徳川家康の死因は鯛の天ぷらの食べ過ぎ?胃がん?それともすでに戦死してた?
徳川家康:1543(天文11)~1616(元和2)といえば、天下人となり300年近くも続いた江戸幕府を開いた戦国大名です。大河ドラマやゲームなど様々なメディアで取り上げられているので、知っている人もお多いでしょう。そんな徳川家康はどのような死に方をしたのでしょうか?死因は複数考えられています。この記事では、徳川家康の死因は何だったのか?について詳しくご紹介していきます。
目次
徳川家康の死因は何?天ぷら?胃がん?それとも戦死?
徳川家康の死因は、3つの説が考えられています。
【徳川家康の死因と考えられているもの】
- 天ぷらの食べすぎ説(鯛の天ぷらにあたった)
- 胃がん説
- 戦死説(すでに戦死していた)
それぞれの説について、エピソードを踏まえて詳しく見ていきましょう。
徳川家康の死因|天ぷらの食べ過ぎ説
徳川家康は天ぷらの食べ過ぎで死んだという説です。
徳川家康はとても好奇心旺盛な人で、新しいものには目がありませんでした。そのため、鷹狩のために訪れた田中城で、京で評判になっている新しい料理法を聞き早速それを試してみることにします。
その料理こそが天ぷらですが、当時の天ぷらは少し調理方法が違っていました。今の天ぷらのように衣をつけて揚げるのではなく、素揚げに近いようなものでした。
徳川家康は、その素揚げに近い鯛の天ぷらを喜んでバクバク食べたそうです。
徳川家康は、普段は節制を徹底おり、決してごちそうなどを食べる人ではなかったこと、高齢だったため脂っこい天ぷらは身体に応えました。食べた後から腹痛になってしまい、しばらく療養生活を送ることになるのです。
この療養生活から回復することなくそのまま亡くなってしまったので、徳川家康は天ぷらで消化不良を起こして亡くなったと考えられていたのです。
しかし、近年では天ぷらは直接的な死因ではなかったと考えられています。なぜなら、徳川家康が亡くなったのは天ぷらを食べてから3ヶ月も後のことだったからです。
消化不良が3ヶ月も解消されないなんてことはなかなか考えにくいですよね。
徳川家康の死因|胃がん説
徳川家康は、天ぷらでお腹を壊して療養生活を送ることになり、そのまま亡くなってしまいました。
しかし、実はこのときの診察で腹部にしこりがあることも判明していました。
医者はこのしこりを癪だと診断しますが、徳川家康は以前に寸白(真田虫による腹痛)を患ったことがあり、その経験から真田虫の塊だと自己診断してしまいます。
その結果、薬の調合が趣味で自信もあった徳川家康は、医者が出してくれた癪の薬は服用せず、自家製の寸白の薬を服用していました。しかし、それで治るはずもなく、食欲はめっきり衰え、喀痰が増加していきます。
この徳川家康の症状は、現代の医療においても「胃がん」によく見られる症状と一致しています。つまり、徳川家康の死因は胃がんだったのではないかという説もあるのです。
徳川家康の死因|戦死説
徳川家康の死因として他に挙げられているのが、戦死説です。関ヶ原の戦いで戦死したと言うのが、有力視されています。この関ヶ原の戦いでは、真田幸村の奮闘により徳川家康は自刃を覚悟したと言われています。
真田幸村が攻めてきた時、徳川家康は体制を立て直して反撃したという説が唱えられていますが、少し違う説もあります。
真田幸村が攻めてきた時、徳川家康は本陣から脱出を試みたという説です。
その脱出方法は棺の中に隠れて逃げ出すというもの。しかし、敵の後藤又兵衛がそれを怪しんで、槍で一突きしてしまったというのです。棺の中で身動き取れず、逃げられない状態での一突きによって、徳川家康は瀕死の重体に陥り、そのまま息を引き取ってしまったというものです。
総大将である徳川家康の死に、家臣らは大慌てし、せっかく戦に勝ってこれから徳川の時代がやってくると思ったのに、徳川家康が死んだとなってはまた争いが起こってしまうかもしれません。
そこで家臣たちは、徳川家康の死を隠蔽することにしたというのです。
急遽、徳川家康の影武者をたて、全て隠したまま徳川家の世襲制を続けていこうと決意したといわれています。
徳川家康は関ヶ原の戦いで死んでいて、その後は影武者が徳川家康の代わりとして存在していたということになるのです。
この説には、決定的な証拠となるような文書などは発見されておらず、信憑性にはかけますが、関ヶ原の戦いでの真田幸村の活躍を考えると、全く可能性がないわけではなさそうですね。
徳川家康の死因は、胃がん説が有力だと考えられている理由
先ほど徳川家康の死因と考えられている3つ説をご紹介しましたが、この中でも徳川家康の死因は胃がんだった、というのが有力であると考えられています。
なぜ徳川家康の死因は、胃がんが有力だと考えられているのか、詳しく見ていきましょう。
徳川家康は健康に気を遣っていたのに、なぜ胃がんに?
徳川家康は自他共に認める健康オタクでした。
普段の食事は質素なものしか食べず、自分で薬を調合するのが趣味というくらいのものです。しかし、徳川家康の死因として有力だと考えられているのは、胃がんです。これだけ健康に気を遣っていたのにどうしてそうなってしまったのでしょうか?
