶴岡市の天澤寺で発掘され、話題になりました。
忠広は清正の遺骨を分骨して丸岡に持ち込み、埋葬していたようです。
このため清正の墓は熊本県と山形県の2箇所にあります

忠広は正室・側室との間に子どもをもうけていました。
また、丸岡でも子どもが生まれています。

・長男:光広みつひろ(1614-1633)
母親は忠広の正室・崇法院。
改易後、飛騨高山藩(現在の岐阜県高山市)に預けられ蟄居ちっきょとなりました。
蟄居とは、武士や公家に科せられる刑罰のひとつで、自宅の一室に謹慎させるものです。
蟄居した翌年1633(寛永10)年に病死しましたが、改易の責任を感じて自刃したとも、毒殺されたとも言われています。

・次男:藤枝正良(?-1653)
母親は忠広の側室・法乗院。
藤枝姓を名乗りました。忠広の後を追い、自刃しました。

・長女:献珠院(生没年不詳)
母親は忠広の側室・法乗院。
阿部正重あべまさつぐに嫁ぎました。

・男子:光秋(生没年不詳)
丸岡で生まれた男子。

・女子:不明(生没年不詳)
丸岡で生まれた女子。
婿を取り、その子孫が大庄屋・加藤与治左衛門になります。

光広、正良らには子どもがいなかったため、加藤家の本家筋としてはここで血脈が途絶えます。
しかし丸岡で生まれた子どもは子孫を残しました。

加藤清正の子孫は現代に続いているのか?

丸岡の2子は、偽のお墓を作って逃亡するなど加藤家の血筋であることを隠し、幕府の目を逃れて暮らしたようです。
子孫は大庄屋の加藤与治左衛門家として存続し、明治天皇を自宅に迎える栄誉にもあずかりました

この家系を最後に継いだのは、日本人の既婚女性として初めて理学博士号を取得した、加藤セチさん(1893-1989)です。
セチさんは婿を迎えて家督を継ぎましたが、長男が太平洋戦争で戦死し、娘は嫁いだため、本家としての加藤与治左衛門家はここで途絶えます。
本家は途絶えたものの、分家としての血脈は山形県を中心として全国に家系を伝えていると言われています。

まとめ:加藤清正の子孫は現代にも続いている可能性はあるが、詳細は不明

今回は、豊臣秀吉と共に戦国の世を駆け巡り、最強の城と呼ばれる熊本城を築城した加藤清正の子孫について見てきました。
今回の内容をまとめると、

  • 加藤清正は、3男2女の子供をもうけた
  • 加藤清正の死後、加藤家は改易され山形へ移り住んだ
  • 加藤家は、加藤清正の孫の代で途絶えた
  • 最後に加藤家を継いだのは加藤セチさん、しかしその家系は途絶えたが、加藤清正の血は受け継がれている

加藤清正の直系の子孫は、直接ではなく間接的に続いていると思うと、お家を存続させることがいかに困難かが分かりますね。
加藤清正という名君を父にもった忠広やその息子の光広にも、人知れず苦悩があったのかもしれません。

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