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徳川秀忠のやったことを簡単に解説!功績は?江戸幕府の体制強化?

徳川秀忠(1579(天正7)〜1632(寛永9))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した、江戸幕府の第2代将軍です。父親は、江戸幕府を開いた徳川家康です。
徳川家康と徳川家光の間に挟まれ、あまり目立たない印象を持たれがちな徳川秀忠ですが、どのようなことをしたのでしょうか?
この記事では、徳川秀忠のやったことを簡単に解説していきます。

徳川秀忠のやったことは何?

徳川秀忠は、徳川家康の後継者として江戸幕府第2代将軍になりました。
徳川家康が生きている間は、2人で運営していましたが、家康の死後は秀忠が幕府を引っ張っていきました。
徳川秀忠は、具体的にどのようなことをしたのでしょうか?
ここでは、徳川秀忠のやったことを簡単に解説していきます。

【徳川秀忠のやったこと】

  • 様々な法令を制定した
  • 徳川将軍体制の強化と諸大名の統制をした
  • 紫衣事件を通して朝廷との関係を明確にした
  • 鎖国の道筋を作った

徳川秀忠のやったこと1:様々な法令を制定した

徳川秀忠は、各勢力を統制するために、様々な法令を制定しました。

【徳川秀忠が制定した法令】

  • 武家諸法度
  • 禁中並公家諸法度
  • 寺院法度

まず1つ目は、武家諸法度というものです。
これは、大名家を統制するための法律で、秀忠以降も将軍が変わるたびに発布されていくようになります。具体的な内容としては、武芸や学問など武士の嗜みを推奨する他、城を無断で修築することや、無届けで大名間で婚姻を結ぶことなどを禁止しました。

つまり、この法律によって、大名は何をするにも幕府の許可が必要となったわけです。
これにより、諸大名は権限を大幅に制限されることとなりました。

2つ目は、禁中並公家諸法度というものです。
これは、朝廷や公家を統制するための法律で、こちらは将軍が変わるたびに内容が変わるということもなく、朝廷政策の根本法として君臨し続けていくことになります。
この法律は、全17カ条からなり、「天皇は学問を修めることが第一」と定義されています。
つまり、天皇は政治をするよりも学問をしていなさいと定義づけたわけですね。
その他にも、三公・摂政・関白といった重職に関する項目や、武家と公家の官位は別であるということなどが決められました。

3つ目は、寺院法度というものです。
これは、その名の通り寺院を統制するためのものでした。

仏教各宗派に向けて出したため、高野山宛のものから身延山久遠寺宛のものまで全部で46通出しました。内容としては、僧侶の学問儀礼の奨励、本末制度の保障、僧侶の階級、寺格の厳正保持、僧官任免法などを明記しています。これにより、寺院勢力も幕府の支配下に置くことに成功しました。

以上の主に3つの法令により、秀忠は幕府の統制力を強化したのです。

徳川秀忠のやったこと2:徳川体制の強化と諸大名の統制をした

徳川秀忠の功績として挙げられるものとして、徳川体制の強化と諸大名の統制もあります。
徳川体制の強化は、「徳川御三家」の仕組みを作ったことです。

徳川御三家とは、尾張・紀伊・水戸に、それぞれ自分の弟たちである義直(尾張家)・頼宣(紀伊家)・頼房(水戸家)を配置したものです。

秀忠は、将軍の跡継ぎや将軍の補佐役がいない場合、血統保持のため、この徳川御三家から出すという仕組みを作ったのです。こうすることで、常に重要なポストには徳川の血を受け継いだ人物がつくことができるようになりました。

