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徳川家康はなぜ江戸幕府を開いた?江戸を選んだ理由は?どんなことをした?

徳川家康(1543(天文11)〜1616(元和2))は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将です。織田信長、豊臣秀吉と並んで戦国三英傑と呼ばれており、天下を統一して江戸幕府を開きました。

また、2023年の大河ドラマ『どうする家康』では、松本潤さんが徳川家康役を演じるということで注目が集まっています。

それでは、徳川家康は江戸幕府を開いてどのようなことをしたのでしょうか?

なぜ江戸に幕府を開いたのでしょうか?

ここでは、徳川家康が江戸幕府においてしたことを簡単に解説していきます。

徳川家康が開いた江戸幕府とは?

徳川家康は1603年(慶長8年)に江戸幕府を開きました。

江戸幕府はどのような経緯でできたのでしょうか?
ここでは、江戸幕府ができた経緯や、なぜこの地に開いたのかなどを簡単に解説していきます。

徳川家康が幕府を開いた経緯とは?

徳川家康の前に天下をとっていたのは豊臣秀吉でした。

豊臣秀吉の死後、家康は天下を取ろうと動き始めます。

しかし、それを面白く思わない人物がいました。それは、石田三成です。

石田三成は、豊臣家が治める天下を維持しようとしていたのですが、そのためには、家康の動きを止める必要がありました。

そうして、2人がぶつかった戦いが、関ヶ原の戦いです。

関ヶ原の戦いは全国の大名を巻き込んで、家康率いる東軍と三成率いる西軍に分かれて戦うことになりました。

結果としては、西軍の武将が大量に裏切り、東軍の勝利に終わります。

こうして、敵がいなくなった徳川家康は、再び天下統一のための準備をしていきます。

関ヶ原の戦いの戦後処理として、敵だった大名は減封や改易などにより徹底的に排除していき、味方だった大名には石高増などして厚遇しました。

そして、大きな権力を持った家康は、1603年(慶長8年)に征夷大将軍の宣下を受けて、江戸幕府を開いたのでした。

徳川家康はなぜ江戸に幕府を開いた?

徳川家康が入る前の江戸という土地は、とても人が住めるような土地ではありませんでした。
なぜそのような土地に家康は江戸幕府を開くことにしたのでしょうか?

それには、主に3つの理由がありました。

【徳川家康が江戸に幕府を開いた理由】

  • 江戸は大都市が栄える地形条件を揃えていた
    大都市の歴史的な立地条件とは、広大な平地があり、大きな川や海に面しているということが重要だとされています。
    江戸の地は、東京湾があり、関東平野もあり、さらには日本最大級の規模を持つ利根川水系を持っていましたので、この条件にぴったりだったというわけですね。
  • 江戸は物流が発展する環境が整いやすかった
    都市が発展するための重要な要素として、物流が挙げられます。
    当時の物流を担っていたのは、主に馬や船でした。
    特に船舶技術の発展は、当時の物流を大きく変えたと言われています。
    江戸は水路には困らない地形条件を備えていましたので、家康は江戸に水運の利を見出したのでしょう。
    水路を軸にした街づくりを展開し、物流によって大きく江戸を発展させたのです。
  • 江戸は不毛地帯だったが発展の余地があった
    家康が江戸に初めて入ったのは、1590年(天正18年)のことでした。この当時の江戸は、不毛の湿地帯に過ぎず、海流が入り込んで地盤は弱く、とても人が住めるような土地ではありませんでした。しかし、家康は海をコツコツと埋め立てていき、住みやすい土地へと変えていったのです。
    江戸は、当時人々から諦められていた土地でしたが、家康はその先にある発展性を読み切っていたのかもしれません。
    事実として、江戸(東京)は現在までずっと成長を続けており、世界有数の大都市となりました。

このように、人が簡単に諦めてしまうような土地でも、しっかりと地理条件や発展性などを考えて、家康はこの地を江戸幕府を開く土地として選んだのでした。

江戸幕府には歴代15人の将軍がいた?

