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徳川家康の政策まとめ!織田信長や豊臣秀吉の政策とは何が違ったのか?

徳川家康の政策まとめ!織田信長や豊臣秀吉の政策とは何が違ったのか?

戦国時代を代表する、天下統一を目指した三名の戦国武将といえば、「織田信長」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」ですよね。三英傑とも称される三武将のなかで、天下統一を成し遂げ、約260年も続く安定した時代をつくることができたのは、徳川家康です。徳川家康の政策は、織田信長や豊臣秀吉と何が違かったのでしょうか。

今回は、徳川家康の政策に注目していきます。徳川家康はどんな政策を行なったのか、特徴や経済政策・外交政策・徳川幕府が長く続く基盤となった政策をそれぞれ解説していきます。

徳川家康の政策一覧

徳川家康は様々な政策を行いました。徳川家康の行った政策の中から、経済・金融政策、外交政策、徳川幕府の基盤となった政策と分類し、代表的なものを紹介します。

【経済・金融政策】

  • 五街道の整備
  • 貨幣制度の推進

【外交政策】

  • 朱印船貿易
  • 浦賀、平戸、長崎の開港

【徳川幕府存続の基盤となった政策】

  • 諸大名の配置換え
  • 一国一城令
  • 武家諸法度
  • 禁中並公家諸法度
  • 寺院法度

徳川家康の政策は、織田信長や豊臣秀吉の政策と何が違う?

徳川家康の政策は、織田信長や豊臣秀吉と何が違かったのでしょうか?

徳川家康の政策は、彼の用意周到な性格に裏打ちされたものでした。
革新的な織田信長の政策や、分かりやすく明快な豊臣秀吉の政策にはない大きな特徴といえます。
徳川家康の政策の特徴について、もう少し詳しく解説していきます。

徳川家康の政策の特徴

徳川家康の政策の特徴を簡潔にまとめると、

  • 組織を細分化しそれぞれに責任者を置いた
  • その責任者同士を競わせる分断支配をおこなった

と言えます。
例えば、徳川家康は全国の大名を親藩、譜代、外様に分類しました。
徳川家に世継ぎが生まれず断絶しそうな時は、親藩の中かから後継者を出すことができるようにしました。
徳川家への忠誠心の厚い譜代大名には要所を任せ、老中などの要職につかせました。
一方で、外様大名の方が譜代大名よりも高い石高を与えていることも絶妙なバランスといえるのではないでしょうか。

徳川家康の経済・金融政策

徳川家康は、徳川幕府を開くと、江戸を新たな日本の中心地とするべく、交通網の整理や貨幣政策などの経済の基盤となる政策を次々に展開していきました。

【経済・金融政策】

  • 五街道の整備
  • 貨幣制度の推進

・五街道の整備
徳川家康は、江戸の日本橋を起点に、江戸から地方に向かう五つの主要道路を整備させました。
五街道とよばれる、東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道は今も主要道路として活躍していますよね。

・貨幣制度の推進
徳川家康は、本格的な貨幣経済を推進しました。
実は日本は、豊臣秀吉の時代までは貨幣は統一されておらず、各地で様々な金貨銀貨銅貨が流通していました。徳川家康は「慶長大判・慶長小判・慶長一分金」という金貨と、「慶長丁銀・慶長豆板金」という銀貨を制定しました。全国に共通の価値を持つ貨幣を流通させたのです。

なお、当時は銅貨の発行はされておらず、銅貨は中国から輸入した「永楽通宝」などが使用されていました。
後に、第三代征夷大将軍である徳川家光が銅貨「寛永通宝」の鋳造を行い、江戸幕府の金貨・銀貨・銅貨(銭貨)からなる貨幣制度が確立されたのでした。

徳川家康の外交政策

鎖国のイメージが強い江戸幕府。当初、徳川家康は外交を積極的に行い、異国との外交と貿易を進める政策を推進していました。しかし、ヨーロッパ諸国からのキリスト教が伝来し普及したことで、ヨーロッパ諸国が侵略してくる脅威を感じ、次第に消極的な貿易へと切り替えて行ったのです。そのため、江戸時代=鎖国(管理貿易)のイメージが強いのです。

【徳川家康の積極的な外交政策】

  • 明との国交回復
  • 朱印船貿易
  • 管理貿易

【徳川家康の消極的な外交政策】

  • 国内にキリスト教の禁止を命じた
  • 貿易の相手国を限定的にしていった

徳川家康の外交政策について、順番に詳しくみてきましょう。

【徳川家康の積極的な外交政策】
・明との国交回復
関ケ原の戦いで勝利し、豊臣政権を受け継いだ徳川家康は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の後処理と明との国交回復を外交の基本政策としました。

