徳川秀忠の年表|どんな人?功績は?主な戦いは?その生涯を簡単に解説!
徳川秀忠(1579(天正7)〜1632(寛永9))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した、江戸幕府の第2代将軍です。父親は、江戸幕府を開いた徳川家康です。
そんな江戸幕府 第2代将軍の徳川秀忠はどんな人なのでしょうか?
この記事では、徳川秀忠の年表を見ながら、その功績や主な戦などを簡単に解説していきます。
目次
徳川秀忠の生涯を簡単に解説!
徳川秀忠は、徳川家康の跡を継いで江戸幕府の2代将軍として活躍しました。
それでは、徳川秀忠はどのような人生を送っていたのでしょうか?
ここでは、徳川秀忠の年表を見ながら、その生涯を簡単に解説していきます。
徳川秀忠の生涯を年表で簡単に解説?
【徳川秀忠の年表】
- 1579年(天正7年):0歳
徳川家康の三男として遠江国(現在の静岡県西部)で誕生する
5ヶ月の頃に兄・信康が亡くなる - 1584年(天正12年):5歳
兄・秀康が豊臣秀吉の養子となる
→徳川家の実質的な跡継ぎとなる - 1590年(天正18年):11歳
豊臣家の人質として上洛する
豊臣秀吉の元で元服を果たす - 1595年(文禄4年):15歳
豊臣秀吉の養女・江と結婚する - 1600年(慶長5年):21歳
関ヶ原の戦いに参戦する - 1603年(慶長8年):24歳
右近衛大将に任命される
→徳川家の将軍世襲が確実なものになる - 1605年(慶長10年):26歳
徳川家康が将軍職を降りたことにより、2代将軍となる - 1614年(慶長19年):35歳
大阪冬の陣に参戦 - 1615年(慶長20年):36歳
大阪夏の陣に参戦する
徳川家康とともに、武家諸法度や禁中並公家諸法度を制定する - 1620年(元和6年):41歳
娘・和子が後水尾天皇に入内し、天皇家と婚姻関係を結ぶ - 1623年(元和9年):44歳
長男・徳川家光に将軍職を譲る
大御所として実権を握ったまま、江戸城西の丸(現在の皇居)にて隠居する - 1630年(寛永7年):51歳
孫・女一宮が天皇の位を譲り受けて、明正天皇となったことにより、天皇家の外戚となる - 1632年(寛永9年):満52歳
病死(享年54歳)
徳川秀忠は三男だけど家督を継いだ?
徳川秀忠には2人の兄がいました。つまり三男だったのです。
普通、家督を継ぐのは長男ですよね?
しかし、三男である徳川秀忠はなぜ家督を継ぐことになったのでしょうか?
長男の信康は、武勇にも優れている非常に優秀な人物でした。
しかし、徳川秀忠が生まれて間もない5ヶ月の頃に事件が起こりました。
それは、徳川家康の正室・築山殿と息子の信康が、織田家の敵である武田勝頼と内通しているとして、織田信長から殺すように命令が下ったのです。
徳川家康は織田信長への忠誠の証として、妻を殺してしまいます。
そして、息子の信康も切腹することになってしまうのです。
信康が亡くなったことにより、次は次男である秀康が跡を継ぐことになるはずでした。
しかし、それも難しい状況になってしまいます。
織田信長の死後、徳川家康は小牧・長久手の戦いの戦いにて豊臣秀吉と争い、両者共に痛手を負い、秀吉からの講和によって終焉を迎えました。
そして、形式的とはいえ、徳川家康は秀吉の家臣として忠誠を誓うことになってしまいました。この際、忠誠を誓う証という名の人質として、秀康を秀吉の養子に出すのです。
こうして、2人の兄がいなくなってしまった結果、三男である徳川秀忠が家康の跡を継ぐことになったのでした。
徳川秀忠の死因は病死?
徳川秀忠の死因は病死だと言われています。
それでは、なんの病気だったのでしょうか?
正確なところは判明していないのですが、晩年の症状から胃癌が有力ではないかと推測されています。しかし、胸が痛かったという記述もあることから、狭心症ではないかとする説も存在しています。
ちなみに、徳川秀忠の遺骨は発掘調査が行われており、身体に銃創がいくつもあったとの報告があります。
この銃創から、秀忠は大将だからといって後方で指揮するだけではなく、前線に出て戦っていたということが伺えます。
徳川秀忠はどんな人だった?
偉大な父である徳川家康の陰に隠れがちな徳川秀忠ですが、一体どんな人だったのでしょうか?