江戸幕府は家康から始まり、代々徳川家によって将軍が引き継がれていきました。その数は実に15人です。15人の将軍によって、江戸幕府は経営されていったのでした。

  1. 徳川家康:1603年(慶長8年)〜1605年(慶長10年)
  2. 徳川秀忠:1605年(慶長10年)〜1623年(元和9年)
  3. 徳川家光:1623年(元和9年)〜1651年(慶安4年)
  4. 徳川家綱:1651年(慶安4年)〜1680年(延宝8年)
  5. 徳川綱吉:1680年(延宝8年)〜1709年(宝永6年)
  6. 徳川家宣:1709年(宝永6年)〜1712年(正徳2年)
  7. 徳川家継:1713年(正徳3年)〜1716年(享保元年)
  8. 徳川吉宗:1716年(享保元年)〜1745年(延享2年)
  9. 徳川家重:1745年(延享2年)〜1760年(宝暦10年)
  10. 徳川家治:1760年(宝暦10年)〜1786年(天明6年)
  11. 徳川家斉:1787年(天明7年)〜1837年(天保8年)
  12. 徳川家慶:1837年(天保8年)〜1853年(嘉永6年)
  13. 徳川家定:1853年(嘉永6年)〜1858年(安政5年)
  14. 徳川家茂:1858年(安政5年)〜1866年(慶応2年)
  15. 徳川慶喜:1866年(慶応2年)〜1867年(慶応3年)

徳川将軍らは江戸城にて政務を行った?

徳川将軍は、代々その政務を江戸城にて行っていました。

1590年に徳川家康が江戸城に入城すると、そこを居城とします。

そして、江戸幕府を開くと、そこで大規模な拡張工事を行い、総構周囲約4里という日本最大面積の城郭にしました。

そして、そこは約260年もの間、幕府の政庁、将軍およびその家臣団が政務を行う場所となります。

また、将軍は江戸城内に住み、将軍の家族女性らが住む大奥も設けられました。

現在この江戸城のあった場所は、皇居となっており、国の特別史跡に指定されています。

徳川家康は江戸幕府を開いてから何をした?

江戸幕府は徳川幕府とも言われるくらい、徳川家が将軍家として何年もずっと君臨し続けていた幕府でした。このようになったのは、実は徳川家康が築いた様々な政策があったからなのです。
ここでは、徳川家康が江戸幕府を開いてから行ったことを簡単に解説していきます。

徳川家康は様々な勢力を統制した?

徳川家康は、まず各勢力を統制するために、2代将軍・徳川秀忠とともに、様々な法令を制定しました。

まず1つ目は、武家諸法度です。
これは、大名家を統制するための法律で、秀忠以降将軍が変わるたびに発布されていくようになります。具体的な内容としては、武芸や学問など武士の嗜みを推奨する他、城を無断で修築することや、無届けで大名間で婚姻を結ぶことなどを禁止しました。

つまり、この法律によって、大名は何をするにも幕府の許可が必要となったわけです。これにより、諸大名は権限を大幅に制限されることとなりました。

2つ目は、禁中並公家諸法度です。

これは、朝廷や公家を統制するための法律で、こちらは将軍が変わるたびに内容が変わるということもなく、朝廷政策の根本法として君臨し続けていくことになります。
この法律は、全17カ条からなり、「天皇は学問を修めることが第一」と定義されています。
つまり、天皇は政治をするよりも学問をしていなさいと定義づけたわけですね。

その他にも、三公・摂政・関白といった重職に関する項目や、武家と公家の官位は別であるということなどが決められました。

3つ目は、寺院法度です。

これは、その名の通り寺院を統制するためのものでした。
仏教各宗派に向けて出したため、高野山宛のものから身延山久遠寺宛のものまで全部で46通出しました。

内容としては、僧侶の学問儀礼の奨励、本末制度の保障、僧侶の階級、寺格の厳正保持、僧官任免法などを明記しています。これにより、寺院勢力も幕府の支配下に置くことに成功しました。

このように、徳川家康は徳川家以外の勢力を徹底的に排除し、統制していったのです。

徳川家康は流通経済を発展させた?