晩年の徳川家康の症状は、『徳川実紀』が詳しく解説してくれています。
それによると、徳川家康はどんどん痩せていき、吐血、黒色便がみられ、お腹に手で触って確認できるほどの大きいしこりがあるとのことでした。これは胃がんによく見られる症状のため、徳川家康の死因は胃がんであると考えられています。
しかし、このとき健康オタクであることが災いして亡くなってしまった可能性もあります。先ほどもお伝えしたように、徳川家康は自分で薬を調合するほど健康や医療について自信や興味をもっていました。そのため、体調を崩してからも、主治医の言うことを聞かずに自己判断で療養を続けてしまったのです。
その結果、徳川家康はみるみるうちに衰弱していき、そのまま死んでしまいました。
また、徳川家系では2代目将軍の徳川秀忠と、水戸光圀などもガンで亡くなったいわれています。そのため、徳川の血筋は遺伝的にガン家系であった可能性も高く、このことも徳川家康の死因が胃がんだったとする根拠として挙げられるのです。
徳川家康の最後の姿
関ヶ原の戦いに勝利し、天下を統一した徳川家康は死ぬ間際どのような姿だったのでしょうか?ここでは、徳川家康の最後の姿をご紹介していきます。
徳川家康の享年と命日
徳川家康は1616年(元和2年)1月21日に、鷹狩に出た先で倒れました。そのまま同年4月17日に、駿府城にて死去します。享年75歳でした。
徳川家康の遺体は、その日の夜に遺体は久能山移されています。
死ぬ間際、徳川家康はずっと布団に横たわっていましたが、いきなり起き上がり「刀を持てぃ」と、自分の刀を持ってこさせます。
そして、その刀で誰でもいいから斬ってこいと命じるのです。命じられた家臣は、死刑になる予定の罪人を一人斬って、血の滴る刀を徳川家康に渡します。すると、徳川家康はその刀を素振りし、
「俺はこの剣で、末代まで子孫を守ったるでよー」
と叫び、そのまま倒れて息を引き取ったといわれています。
徳川家康の最後の言葉
徳川家康の最後の言葉(辞世の句)は2つあります。
嬉しやと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空
現代訳:
嬉しいことだ。最後かと思い目を閉じたが、また目が覚めた。この世で見る夢は、暁の夜明けのように美しい。さて、もう一眠りするとしよう。
先にゆき あとに残るも 同じこと つれて行けぬを 別とぞ思う
現代訳:
たとえ先にあの世へ行こうとも、この世に残ることになる者たちと、所詮は同じ世界にいるようなものなのだ。遅かれ早かれ人はだれでも死ぬのだから、あの世とこの世の違いなんてほとんどないのだよ。たとえ私が死ぬとしても、誰一人として連れて行こうとは思わない。さらばだ。
この徳川家康の2つの句から、徳川家康が自分の人生に満足していて、犬死なんてさせたくないという家臣を大事にする気持ちが伝わってきますね。
徳川家康の遺体はどこへ?
徳川家康の遺体はどこへ行ったのでしょうか?徳川家康の墓の場所や、その後のエピソードなどをご紹介していきます。
徳川家康の墓の場所
徳川家康は遺言で、
「まず久能山に遺体を納め、増上寺で葬儀を行ったら、一周忌の後に日光山に小さな堂を建て、勧請せよ」
と指示をしていました。その指示通り、徳川家康の遺体は側近の手によって、密かに久能山に運ばれ、吉田神道の作法で埋葬されます。
徳川家康の遺言通りなら、その後日光山に改葬されているはずですが、久能山では土葬されていたので、遺体を動かすというのは難しかったため、あくまでも神格化した神霊のみを遷したと考えるのが自然だと考えられています。
ただし、徳川家康が埋葬された久能山の神廟も、日光の奥宮も、どちらも発掘調査は行われていないので、真相は謎のままです。そのため、徳川家康の墓は久能山東照宮と日光東照宮の両方にあるのです。
徳川家康の戒名は?
東照大権現安国院殿徳蓮社崇譽道和大居士
徳川家康の戒名は、日本の中ではトップクラスに長いです。
「東照大権現」は神を表す神号で、加えて最上の尊称である院号「安国院殿」までついています。
徳川家康は神様となった
徳川家康の遺言通り、家臣たちは家康を神格化することに尽力しました。
神号や神位は宮中から賜ることになっていましたが、最初はなかなかうまくいかず苦労したようです。というのも、宮中で後陽成上皇が疑義を表明していたからです。
しかし、1616年7月13日に後水尾天皇が徳川家康の神格化を勅許し、権現号の宣下も容認しました。後水尾天皇は徳川家康の意向によって天皇になった人だったので、友好的であったのでしょう。
こうして徳川家康は、扇の要のような関東の要である日光山で関東を守護する権現(天台宗の山王神道で薬師如来を神格化したもの)となったのです。
まとめ:徳川家康の死因は胃がんが有力
徳川家康の死因は、天ぷらの食べ過ぎではなく、胃がん説が有力だということがわかりました。
徳川家康は、自分の死後も徳川が繁栄し続けていくためにどうしたらよいのかを考えた結果が、自分を神格化することだったのかもしれません。
今回の内容をまとめると、
- 家康の死因は、天ぷらの食べ過ぎ説・胃がん説・戦死説の3つが主に唱えられている
- 昨今では、3つの中でも有力なのは胃がん説
- 家康は健康オタクであり、自分の知識や経験に自信があったため、主治医の言うことを無視して自分で調合した薬を飲んで治そうとしていた
- 床に臥せってからは一向に良くなることはなく、そのまま駿府城にて亡くなった
- 徳川家康は遺言で「(自分の)遺体を久能山に埋葬し、一周忌の後に日光山で勧請せよ」と指示した
- 日本一長い戒名を授かり、徳川家康は神となった
戦国の世を生き抜いた人物としてはとても長生きな徳川家康でしたが、自分を過信しすぎず主治医の話を聞いていたら、もっと長生きできたかもしれないですね。