・朱印船貿易
徳川家康は東アジアから東南アジアへと渡航する商船に朱印状を発給し、朱印船貿易を開始しました。
朱印船貿易を行った背景には、他国の王らに貿易を行うことが認められた徳川家康こそが、日本のトップであることを国内に知らしめる意味合いもあったといわれています。

・管理貿易
当時、ヨーロッパ諸国は東アジア海上での覇権争いや衝突を繰り返しており、徳川家康もヨーロッパ諸国が東アジアで引き起こしている緊張と脅威を目の当たりしていました。
そんな世界情勢の中、徳川家康は来航するヨーロッパ船のため、長崎と浦賀と平戸の三つの港を開港しました。入港する港を三つに限定したのは、徳川幕府の管理下におくことで、諸大名が力をつけることを防ぐことが目的であったようです。
三つの港を開港理由は、港ごとに入国先を分散させて、争いに巻き込まれるのを防ぐ狙いがあったようです。
長崎はポルトガル、浦賀にはスペイン、平戸にはオランダとイギリスの商館をそれぞれ置くように命じました。

徳川家康は日本を中継点の要として、中国・東南アジア・ヨーロッパをつなげる貿易ルートを確立し、世界における日本の存在感を強めようとしていたのではないかと考える説も存在しています。

【徳川家康の消極的な外交政策】

なぜ徳川家康が、外交政策を消極的なものへと変換していった大きな要因は二つあったといわれています。

・日明講和が不調に終わった
外交政策の基本としていた明との講和交渉が不調に終わり、徳川家康は正式な日明貿易を成立させることができませんでした。なお、明との正式な貿易は叶いませんでしたが、中国は日本にとって主要な貿易相手国でした。

・キリスト教の普及により、ヨーロッパ諸国からの侵略を恐れた

貿易政策と宗教政策を別々に取り扱うことを希望していた日本に対し、スペインなどのヨーロッパ諸国の多くは貿易と宗教を一体化した政策をしていたことで不和が生じます。貿易はしたいけれど、キリスト教の布教はしてほしくない日本に対し、スペインなどのヨーロッパ諸国の多くが貿易と布教はセットであるとしていたということです。

徳川家康は、国内にキリスト教が広まることを強く懸念していました。キリスト教の宣教師の目的は、キリスト教徒になった国民がキリスト教以外のものに嫌悪の念を抱くようになり、徳川幕府ではなく宣教師たちの指示に従うようにさせることであると感じたためです。ヨーロッパ諸国は宣教師を通じて自分達の傘下となった日本国民を自由に使い、自分達の思うままに日本国を牛耳る可能性があるということです。

徳川家康は「キリスト教を堅く禁止する」と命じ、国内布教によって国内に混乱が引き起こされることを警戒しました。

外交の転換を余儀なくされている最中の1612年(元和2年)に徳川家康は亡くなります。外交政策を引き継いだ徳川秀忠はキリスト教禁止令を発布し、百姓に至るまで国内からキリスト教の排除を徹底しました。
キリスト教排除に伴い、浦賀港は封港され、ヨーロッパ船の来航は平戸と長崎に限定されることになりました。日本に出入りする異国の商船や人の活動は、江戸幕府の管理下で行うことを強化したのです。
その後、海外とのやり取りを江戸幕府の管理下とする政策は徹底されていきます。幕府はヨーロッパ諸国の中でキリスト教の布教にこだわらなかったオランダだけ来航を認め、来航する港も長崎の出島に限定しました。

歴史にもしはありませんが、徳川家康が当初に思い描いていた外交政策が上手くいき、日本がアジアと中国とヨーロッパをつなぐ要所の一つとなっていたら、どのような日本になっていたのでしょうか。約260年も続く幕府は築けていなかったかもしれません。徳川幕府には、世界情勢を見極め、臨機応変に政策を変更した徳川家康と、堅実に引き継いだ徳川秀忠の存在が、やはり欠かせないと改めて感じますね。

徳川家康が行った、江戸幕府の基礎となった政策

徳川家康は、江戸幕府の基盤となるような様々な政策を行いましたが、その中でも、

  • 諸大名の配置換え
  • 一国一城令
  • 武家諸法度
  • 禁中並公家諸法度
  • 寺院法度

上記の5つの政策は、は江戸幕府が長く続くために欠かせないものだったと言われています。
それぞれ詳しくみていきましょう。

・諸大名の配置換え

江戸幕府の将軍はしばしば、諸大名から元の領地を取り上げ、新たな領地に移動するように命じました。国替え、転封てんぽう移封いほうとも言われます。
配置換えを命じられた大名には拒否権はありません。断ることはお家断絶と同義であったからです。