徳川家康は、江戸幕府を開いてから、流通経済の発展にも尽力しました。

まず、流通のために、街道や海上交通の整備を行いました。
街道は、五街道(東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道)を作り、海上交通は、江戸と大坂の間に菱垣廻船や樽廻船が定期的に行き来するようにしました。
また、ここ以外の陸路・海路も各地で整備しており、流通は格段に発展したと言われています。

また、佐渡金山や石見銀山などといった鉱山の開発も進めました。

そして、江戸、駿府、佐渡、京都に金座を、伏見、江戸、駿府、京都に銀座を設置し、金貨や銀貨を大量に発行します。

それまで日本は、中国の銅銭を通貨としていたのですが、家康は独自の貨幣の鋳造をし、それを流通させました。

これは画期的な金融政策の転換だったと言えるでしょう。

このように、家康は流通を発展させることによって、江戸幕府の経済力を安定させていったのです。

徳川家康は積極的に外交も進めた?

徳川家康は積極的に外交も進めていきました。

1600年に、オランダ船リーフデ号が豊後の臼杵湾に漂着すると、航海士のヤン・ヨーステンと水先案内でイギリス人のウィリアム・アダムズと会見します。そして、彼らを江戸に招いて外交顧問とし、盛んにオランダとイギリスを誘致しました。家康がこの二国を選んだ理由としては、キリスト教の布教と交易を一体と捉えていなかったことが挙げられます。こうして、オランダは1609年、イギリスは1613年に平戸に商館を開いて、貿易が始まりました。

また、京都の商人・田中勝介をスペイン領のメキシコに送り、ルソンを拠点とするスペインとの貿易の再開を求めました。これは、この当時、豊臣秀吉が宣教師たちを大量に処刑してしまっていたせいで、スペインとの交易が途絶えてしまっていたのをなんとかしようと動いたのです。

さらに、家康はもう一国交易が途絶えていたところをどうにかしようと動いています。

それは、朝鮮です。

朝鮮とは、豊臣秀吉の朝鮮出兵のせいで国交が途絶えてしまっていたのです。

そのため、対馬の宗氏に朝鮮との国交を回復するように命じました。宗氏の努力により、1607年にそれが実現し、朝鮮は将軍の代替わりごとに祝福の使節(通信使)を派遣するようになりました。

江戸幕府といえば、鎖国のイメージが強く、このように家康が積極的に外交していたのに驚く方もいるかもしれません。しかし、この積極外交も、家康の晩年には大きく方針転換していくのです。

家康は、スペインやポルトガルの侵略やキリスト教徒の団結などを恐れて、1612年に幕領でのキリスト教信仰を禁じるようになりました。さらにその翌年には、その規模を全国へと拡大し、同時に教会を破壊し、宣教師は追放、信者には徹底的に棄教するように迫りました。

様々な国と交易をしようとしていた徳川家康でしたが、やはり宗教の力は怖いと考えたのと、スペインやポルトガルと交易せずとも、オランダやイギリスがその代わりを果たしてくれるという目処がたったから、このような政策転換をしたのでしょう。

そして、この政策は秀忠の時代に強化され、家光の時代に鎖国制度として完成しました。

徳川家康は寛永文化を大成させた?

徳川家康は文化面にも理解を示し、注力しました。

蒔絵の工芸品である「舟橋蒔絵硯箱」を制作した本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)は、京都の上層町衆で、書道や焼き物にも才能を見せる文化人として知られていました。そこで、家康は、光悦に京都洛北の鷹ヶ峰を与えたのです。そして、光悦はその地に芸術村を作りました。光悦は、俵屋宗達や尾形光琳、尾形乾山などとも関係が深く、やがてこの地から寛永期の文化が花開くこととなるのです。

寛永文化と呼ばれるこの時期の文化は、桃山文化の頃の自由で躍動的な創造的文化が鎮静化し、秩序と落ち着きを持った伝統的文化となっていくのが特徴として挙げられます。

【寛永文化の代表的なもの】

  • 建築
    日光東照宮、桂離宮、修学院離宮
  • 学問
    藤原惺窩(朱子学)、林羅山(儒学)
  • 絵画
    狩野派、装飾画
  • 工芸
    蒔絵、楽焼、有田焼
  • 芸能
    茶道、書道
  • 文学
    仮名草子、俳諧

江戸幕府はなぜ終わりを迎えた?