ここでは、徳川秀忠のプロフィールやその性格などについて簡単に解説していきます。
徳川秀忠のプロフィールは?
徳川秀忠(とくがわひでただ) 1579年(天正7年)〜1632年(寛永9年)/享年:54歳
出身地:遠江国浜松(現在の静岡県)
父:徳川家康/母:西郷局
正室:江
子:千姫、珠姫、勝姫、初姫、家光、忠長、和姫、保科正之
徳川秀忠は、1579年(天正7年)に遠江国浜松にて、徳川家康と西郷局との間に三男として誕生しました。
15歳のときに、秀吉の養女である江と結婚。
徳川秀忠は、江を正室として迎え、他に正式な側室を持ちませんでした。江との間には7人(男子2人、女子5人)の子を授かりました。
兄2人がいなくなってしまったため、徳川家康の跡を継ぎ、江戸幕府2代将軍となり、江戸幕府の地盤をしっかりと固めていきました。
徳川秀忠は側室を持たなかった?
徳川秀忠は、秀吉の養女・江を正室として迎えました。
そして、その生涯、正式に側室を持つことはなかったと言われています。
子供を多く作り、血を残すことが大事とされていた時代で、妻を一人しか持たなかったのは、かなり稀な例です。
のちに、妻の江は秀忠より先に亡くなるのですが、江が亡くなった後でも秀忠は継室を迎えることはありませんでした。
しかし、あくまで正式に作らなかったというだけで、実際には手を出して子供をもうけた女性が2人いました。
1人目は、名前も定かではない「家女」と記録された女性との子供・長丸です。
しかし、この長丸は1歳にもいかぬ間に亡くなってしまいます。
一説には、嫉妬に狂った江が水子にしたのではないかと言われています。
2人目は、大奥の下級女中である「お静」という女性との間に生まれた、幸松です。
秀忠は、長丸の件で江のことを警戒したのでしょう。
幸松を息子とは認めず、ひっそりと保科家で養育させることにします。その後、成長した幸松は、保科正之と名乗り、兄の家光から取り立てられ、会津藩にて松平家を起こしました。
さらに、正之は内政に尽力し、甥である4代将軍・徳川家綱を補佐し、大老を務めます。
このように、正之は父親譲りの内政力と生真面目さで、優秀な補佐として名を挙げていったのでした。
これらのことを踏まえて見ると、徳川秀忠が側室を作らなかったのは江の存在が大きかったと推測できます。側室を作る際には、正室の許可が必要だったので、言い出せなかったのではないでしょうか。
徳川秀忠の性格はどうだった?
徳川秀忠の性格は、
- 律儀
- 誠実
- 謙虚
- 真面目
- 情に厚い
と考えらえています。
徳川家康も秀忠のこのような性格を買って、後継ぎとして選んだと考えられています。
徳川秀忠の性格を表す逸話をご紹介していきます。
- 時間にとても正確で、何があっても、供の者であろうとも約束の時間も守っていた
- 親しい者の訃報を聞けば、気が塞ぎ、涙していた
- あるとき、料理の味が気になり、誰が作ったのか尋ねた。そこで名だたる料理人が作ったと聞いた秀忠は、自分が体調不良だったから味がわからなかったのだろうと言い、周囲が料理人を咎めないように配慮した
- 秀忠は臨終前、家康同様に神号を受けるかどうか尋ねられた。すると、自分は父のような大業は成していないので、その必要はないと断った
これらの逸話から、徳川秀忠は将軍になったからと言って奢らず、相手の立場を思いやり、誰にでも分け隔てなく接することができた人物であったと伺えますね。
徳川秀忠は二度も戦で失敗した?
徳川秀忠は戦が下手だという評価を下されることが多いです。
その理由としては、二度も戦で大きな失敗を犯してしまっていたからです。
1つ目の失敗は、天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」のときのこと。
この際、徳川秀忠は東海道を進んでいった徳川家康と分かれて、主力部隊3万8千人を率いて中山道を進んでいました。
徳川家康は二手に分かれることによって、西軍を追い詰めようとしていたのです。
しかし、秀忠は進軍中、真田昌幸・信繁父子がたてこもる上田城を攻め、この城の攻略に手間取ってしまいます。
さらにその後も天候不良などの不運が重なって、結局秀忠が関ヶ原に着いたのは全部が終わった後でした。
徳川秀忠は天下分け目の大事な戦「関ヶ原の戦い」で、大遅刻をしてしまったのです。
これにはさすがの徳川家康も大激怒し、合戦後重臣の榊原康政に取りなしてもらうまで、秀忠は家康に会ってもらえなかったそうです。
2つ目の失敗は、大阪冬の陣でのこと。
関ヶ原の戦いで、大遅刻をしてしまった秀忠は、今度は遅刻はできないと、行軍をだいぶ急かします。その結果、秀忠の軍は現地に着く頃にはへとへとになってしまっていました。
これを受けて、秀忠はまたしても家康に叱責されることになります。
このように、徳川秀忠は、二度も戦に失敗したことにより、家康は一度秀忠を跡継ぎにするのを躊躇ったと言われています。
徳川秀忠の功績は?