また、徳川秀忠は武断政治を継続し幕府の権威を高め、諸大名の統制をしました。

武断政治とは、諸大名を容赦なく改易・減封し幕府の力を強める政治のことを言います。

徳川秀忠は、なんと外様大名を39家、親藩・譜代大名を21家改易に処しました。

これは、大坂の陣の戦後処理なども含まれているのですが、それでもだいぶ多くの大名を躊躇なく処分していることがわかります。

このように諸大名を躊躇なく処分することによって、反逆の芽を徹底的に潰し、幕府存続に貢献していたわけですね。

徳川秀忠のやったこと3:紫衣事件を通して朝廷との関係を明確にした

徳川秀忠は、江戸幕府の存在をより強固なものにするために、朝廷対策もとっていきます。具体的に何をしたかと言うと、自分の娘・和子を後水尾天皇に入内させるのです。

こうすることで、天皇家と姻戚関係になったわけですね。

和子の子は、後に明正天皇となります。

そのため、秀忠は天皇の外戚となることに成功し、天皇をこちらの思惑通りに動かしやすくしました。

秀忠は、さらに朝廷に対して厳しい統制も行っています。

その代表的な例として「紫衣事件」が挙げられます。
当時、僧に対して紫衣(高貴な僧が着用する紫色の衣のこと)着用の許可を与えるのは朝廷の権利でした。この慣習に乗っ取り、後水尾天皇は大徳寺と妙心寺の僧に紫衣の着用を許可します。

しかし、秀忠はこの行為が禁中並公家諸法度に違反するとして、勅許を無効としました。

これにより、秀忠は「朝廷より幕府のほうが強い権限を持っている」ということを印象付けることに成功したのでした。

徳川秀忠のやったこと4:鎖国の道筋をつくった

徳川秀忠は内政面だけではなく、対外的な政策も行っていました。
徳川幕府の外交政策といえば、「鎖国」が有名ですよね。

実際に鎖国が完成したのは、徳川家光の時でしたが、秀忠の頃から実は鎖国政策への一端が伺えるのです。

1613年(慶長18年)にはバテレン追放令(キリスト教宣教師に国外退去を命じる法)を出し、1616年(元和2年)には明と朝鮮以外の外国船の寄港を長崎・平戸に限定していました。

以上のように、秀忠の外交政策は、貿易による利益を出すことよりも、キリスト教の排除に力を入れていました。これが、鎖国への道筋となったのは言うまでもありません。

徳川秀忠は、なぜ徳川家康の跡を継いだ

先程もお伝えしたように、徳川秀忠は徳川家康の跡を継いで江戸幕府2代将軍になりました。
しかし、秀忠は三男だったので、普通であれば家督を継ぐようなことはなかなかありえないことでした。

なぜ徳川秀忠は家督を継げたのでしょうか?ここでは、秀忠が家康の跡を継げた経緯を簡単に解説していきます。

徳川秀忠は三男ながらも跡継ぎになった?

徳川秀忠には2人の兄がいました。普通、家督を継ぐのは長男である場合が多いです。しかし、三男である秀忠はなぜ家督を継ぐことになったのでしょうか?

まず、徳川家康の長男・信康は、武勇に優れている非常に優秀な人物でしたが、秀忠が生まれて間もない5ヶ月の頃に事件が起こります。

家康の正室・築山殿と息子の信康が、織田家の敵である武田勝頼と内通しているとして、織田信長から殺すように命令が下ったのです。

家康は信長への忠誠の証として、やむを得ず妻を殺します。
そして、信康も切腹することになってしまうのです。

信康が亡くなったことで、次男である秀康が跡を継ぐことになるはずでした。

しかし、それも難しい状況になってしまいます。

信長の死後、家康は小牧・長久手の戦いの戦いにて豊臣秀吉と争いました。そして、両者共に痛手を負い、秀吉からの講和によって終焉を迎えます。その後、形式的とはいえ、家康は秀吉の家臣として忠誠を誓うことになってしまいました。この際、忠誠を誓う証という名の人質として、秀康を秀吉の養子に出すのです。

こうして、2人の兄がいなくなってしまった結果、三男である秀忠が家康の跡を継ぐことになったのでした。

徳川秀忠は戦での失敗が原因で跡継ぎになれない可能性があった?

