大久保利通の功績|何した人?倒幕の時、明治以降にしたことを簡単に解説!
大久保利通(おおくぼとしみち)は薩摩藩出身の幕末から明治に掛けて活躍した政治家です。
大久保利通は、西郷隆盛や木戸孝と共に「維新の三傑」に称される人物として有名ですが、一体何をした人物なのか?ご存知ない方も多いのではないでしょうか?
今回は、大久保利通は一体何をした人物なのか?大久保利通の功績について、「幕末(倒幕時)」「明治維新後」に分けて簡単にご紹介していきます。
目次
大久保利通の功績を簡単に解説!
大久保利通の功績は、大きく二つに分類できます。
ひとつ目が幕末の功績です。幕末の大久保利通は、薩摩藩を主導し、討幕を成功させました。
ふたつ目が、明治維新後の功績です。明治維新後の大久保利通は、明治政府の初代内務卿として実権を握り、日本の礎を築き上げました。
【大久保利通の功績(幕末)】
- 大久保利通は西郷隆盛らと誠忠組(精忠組)を結成して藩政改革を行った
- 大久保利通は公武合体を推し進めた
- 大久保利通は、岩倉具視と王政復古の大号令を発布した
【大久保利通の功績(明治維新後)】
- 大久保利通は岩倉使節団の副使として、欧米を視察した
- 大久保利通は内務省を新設した
- 大久保利通は第一回内国勧業博覧会を開催した
- 大久保利通は、日本の基礎となる法整備を行った
- 大久保利通は私財を投じて公共事業を行っていた
それぞれの項目について、詳しく見ていきましょう。
大久保利通の功績|幕末・倒幕時
大久保利通は、江戸末期(幕末)に薩摩藩で生まれました。当時、薩摩藩は藩主の島津斉彬のもと数々の改革を行っていました。そんな中、大久保利通も薩摩藩の藩政改革や公武合体運動などに大きく関わっています。
ここでは、大久保利通の功績の中で、幕末・倒幕時に行った功績に注目していきます。
【大久保利通の功績|幕末・倒幕時】
・大久保利通は西郷隆盛らと誠忠組(精忠組)を結成して藩政改革を行った
・大久保利通は公武合体を推し進めた
・大久保利通は、岩倉具視と王政復古の大号令を発布した
大久保利通は西郷隆盛らと誠忠組(精忠組)を結成して藩政改革を行った
大久保利通は、西郷隆盛らと誠忠組(精忠組とも書く)を結成し、島津家28代当主の島津斉彬の藩政改革にも、藩の徒目付として関わりました。
※徒目付とは…江戸幕府や諸藩に置かれた役職の1つ。城内の宿直や、遠国出役(遠国に出張して勤める任務)として諸藩の探索をする諜報活動も担当した。大名の懐刀といったところでしょうか。
【島津斉彬が行った主な藩政改革】
- 反射炉の建設
- 溶鉱炉の導入
- 西洋技術の導入(ガラスやガス灯、紡績など)
- ジョンマンジローの保護
- 日本最初の国産蒸気船『雲行丸』を開発
大久保利通は、薩摩藩の下級藩士の家の長男として生まれました。同じ町内には三歳年上の西郷隆盛の家があり、幼馴染として育った二人は厚い信頼関係で結ばれていたそうです。
幼少期の大久保利通は病弱で武芸は得意ではなかったようですが、学問に励み、討論などを得意としていました。
青年期の大久保利通と西郷隆盛は、薩摩藩内で有村俊斎、伊地知正治、吉井友実、税所篤らと親交を結び「誠忠組」を結成しました。
誠忠組は、吉田松陰の松下村塾と同じような位置づけのものといっても良いかもしれません。
島津斉彬の庇護のもとで、誠忠組のメンバーたち思考を深め、結束を深め、明治維新の中心的となる人物へと成長をしていったのです。
大久保利通は公武合体を推し進めた
大久保利通は、島津斉彬が亡くなった後、島津久光の側近となり、公武合体策を推進する藩の政治に関与を推進しました。
※公武合体とは…天皇と幕府が協力して政治を行おうという政策方針を指します。「公」は公家(京都の朝廷)を指し、「武」は武家(江戸幕府)を指しています。公武合体の象徴として、皇族から皇女「和宮」が、第14代将軍の「徳川家茂」に嫁いだりしています。
公武合体策を推進していた大久保利通でしたが、幕府が力を失う様を見ていくうちに討幕派へと考えを固めていくのでした。
こうして結ばれたのが薩長同盟です。
大久保利通や西郷隆盛は、坂本龍馬らの仲介で、敵対関係にあった長州藩と軍事的な密約同盟を結びます。これにより、時代は倒幕へと大きく動き出したのです。
大久保利通は、岩倉具視と王政復古の大号令を発布した
大久保利通は、王政復古の大号令の発布にも関与しました。
王政復古の大号令とは、1868年(慶応3年)に発布された、
「これからは天皇による政治を、江戸幕府の影響を受けない新しい役職のものたちが支えます。」
