徳川家康の性格は?人柄は?どんなタイプだった?エピソードとともに解説!

徳川家康の性格は?人柄は?どんなタイプだった?エピソードとともに解説!

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徳川家康(1543~1616)は、江戸幕府を開き、戦乱の世を天下泰平に導いた人物です。戦国三英傑とも呼ばれる家康は、どのような性格をしていたのでしょうか?この記事では、徳川家康の性格はどうだったのか?人柄などがよく現れているエピソードをご紹介していきます。

徳川家康はどんな性格だった?

徳川家康は、「狸親父」というあだ名で呼ばれることもあります。
これは「優しい顔をして裏では腹黒いことをするような人間」だと思われていたということを表されているようです。実際、徳川家康はそのような性格だったのでしょうか?

徳川家康・織田信長・豊臣秀吉のことを表した俳句

戦国三英傑である、徳川家康・織田信長・豊臣秀吉には、それぞれの性格を表しているような俳句が存在します。それぞれホトトギスを使って、

織田信長・・・「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」

豊臣秀吉・・・「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」

徳川家康・・・「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」

この鳴かないホトトギスは、天下取りを邪魔するものの喩えになっています。
そのホトトギスに対して、
織田信長は裏切り行為は絶対に許さないという姿勢でたとえ誰であろうと殺害する様子が
豊臣秀吉は農民の出でありながら天下人となった、その知恵と容量の良さが詠われています。
そして、徳川家康は天下を取るために、ひたすら好機を待ち続けた様子が詠われているのです。

この句を見ると、徳川家康はとても忍耐強い性格だったのではないかと伺えますね。
実際に、徳川家康は幼少の頃は人質として過ごし、今川や織田と同盟を組み、豊臣秀吉に仕えながら天下取りのチャンスを伺っていたと考えると、忍耐強くチャンスを待つタイプだったようです。

徳川家康の性格を現すエピソードをご紹介

今度は、徳川家康の性格を現すエピソードをご紹介していきます。実は、徳川家康は忍耐強いだけではないのです。徳川家康は

  • 負けず嫌いで血気盛んだった
  • 臆病だが、冷静に対処できる性格だった
  • 辛抱強い性格だった
  • 倹約家だった
  • 健康オタクだった
  • 家臣達を大事にして、そして慕われていた

という一面がありました。それぞれ詳しくみていきましょう。

徳川家康は負けず嫌いで血気盛んだった

我慢強く、何事も冷静に対処しているイメージの強い徳川家康ですが、実は若い頃は負けず嫌いで血気盛んだったのです。それをよく現しているエピソードは2つあります。

1つ目は、幼少期の人質として今川家に居たときのことです。
正月に今川の家臣たちが集まる機会がありました。その場に家康も居たのですが、家臣たちから家康は「あれが三河のいくじなしの倅か」とバカにされます。
それを聞いた徳川家康は怒って、縁側に立ち小便を初めたのです。
本来ならば人質ですから、侮辱されても泣き寝入りするのが普通です。しかし、そんな肩身の狭い立場にもかかわらず、家康は周囲をあざ笑うかのように小便をしました。
このことから、家康が幼少期からプライドが高く、負けず嫌いだったことが伺えます。

2つ目は、若い頃の戦での出来事です。
青年期の徳川家康はとても血気盛んな上に、短気で癇癪持ちであったとされています。その証拠に少しでも戦の形勢が悪くなったり、自分の読みが外れたりすると、軍配団扇や自分の爪を噛んでいたそうです。
さらに、戦況が完全に不利になると、すぐに激昂して馬の鞍を拳で殴りつける癖もありました。そのため、家康の愛用していた軍配団扇は歯型だらけで、拳は腫れてコブだらけだったようです。
後年はその癖が原因で指が曲げ伸ばししにくくなるほどでした。このことから、かなり頻繁に激昂していたことが伺えます。

以上2つのエピソードから、若い頃の家康は負けず嫌いで血気盛んだったと言えるでしょう。

徳川家康は臆病だが、冷静に対処できる性格だった

徳川家康が臆病だけれど、冷静に対処できる性格だったことを現すエピソードもあります。
それは、徳川家康が武田信玄と戦い惨敗した三方ヶ原の戦いのときのことです。
この三方原の戦いで、家康は家臣の反対も聞かずに、武田信玄の誘いに乗って浜松城から三方ヶ原へと追撃に出てしまいます。ここにも家康の血気盛んだった一面が現れていますね。

追撃した結果、徳川家康は大敗を喫し、命からがら浜松城へと逃げ帰ることになります。実はこのとき、家康はビビりすぎて、逃げ帰る馬上で脱糞してしまうのです。恐怖のあまり、脱糞したことに自分で気づくことすらなかったようです。
家臣がそのことについて指摘したところ、徳川家康は冷静に「これは味噌だ」と言い放ったとされています。このことから、家康は臆病な一面もあるが、それに対して冷静に対処することができる性格であったということが伺えますね。
なお、家康はこのときの自分の情けない姿を肖像画にして残させました。そして、自身の慢心を戒めるために、生涯肌身離さず持ち歩いていたようです。

徳川家康は辛抱強い性格だった?

