豊臣秀吉の妻は寧々(ねね)、茶々の他にも側室が沢山いた!?その関係性は?
豊臣秀吉(1537~1598)といえば、日本を統一した戦国武将として有名です。
その豊臣秀吉の妻として有名なのは、正室である寧々(生年は諸説あり~1624)と側室である茶々1569~1615)です。
しかし、豊臣秀吉にはこの二人の他にも側室が沢山ました。
今回は、豊臣秀吉の妻、寧々と茶々はいったいどんな人物だったのか?二人の関係性はどうだったのか?そして他の側室にはどんな人がいたのか?について詳しく解説していきます。
目次
豊臣秀吉の妻(正室)の名前は寧々(ねね)
豊臣秀吉の正室、つまり正式な妻は寧々という人物です。
寧々は、北政所という通称で知られています。
正室はいわゆる妻のトップです。そのため、側室たちを束ねる役割もありました。
豊臣秀吉の正室、寧々はどのような人物だったのでしょうか?詳しく見ていきましょう。
豊臣秀吉の妻 寧々はどんな人?
寧々 別名:おね、北政所、高台院
出生:不詳(諸説あり)
没年:1624年
父:杉原定利
母:朝日殿
寧々は1561年(永禄4年)豊臣秀吉に嫁ぐ時、母の朝日殿に身分の差から反対されてしまいます。
しかし、兄の家定が「自分も秀吉に養子縁組する」と母を諭してくれたので無事に嫁ぐことができました。
政略結婚が多かった当時としては、珍しい恋愛結婚になります。
しかし、周りからの反対や身分の差から、結婚式は非常に質素なものになっていたようです。
結婚後は、豊臣秀吉を献身的に支え、ときには天下人の妻として朝廷との交渉を一手に引き受けたり、人質として集められた諸大名の妻子を監督する役目を担ったりしました。
また、こうした立場から、寧々は豊臣秀吉に対して堂々と意見をします。
他の家臣や大名がいる前で、二人が尾張弁丸出しで喧嘩をすることもあったようです。
豊臣家の留守を預かることの多かった寧々は、訪ねてくる武将たちを気遣い、気分良くもてなすように配慮していました。さらに、武将たちの妻ともすぐに打ち解け仲良くなり、交流を持ち続けていました。このことから、寧々は多くの武将たちから慕われていたのです。
妻としては完璧な寧々でしたが、豊臣秀吉との間には子どもを授かることはできませんでした。
しかし、養子はたくさんいて、その全ての子に寧々は愛情を注ぎ養育しました。
寧々はとても美人であったと言われていますが、見た目だけでなく性格も美人。敵味方関係なく慕われる、そんな人物であったと言えるでしょう。
豊臣秀吉と寧々の関係性は?
豊臣秀吉と寧々は、織田信長の家臣として同じ長屋に住んでいました。
そもそも、10歳ほども年下の寧々に豊臣秀吉が一目惚れしたのがきっかけの二人。恋愛結婚であったこともあり、二人の仲は非常に良かったようです。
しかし、寧々は豊臣秀吉の浮気癖にとても困っていました。
ときには織田信長に相談することもあったようです。*これについては次の項目で詳しく解説します。
豊臣秀吉が関白になり、寧々も北政所の名称を許されるようになってからは、朝廷との交渉を引き受けるようになりました。その他にも寧々は豊臣家の内政を取り仕切り、豊臣秀吉を支えていきます。
豊臣秀吉にとって寧々は欠かすことのできない存在であり、終生敬意を払い続けたとされています。
織田信長が、豊臣秀吉の妻 寧々に宛てた手紙
豊臣秀吉は大の女好きで、寧々はその浮気癖に困っていました。
初めて城を持つ頃には、城下の女性たちとも浮気するようになり、豊臣秀吉の天狗な態度も目に余り、寧々は秀吉の主君の織田信長に手紙を書いて相談することにしました。
そこで、織田信長は寧々にこのような手紙を送っています。
「秀吉というやつははげねずみの分際で、本来であればこんなにいい奥さんに釣り合うわけがないのにその自覚がないほどのおバカだから仕方がないのです。それにしてもあなた(寧々)は本当に素敵な女性で、この間久しぶりに見かけたときはどんどん美しくなっていて驚きました。ですから、つまらない女性にヤキモチなどを妬いて、自分の格を下げることのないようにしてください。ともかく奴の浮気の話は私(信長)もよく知っておくことにしますから、この手紙を秀吉に見せてやりなさい」
織田信長が、部下の妻に対してこのように丁寧な対応をすることは異例でした。
それほどまでに寧々という人物が魅力的な人物であったことが伺えます。
豊臣秀吉からしてみたら、このような手紙が上司から来たら生きた心地がしなかったでしょうけども、それでもなお浮気癖が治ることはありませんでした。
豊臣秀吉と茶々の関係性
豊臣秀吉の妻を語る上で欠かせないもうひとりの人物が茶々です。
茶々は側室でありながら、豊臣秀吉の最愛の伴侶だと言われています。
茶々はなぜ、最愛の伴侶と呼ばれているのでしょうか?詳しく見ていきましょう。
豊臣秀吉の最愛の伴侶?茶々とはどんな人?