という宣言です。
江戸幕府勢の関与しない新政府の樹立をめざした、政治クーデターとされています。
王政復古の大号令の発布により、幕府や摂政、関白といった制度は廃止され、「総裁」「議定」「参与」の三職が天皇による政治を補佐することとしました。
大久保利通は、参与に任命され、日本の政治の中心人物となったのです。
大久保利通を見出したのは島津久光
島津斉彬が亡くなった後、島津斉彬を慕っていた誠忠組は脱藩を計画します。
薩摩藩を脱藩し、幕府の政治の改革に突出していこうとしていたのです。
その頃の誠忠組のリーダーは大久保利通でした。リーダーらしからぬ行動にでます。なんと、薩摩藩の実質的最高権力者だった島津久光の側近にこの計画を漏らしたのです。計画を知った島津久光は、直筆の手紙を書いて藩に留まるように促します。また、誠忠組内からも優秀な人材を藩の重役に取り立てる流れも生まれ、大久保利通も側近のポジションへと引き立てられています。こうして脱藩計画は中止となり、誠忠組のメンバーは藩の政治に大きな影響を及ぼす存在となったのです。
大久保利通の功績|明治維新後
大久保利通は、薩摩藩の藩政改革や、王政復古の大号令にも大きく関与し、約260年続いた江戸幕府の終焉に立ち会っています。そして、その功績を認められ、明治という新しい時代の中心となっていきました。
ここでは、大久保利通の明治維新後の功績に注目していきます。
【大久保利通の功績|明治維新後】
- 大久保利通は岩倉使節団の副使として、欧米を視察した
- 大久保利通は内務省を新設した
- 大久保利通は第一回内国勧業博覧会を開催した
- 大久保利通は、日本の基礎となる法整備を行った
- 大久保利通は私財を投じて公共事業を行っていた
大久保利通は岩倉使節団の副使として、欧米を視察した
大久保利通は、1871年(明治4年)に岩倉使節団の副使として、欧米諸国を訪問しました。最先端の西洋の文化や技術を目の当たりにした大久保利通は、日本と欧米諸国との国力の差に衝撃を受けたといわれています。
<岩倉使節団の、主要メンバー>
- 岩倉具視(大使)
- 木戸孝允 (副使)
- 大久保利通(副使)
- 伊藤博文(副使)
- 山口尚芳(副使)
欧米視察で大久保利通が特に注目したのが、ドイツだったと言われています。
当時のドイツは、工業化最先端を走るイギリスに追いつくために強力な産業復興政策をとっていたそうです。岩倉視察団での経験は、帰国後に大久保利通が力をいれた「殖産興業」の礎となったのでした。
大久保利通は内務省を新設した
大久保利通は1873年(明治6年)に内務省を新設し、自らが初代内務卿に就任します。
内務省は、現在の総務省、国土交通省、厚生労働省、警察庁をあわせた巨大な権限を担う行政機関ですので、内務卿の大久保利通は、政権のトップといってもよいでしょう。
内務卿となった大久保利通は、「富国強兵」をスローガンとして、「殖産興業政策」を推進し、日本の国力の増強を目指しました。
大久保利通は第一回内国勧業博覧会を開催した
1877年(明治10年)に、東京上野公園で、日本で初めての内国勧業博覧会(第一回内国勧業博覧会)が開催されたことも、大久保利通の功績に一つです。
開催の目的は、国内の産業発展を促進し、魅力ある輸出品目の育成です。
つまり、大久保利通は、岩倉使節団帰国からわずか3年で、「殖産興業政策」の一つを形にしたというわけです。
それまでの日本の博覧会は、名宝や珍品を集めたものでした。そこで、大久保利通は「殖産興業推進」には不必要な出品物を厳格に排除し、欧米からの技術と在来技術の出会いの場としての面を前面に押し出すものにしています。
大久保利通は、岩倉使節団として視察したウィーン万国博覧会を参考に、この博覧会を開催したそうです。
大久保利通の狙い通り、この「第一回内国勧業博覧会」は日本の産業促進に大きな影響を与え、その後の博覧会の原型となっているそうです。
大久保利通は、日本の基礎となる法整備を行った
大久保利通は、現代の日本の基礎となる法整備を行いました。
【大久保利通が行った法整備】
- 学制
1872年(明治5年)に発布された教育制度。教育を充実することによって国力を高め、日本の近代化を進めることを目的としていました。全国に5万を超える学校をつくり、6歳以上の全ての男女が小学校で教育を受けることを定めました。 - 地租改正
1873年(明治5年)に明治政府が行った租税制度及び、土地制度の改革。この改革によって、土地に対する私的所有権が日本で初めて確立しました。
大久保利通は私財を投じて公共事業を行っていた?