真面目で律儀な性格をしていた徳川秀忠は、内政力に長けていました。
その内政力を活かして様々な取り組みをするのですが、どのようなことをしていたのでしょうか?
ここでは、徳川秀忠秀忠の功績について簡単に解説していきます。
江戸幕府の地盤を固めた?
徳川秀忠の1番の功績は、家康が作った江戸幕府の地盤を固めたということでしょう。
具体的にどのようなことをやったのかというと、まず、家康とともに武家諸法度や禁中並公家諸法度を制定しました。
これらは、幕府の大きな決まりごととなる2つの法令です。
この法令自体は、徳川家康とともに作り上げたものですが、実際に運用し、実効性のあるものに高めたのは徳川秀忠でした。
家康が作り上げたかったものをきちんと理解しており、運用する能力があった秀忠だからこそできたことです。
これにより、家康の死後も、幕府を混乱させることなく主導できました。
また、秀忠は、徳川幕府を強化するために、「徳川御三家」を作りました。
これは、年の離れた弟たちを、尾張、紀伊、水戸にそれぞれ配置するというもの。
徳川御三家を作ったことにより、徳川幕府をより崩れにくいものにしたのです。
徳川秀忠のこの功績のおかげで、江戸幕府は約260年も続くことができたと言っても過言ではないでしょう。
武断政治を継続させた?
徳川秀忠は、基本的に人情に厚く、穏やかな性格であったと言われていますが、一方で冷静に物事を判断し、ときには冷徹だと言われるようなこともしていました。
それはどういうことかというと、武断政治を継続し、幕府の権威を高めたのです。
武断政治とは、諸大名を容赦なく改易・減封し幕府の力を強める政治のことを言います。
秀忠は、なんと外様大名を39家、親藩・譜代大名を21家改易に処しました。
これは、大坂の陣の戦後処理なども含まれているのですが、それでもだいぶ多くの大名を躊躇なく処分していることがわかります。
このように諸大名を躊躇なく処分することによって、反逆の芽を徹底的に潰し、幕府存続に貢献していたわけですね。
朝廷と結びつきを強めた?
徳川秀忠は、幕府の地位を確固たるものにするために、朝廷との結びつきの強化も図りました。その手段というのが、自分の娘を天皇に入内させることです。
当初は家康の遺言通り、五女の和子を後水尾天皇の宮中に入内させようとしますが、1618年に後水尾天皇がお気に入りの女官に子を産ませると、秀忠は和子の入内に待ったをかけ朝廷を揺さぶります。
その件については、その女官と子を宮中から追い出すことで解決としたのですが、このように秀忠は決して朝廷側に主導権を握らせなかったことが伺えます。
そして、改めて1620年に和子が女御として入内します。
その後、和子は後水尾天皇の皇后となり、女一宮を生みます。
この女一宮は、のちに明正天皇となります。つまり、これにより秀忠は天皇の外戚となったわけです。
このように、朝廷との結びつきを強めたことも秀忠の功績だと言えるでしょう。
まとめ:徳川秀忠はその内政力活かし、江戸幕府の地盤を固めた
徳川秀忠は、戦はあまり得意ではありませんでしたが、その内政力を活かして江戸幕府の地盤を固めることに成功しました。江戸幕府が長年続いていったのは、ひとえに秀忠の力のおかげと言っても過言ではないでしょう。
今回の内容をまとめると、
- 徳川秀忠は三男ながらも、家康の跡を継いで江戸幕府2代将軍となった
- 徳川秀忠は、真面目で律儀な性格で、内政力に優れていた
- 徳川秀忠は、戦はあまり得意ではなく、大きな失敗を二度もした
- 徳川秀忠は、江戸幕府の権威を高め、地盤をしっかりと固めた
もし、徳川秀忠が戦に失敗したからといって、家康が跡継ぎしていなかったら、江戸幕府はここまで長く続かなかったかもしれません。そういう意味だと、家康の選択は間違っていなかったと考えられますね。