茶々 本名:浅井茶々
別名:淀殿、淀の方
出生:1569年
没年:1615年
父:浅井長政
母:お市の方(織田信長の妹)
初と江と供に、浅井三姉妹と呼ばれることが多いです。
また茶々の父は姉川の戦いで、母は賤ヶ岳の戦いで、豊臣秀吉によって自害に追い込まれています。
つまり、茶々にとって豊臣秀吉は、親の仇となるわけです。
しかし、1588年(天正16年)頃に豊臣秀吉の側室となります。
その当時は、戦で勝った方が負けた方の家臣や妻子の面倒を見るということは一般的でよくあることでした。
そして、茶々はその翌年には鶴松を生んでいます。
懐妊を喜んだ豊臣秀吉から山城淀城を賜り、以後「淀の方」と呼ばれるようになりました。
世継ぎのいなかった豊臣秀吉にとっては待望の男児でしたが、その鶴松はわずか3歳で病死してしまいます。
しかし、その後2人目の男児を茶々は生みました、これが豊臣秀頼です。
豊臣秀吉の死後、茶々は秀頼の後見人として豊臣家に留まり、政治的な実権を握るようになりました。
しかし、関ケ原の戦い以後、徳川家と対立するようになり、大阪夏の陣を最後に、秀頼とともに切腹して亡くなりました。
豊臣秀頼に関しては、こちらの記事でも詳しく解説しております。
>>豊臣秀頼の父親は秀吉ではない?秀頼は一体誰の子供なのか?>>
豊臣秀吉と茶々との関係性は?
豊臣秀吉は、「戦国1の美女」と呼ばれた、茶々の母・お市の方に憧れていました。
そのため、母親譲りの美貌や魅力はもちろんのこと、憧れの女性の娘だったこと、また敬愛する織田信長の血を引いていることなどから、茶々のことを溺愛するのです。
また、豊臣秀吉は側室が沢山いたにもかかわらず、子宝には恵まれませんでした。
そんな中、茶々との間には二人の子どもに恵まれます。
一人は幼くして病死してしまいましたが、もう一人(秀頼)は順調に育ちます。待望の男子を失った豊臣秀吉、腹を痛めて生んだ鶴松を失った茶々。そんな二人の悲しみを癒やしてくれたのが秀頼でした。
茶々としては親の仇であった豊臣秀吉でしたが、懐妊した後は、落ち着いた環境で出産できるように茶々のための城を建設したり、両親の供養をしてくれたりと茶々をとても大事にしていたことが伺えます。
豊臣秀吉の妻、寧々と茶々の関係性は?仲が悪かった?
豊臣秀吉の欠かせない存在である寧々と、豊臣秀吉が溺愛していた茶々。
この二人の関係性が気になるという人は多いのではないでしょうか?