徳川家康などの江戸幕府の初期の頃は、外様大名を地方へ移動させ、地方の親藩や譜代大名の領地を軍事上の要地や江戸の周辺に配置させるために配置換えが頻繁に行われていました。これによって、外様大名を牽制しつつ、江戸の守りを盤石にすることに成功したのです。
なお、江戸幕府の中期以降は、諸大名の配置換えを行う意味合いは、政治的な面が強くなっていきます。
現代のサラリーマンの人事異動というイメージでしょうか。
花形の領地に栄転できる大名もいれば、閑職にあたる領地に追いやられてしまう大名もいたようです。
いずれにせよ、配置換えを命じられた大名や家臣は、長距離の移動や費用などの相当な負担を追うことになり、大名たちは、いつ幕府から配置換えの命令がでるかと戦々恐々としていたようです。このように、江戸幕府が絶対的な人事権を行使することで江戸幕府の求心力を高められる効果もありました。

一国一城令いっこくいちじょうれい

1615年(慶長20年6月)に江戸幕府が制定した法令で、「ひとつの国につき、ひとつだけ城を持つこと」を命じたものです。それまでは、自由に自分の領地の中に築城できていたため、複数の城を持っていた大名も少なくありません。そんな大名たちは複数の持ち城のうち、ひとつを除きすべてを廃城としなければいけなくなってしまったというわけです。
一国一城令の目的は、戦いの拠点となる城を少なくすることで大名達の戦力を削ることでした。
一国一城令により廃城となった城の多くは、外様大名の多い西日本の物でした。徳川家康は、大名の中でも外様大名の力を削ることを目的としていたというわけです。一国一城令により、徳川家による全国統治を盤石なものにすることができたといわれています。

武家諸法度ぶけしょはっと

1615年(元和元年7月)に徳川秀忠が発布した法令で、全13カ条からなっているものです。
徳川秀忠が命じたとされていますが、実質的な発布者は父親の徳川家康であったといわれています。
武家諸法度はその後も何度も改訂がされているため、最初の武家諸法度を、年号から元和令と区別してよぶこともあります。
武家諸法度には、倹約の奨励といった規範や大名同士の婚姻を許可制とすることなどが書かれていました。
その中には城に関する項目もあり、
「今後新たに築城をすることを禁止する。城の修復をする際にも幕府に届け出ること」
との内容が記されていました。
つまりこの武家諸法度により、大名たちは自分の城を増築することも改築することも自由に出来なくなりました。大名らは一国一城令によって持ち城を一つだけされ、武家諸法度でたった一つとなった城を強固なものに改築することも禁じられてしまったというわけです。

禁中並公家諸法度きんちゅうならびにくげしょはっと

1615年(元和元年7月)、徳川家康は、禁中並公家諸法度を発布しました。
皇族や公家は学問と文化の継承に専念し、政治に関わるべきではない存在とすることで、朝廷を幕府の統制下におき,政治的な行動に著しい制約を加えました。皇族や公家を江戸幕府が統制することで、征夷大将軍を中心とした政治を揺るぎないものにすることが目的だったとされています。

・寺院法度じいんはっと

1601~1616年(慶長6年~元和2年)に、徳川家康は浄土真宗・日蓮宗・時宗を除く大寺院や各宗本山に頻繁に寺院法度を発令しました。
寺院法度の目的は、本寺権限の強化や、中世以来保持していた寺院の特権の剥奪などを目的としていました。

徳川家康は、「諸大名の配置換え」と「一国一城令」「武家諸法度」によって、外様大名の戦力を削ぎ、「禁中並公家諸法度」によって朝廷を政治から遠ざけ、「寺院法度」によって寺院の力を削ぐことに成功したというわけですね。幕府存続の脅威となる存在を次々と弱体化することで、江戸幕府の全国統一を盤石なものにしたというわけですね。

まとめ:徳川家康が行った政策は、江戸幕府・徳川家の基盤を作った

徳川家康が行った政策は、約260年15代にわたって続く、江戸幕府の基盤を作ったと言えるでしょう。まさに国家100年の計に立つ政治を行った人物だったのですね。
今回の内容をまとめると、

  • 徳川家康は様々な政策を行った
  • 徳川家康の政策は、用心深く用意周到であり、この部分が織田信長や豊臣秀吉の政策と異なる点と言える
  • 徳川家康は、積極的な外交政策を推進していたが、外交相手を限定するものへと変換していった
  • 徳川家康の政策は、江戸幕府の基盤を作った

徳川家康は、幼少期は人質として過ごし長い年月をかけて、天下を統一しました。
織田信長や豊臣秀吉に仕えながら、自分が天下を統一した時にどんな政策をするのが良いのか?を考えていたのかもしれませんね。

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