徳川秀忠は兄2人がいなくなったことにより、若い頃から家康の後継者として育てられてきました。しかし、実は家康は、秀忠を後継者にすることを躊躇ったことがあります。それはなぜでしょうか?

その理由として挙げられるのは、天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」のときのことです。

この際、秀忠は東海道を進んでいった家康と分かれて、主力部隊3万8千人を率いて中山道を進んでいました。家康は二手に分かれることによって、西軍を追い詰めようとしていたのです。しかし、秀忠は進軍中、真田昌幸・信繁父子がたてこもる上田城を攻め、この城の攻略に手間取ってしまいます。さらにその後も天候不良などの不運が重なって、結局秀忠が関ヶ原に着いたのは全部が終わった後でした。

秀忠は天下分け目の大事な戦「関ヶ原の戦い」で、大遅刻をしてしまったのです。

これにはさすがの家康も大激怒し、合戦後重臣の榊原康政に取りなしてもらうまで、秀忠は家康に会ってもらえなかったそうです。

このときに、家康は秀忠を後継者にするか躊躇ったと言われています。しかし、後継者を変えるとなると、後継者争いなどが勃発し、徳川家自体が不安定になると考え、後継者を変えることは結局しませんでした。

戦があまり得意ではないと言われている秀忠ですが、実は将軍になってからも戦で失敗しています。

それは、大阪冬の陣でのことです。

関ヶ原の戦いで、大遅刻をしてしまった秀忠は、今度は遅刻はできないと、行軍をだいぶ急かします。その結果、秀忠の軍は現地に着く頃にはへとへとになってしまっていました。

これを受けて、秀忠はまたしても家康に叱責されることになります。内政力においては秀でていた秀忠でしたが、いかに戦が不得意であったのかが伺えますね。

徳川秀忠は遺言で質素な葬儀をさせた?

徳川将軍の葬儀は、その権威を示すかのように、盛大に執り行なわれるものがほとんどでした。特に、秀忠の父・徳川家康と息子の徳川家光の際は、一際盛大に執り行われました。

しかし、徳川秀忠の葬儀は異例とも言うくらい、質素なものでした。
それは決して秀忠の権威が低かったというわけではなく、秀忠の遺言によって決められたことだったのです。秀忠は自身の埋葬について、

「葬儀・法会とも倹約を旨とし、霊牌の他新しく作るべからず」

以上のように命令していました。

この遺言通り、徳川秀忠の葬儀はしめやかに行われ、遺体を増上寺に運ぶ際には、わずか近臣が10人付き添ったのみでした。
この際、僧侶は誰一人として同席しなかったと言われています。

また、秀忠は臨終前、家康同様に神号を受けるかどうか尋ねられましたが、
「自分は父のような大業は成していないので、その必要はない」

と断ったそうです。

これらのことから、秀忠は謙虚だったということがよくわかるのですが、同時にこの謙虚さのせいで、秀忠の功績が後世で過小評価される結果に繋がってしまいました。

まとめ:徳川秀忠は徳川家康の意志を継ぎ、江戸幕府の体制を強化した

徳川秀忠は、三男ながらも徳川家康の跡を継ぎ、江戸幕府2代将軍になりました。そして、家康の死後、その内政力を活かして、江戸幕府の体制を強化していきました。

今回の内容をまとめると、

  • 徳川秀忠は江戸幕府の体制強化に努めた
  • 徳川秀忠は、様々な法令を制定して、各勢力を抑えた
  • 徳川秀忠は、徳川御三家を作るなど、徳川家自体の強化もした
  • 徳川秀忠は、紫衣事件を通して、幕府と朝廷の関係を明確にした
  • 徳川秀忠は、鎖国への道筋を作った

徳川家康と徳川家光の繋ぎというイメージが強く、あまり目立たない徳川秀忠ですが、実際江戸幕府の地盤を固めたのはこの秀忠でした。秀忠がもし将軍になっていなかったら、江戸幕府は約260年間も続いていなかったかもしれませんね。

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