江戸幕府は約260年間もの間続いていきます。ずっと平和な時代が続いていたのですが、それも終わりを迎えてしまいます。なぜ江戸幕府は終わりを迎えてしまったのでしょうか?
ここでは、江戸幕府が終わりを迎えた原因について簡単に解説していきます。

欧米の外圧と尊皇攘夷論の誕生が主な原因?

江戸時代中期以降、日本古来の思想を研究する「国学」が広がりを見せます。そして、それは次第に、天皇を敬い、外国を撃退しようとする思想・「尊皇攘夷論」へと派生していきます。この思想が生まれた背景には、幕府の弱体化はもちろん、諸外国からの開国を求める圧迫も大きく影響していると言われています。

1853年(嘉永6年)に、アメリカの使節・ペリーが4隻の戦艦で、突如浦和に来航。

ペリーは鎖国をしていた江戸幕府に対して、武力で開国を迫ってきたのです。アメリカの近代的な軍事力を前に、江戸幕府は為す術もありません。

そのまま、勅許もないまま「日米修好通商条約」に調印し、実質的に鎖国体制に終止符を打ったのです。

しかし、この勅許もなく調印してしまったことは、当時の天皇・孝明天皇の逆鱗に触れてしまいます。孝明天皇はただでさえ異国嫌いだったので、怒り心頭でした。

こうして江戸幕府は、外国から圧をかけられるだけでなく、朝廷をも敵に回してしまったわけです。

さらに、薩摩藩や長州藩といった外様大名が中心となった倒幕の動きまで活性化してきます。海外、国内、朝廷と様々なところを敵に回してしまった江戸幕府は、もう存続できるだけの体力は残っていませんでした。

大政奉還をもって江戸幕府は終わりを迎えた?

先程お伝えしたような要因から倒幕の危機を察した将軍・徳川慶喜は、政権を朝廷に返還することによって倒幕の圧力を脱し、そこからまた徳川家が中心の政治体制を立て直すことを目論みました。
こうして、1867年(慶応3年)に京都の二条城にて、慶喜は大政奉還を行うのです。

しかし、そこから慶喜の思い通りには進みませんでした。

徳川家が政権に関わることを認めない薩摩藩や長州藩の働きによって、「王政復古の大号令」を朝廷が発するのです。

これにより、大政奉還後も政治の実権を握っていた徳川家は、実質的に権力を剥奪されることとなってしまいました。

こうして、約260年間続いた江戸幕府は終わりを迎えたのです。

まとめ:徳川家康は江戸幕府を開いて様々な方面に影響を与えた

徳川家康は、豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いを経て江戸幕府を開きました。江戸幕府を開いてからは、徹底的な権力統制や、流通経済の発展を促すなどをして、その後約260年間続く江戸幕府の基礎を作りました。

今回の内容をまとめると、

  • 徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利し、征夷大将軍の宣下を受け、江戸幕府を開いた
  • 江戸は不毛の未開の地だったが、徳川家康が整備し発展していった
  • 徳川家康は、権力統制や、流通の発展、積極的な外交など様々な政策を行った
  • 徳川家康が基礎を作り上げた江戸幕府は約260年間も続いた

今現在でも、日本橋付近の水路や五街道など、徳川家康が作り上げたものの名残は数多く残っています。それほどまでに、家康がしたことは画期的で将来を見据えたものだったということなのでしょう。徳川家康が江戸に幕府を開いたからこそ、江戸は発展したわけで、もし家康がいなかったら、現在の日本の首都の位置は別の所になっていたかもしれませんね。

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