大久保利通は、1878年(明治11年)に6名の士族によって暗殺されてしまいます。国の金で私腹を肥やし、無駄遣いしていると糾弾されています。
しかし亡くなった後に調べてみると、実際は、大久保利通は預金がほとんどなく、逆に8,000円(現在の価値で1億円)以上にのぼる債務があったことが判明します。
これは、大久保利通自身が改革を進める中で、必要だけれども予算のつかなかった公共事業に私財を投じてできた責務だったそうです。
近しい人達には、大久保利通の志が伝わっていたようで、債権者たちは借財の返済を遺族に求めませんでした。
さらに、一文無しで残された遺族のために募金が集まり、そのお金で遺族は暮らしていくことができたのです。
生前に大久保利通が寄付したお金の回収分と併せて、集まった募金は、16,000円(現代の金額で約2億円)もになったといわれています。
大久保利通は独裁者だったのか?
大久保利通の功績は、確かに近代日本の確立に欠かせないものでしたが、冷静な政治手腕はときに冷たく捉えられがちです。中でも、岩倉使節団から帰国後に内務卿に就任した後は、「独裁者」とされることもしばしばあるようです。
大久保利通は独裁者だったのでしょうか?
大久保利通は、寡黙で他人に威圧的、冷静かつ現実主義であり、他人の意見を聞き入れることがほとんど無い性格だったといわれています。
そんな大久保利通を評価していた一人が、島津斉彬でした。
島津斉彬は、
「付和雷同で意見を持たない者は、十人が十人とも好む人材かもしれないが、非常事態に対応できない。器用さではなく強い意志を持った者こそが、難局を乗り切る事ができるのです」
と言っていました。
急速に変化していく世界情勢の中で、非常時の日本を近代化へ導くことができたのは、強い国家的使命感をもった大久保利通だからだったように感じます。
大久保利通は国の為にならば私財をも投入しました。同郷の友人や戦友らとの義理も人情も切り捨てました。版籍奉還や廃藩置県、廃刀令などの改革も強力に推し進めます。
大久保利通は、独裁者というよりは、「強い日本をつくる」という国家のために尽力した人物なのです。
国が大きく変革していく時には、強い意志を持ってどんどん改革していく力強い人物が必要です。
大久保利通は、まさにその役目を買って出た人物だと言えますね。
まとめ:大久保利通は近代日本の基礎を作った、日本近代化の父と呼ばれるにふさわしい業績を残していた
大久保利通は、江戸時代から明治時代への大きな変革には欠かせない人物であることがわかりました。まさに日本近代化の父と呼ばれ存在だとかんじました。
今回の内容をまとめると
- 大久保利通の功績は、幕末と明治維新後に分けられる
- 大久保利通は、公武合体を推進したり、王政復古の大号令にも大きく関与していた
- 大久保利通は、岩倉使節団の副使として、欧米諸国を視察し、日本との国力の違いを目の当たりにした
- 大久保利通は、内務省を新設し、内務卿として国のトップにたった
- 大久保利通は、日本の基礎となる法整備を行った
- 大久保利通は、独裁者と言われても強い日本を作るために尽力した
同じ薩摩藩出身の西郷隆盛と比較されることもある大久保利通。決して冷酷な人間ではなく、強い日本を作るという強い意志を持って、行動した偉大な人物だと感じますね。