徳川家康を表す句、「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」にもあるように、もちろん家康が辛抱強い性格であったことを現すエピソードもあります。

徳川家康が織田信長の家臣として従っていたとき、危険な戦の先陣を切らされたり、自分の妻と息子の殺害を命じられたりと、普通だったら耐えることのできないような命令をされていました。
しかし、家康はそれに逆らうことなくそれに従い、天下統一への道標を優先させます。

さらに、豊臣家の力が弱体してきて、そこから天下を奪おうというときも、すぐに動くことはせず、豊臣秀吉が死んで好機を得るまで約10年もの間待ち続けたという忍耐強さも見せています。

戦国三英傑の中で、天下を取るまでに1番時間がかかった徳川家康ですが、そこに至るまでには数々の苦労があったのです。しかし、その苦労をひたすら耐えて、好機を逃さなかったからこそ、徳川家康は天下を取ることができたと言っても過言ではないでしょう。

徳川家康は倹約家だった

豊臣秀吉のように、天下人となったらつい贅沢の限りを尽くしたくなってしまいますよね。
しかし、徳川家康はとても倹約家で決して贅沢はせず、質素な生活を常に心がけていました。それがよく現れているエピソードをいくつかご紹介します。

ある日、徳川家康がお手洗いから出てきて、手を拭くために懐から紙を取り出そうとしたら、その紙が風で庭まで飛ばされてしまいました。そして、家康はそれをわざわざ全て拾いに行ったのです。
その様子を見ていた家臣が思わず笑ってしまいますが、それに対して家康は「これでわしは天下を取ったのだ!」と一喝。
たかが紙切れだとか、新しいものを使えばいいだとか、そのようなことは考えずに自分の持っているものを大事に扱っていたのです。どんなものにでも執着を持っていたということが伺えるエピソードですね。

他にも、女中たちがあまりにもご飯をおかわりするので、漬物を塩辛くしておかわりを減らしたり、汚れが目立たないから長く使えるという理由で浅黄色の下着を使ってみたり、いつも同じ着物を着ていてボロボロだったので女中に新しいものをと言われたが、まだ着れると言ってはねのけたりと、家康の質素倹約エピソードはたくさんあるようです。

徳川家康は健康オタクだった

徳川家康は当時としてはとても長寿である75歳まで生きました。それには家康が健康オタクであったことが関係している可能性が高いです。

徳川家康は、麦飯を主食として、煮物や焼き魚を好んで食べていました。天下を取っても食べすぎ、飲みすぎと言ったような贅沢をせずに、戦場に居た時のご飯を続けたのです。また、薬を自分で調合して飲んでいたという話もあります。薬草に詳しく、その知識は専門家も一目置くくらいのものだったようです。

徳川家康が健康オタクになった理由としては、少しでも長生きをして天下取りの機会を得るためだと言われています。群雄割拠の戦国時代だったからこそ、他の武将よりも少しでも長く生きなくては天下は取れないと考えていたのでしょう。その生への執着が家康を天下に導いた要因の1つなのかもしれませんね。

徳川家康は家臣たちを大事にして、そして慕われていた

戦国三英傑の中で1番家臣のことを大事にしていたのは徳川家康だとされています。家康はとても義理堅く、約束事は必ず守る性格でした。

戦は決して1人でできるものではなく、主君にとって必要とされていたのは、家臣を動かすマネジメント力でした。この時代、数多くの権力者が家臣の裏切りによって敗北してきたことをみても、やはり家臣との信頼関係を築くことは必須だったと言えるでしょう。

あるとき、徳川家康は豊臣秀吉に「私にとって1番の宝は、私のために命をかけてくれる武士500騎だ」と言いました。このことからわかるように、家康は自分の家臣のことを全面的に信頼していたのです。
そのため、徳川家康の家臣たちは「主君家康のために命を忍ばぬ武士」と評されていたくらい家康を慕っていたのでしょう。

徳川家康の趣味はなんだった?

徳川家康は多趣味であったことも知られています。剣術・水泳・射撃・碁など色々とありますが、その中でも特に夢中になっていたのが鷹狩です。鷹狩とは、鍛錬された鷹を用いて鳥類・哺乳類などを捕獲する狩りの一種です。

徳川家康は幼い頃から鷹などの鳥が好きだったとされており、当時凶鳥とされていた百舌鳥を飼いならそうとしていたこともあったそうです。そのこともあり、家康が生涯行った鷹狩の回数は1000回を超えていたと言われています。

また、鷹狩は運動の為に行われていたのですが、それだけではなく他にもいくつかの理由がありました。
まずは、郊外に出て民の生活の様子を観察すること。
暑さ寒さに関わらず走り回ることによって病気にかからないようにすること。
また、広い狩場に部下を従えて出かけることによって、戦の予行演習ともしていたようです。

このようにいいことづくめの鷹狩ですが、徳川家康は天下統一後、公家などが勝手に鷹狩を行うこと、鷹を勝手に売買することを禁じました。鷹狩を限られた人物のみしかできなくすることで、これを自身の権威の象徴としたのでした。

まとめ:徳川家康の性格は忍耐強いだけではなく、いろんな面を持ち合わせていた

徳川家康の性格をエピソードを交えながら紹介してきました。ホトトギスの句のおかげで辛抱強い性格だと思われがちな家康ですが、負けず嫌いで血気盛んだったなど意外な一面を知ることができたのではないでしょうか?
今回の内容をまとめると、

  • 徳川家康の性格を現した句は「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」
  • 徳川家康の性格は、若い頃と歳を重ねてからでは異なる
  • 徳川家康は、質素倹約を常に意識し、健康オタクであったことから長寿できた可能性が高い
  • 徳川家康は家臣を宝だと言うくらい大事にしていたため、家臣からとても慕われていた
  • 徳川家康は、趣味も天下泰平のために活かしていた

常に質素倹約を心がけ、家臣を大切にする気持ちを忘れなかったからこそ、家康は天下を取ることができたのかもしれません。少しでも長生きをして天下取りのチャンスを伺っていたことを考えると、やはりホトトギスの句は家康にぴったりの句だと言えますね。

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