一般的には二人は不仲であったとされています。その主な原因となるのが子供のことです。
正室である寧々との間には子どもができない一方で、茶々との間には後を継ぐ豊臣秀頼が生まれます。
正室なので寧々のほうが立場は上ですが、子がいないせいで発言力が弱まり、側室なので立場が低いはずの茶々は、子ができたおかげで発言力が高まるのです。
仲が悪くなるのは必然ですよね。
しかし、最近では実は仲が良かったのではないかとする説も出てきています。
根拠としては、寧々が側室たちと一緒にお祭りに遊びに行っていたことや、秀頼を妊娠していた茶々の安産祈願を寧々が一緒に行っていたという資料が残っていたことです。
真相はどうであれ、妻たちがうまく関係を保っていたからこそ、豊臣秀吉は何人も妻がいてもうまくやれていたのでしょう。
豊臣秀吉は女好きだったが、子供には恵まれなかった
豊臣秀吉はとても女好きとして有名でした。正室である寧々に子どもができなかったということもあり、子どもを作るために沢山の女性に手を出します。
しかし豊臣秀吉は、側室として血筋のいい名家や大名家などから娘を多く迎えますが、その割にはやはり子どもにはあまり恵まれませんでした。天下まで取った豊臣秀吉でしたが、子ども運だけはどうしようもなかったようですね。
豊臣秀吉の側室一覧
豊臣秀吉にはどんな側室がいたのか?それぞれ見ていきましょう。
・淀殿(浅井長政の娘・茶々)(1569~1615)
1588年頃に豊臣秀吉の側室になります。
豊臣秀吉は、茶々の母であるお市の方(1547~1583)(織田信長の妹)に憧れていたようで、浅井三姉妹で一番母によく似ていた茶々を側室としたのです。
鶴松・秀頼と二人の男の子に恵まれ、秀吉の死後は秀頼の後見人として政治に介入し、豊臣氏の家政の実権を握りました。
・南殿(山名善之の娘?)(生年不詳~1634)
南殿は、豊臣秀吉が近江長浜城主だった頃の側室とされています。羽柴秀勝(石松丸)と女の二人の子に恵まれたとされていますが、二人共幼くして亡くなってしまいます。後に竹生島(ちくぶしま)の宝厳寺にて出家しました。
・南の局(山名豊国の娘)(1566~没年不詳)
豊臣秀吉が鳥取城主の山名豊国(1548~1626)を攻めた折に、娘であるあかねを側室として迎え入れました。
・松の丸殿(京極高吉の娘・竜子)(生年不詳~1634)
京極竜子はかなりの美女だったようで、豊臣秀吉お気に入りの側室の一人で、淀殿のいとこにあたります。もとは武田元明(1562~1582)の正室でしたが、元明の死後、秀吉の側室として迎え入れられました。
秀吉の死後は、出家して寿芳院(じゅほういん)と号しました。
・加賀殿(前田利家の三女・摩阿)(1572~1605)
摩阿姫とも呼ばれる加賀殿は、前田利家(1539~1599)の三女となります。元々は柴田勝家(生年不詳~1583)の家臣である佐久間十三と婚約していたものの、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が豊臣秀吉に負けたため佐久間十三は自害してしまいます。そしてその後、1585年頃に豊臣秀吉の側室となるのです。加賀殿はとても体が弱く、実家で過ごすことがほとんどでした。
豊臣秀吉の死後は、万里小路充房(1562~1626)の側室となり、前田利忠を出産。
しかし、後に離縁して利忠とともに金沢に戻っています。
・甲斐姫(成田氏長の娘)(1572~没年不詳)
甲斐姫は、豊臣秀吉が関東で唯一落とせなかったとされる忍城の城主・成田氏長(1542~1596)の娘です。
「東国無双の美人」と言われ、武芸や軍事に明るかったとも言われています。
そして、その噂を聞いた豊臣秀吉が気に入り、側室に迎え入れました。
・三の丸殿(織田信長の六女)(生年不詳~1603)
三の丸殿は、織田信長の六女です。
伏見城の三の丸に住んでいたので、三の丸殿と呼ばれていました。
豊臣秀吉の死後は、二条昭実(1556~1619)に嫁いでいます。
・三条殿(蒲生賢秀の娘・とら)(生没年不詳)
三条殿は、蒲生賢秀(1534~1584)の娘で、会津城主の蒲生氏郷(1556~1595)の妹にあたります。
姫路殿(織田信包(おだのぶかね)の娘)(生年不詳~1641)
豊臣秀吉が中国攻めをする頃に側室となりました。
豊臣秀吉からの寵愛はかなり深かったようですが、子宝には恵まれませんでした。
・広沢局(名護屋経勝の娘)(1573~1636)
豊臣秀吉が朝鮮出兵のため名護屋城に来ていたときに側室になりました。
豊臣秀吉の死後出家しています。
・月桂院(足利頼純の娘・嶋子)(1568~1655)
元々は倉ケ崎城主・塩谷惟久の正室でしたが、豊臣秀吉が近くまで来た際に夫においていかれてしまいました。
そして、その後豊臣秀吉の側室となることになります。
豊臣秀吉の側室の中では最も身分の高い身分の家柄出身だと言われています。
豊臣秀吉の死後、京都の東寺で出家しました。
・香の前(高田次郎右衛門の娘・種)(1577~1641)
豊臣秀吉にその美貌を見初められ側室となります。
その後、伊達政宗に下賜され子どもをもうけますが、そこからさらに伊達政宗の重臣である茂庭綱元(1549~1640)に下げ渡され側室となりました。
・円融院(三浦能登守の娘・おふく)(1549~没年不詳)
宇喜多秀家(1572~1655)の母。
豊臣秀吉の側室とされていますが、定かではないようです。
以上、正室も含めると、豊臣秀吉には14人もの妻がいたことになります。
まとめ:豊臣秀吉の妻 寧々と茶々。最愛の伴侶として、最高の伴侶として秀吉の天下統一を支え続けた
豊臣秀吉は女好きであったため、たくさんの妻を作っていました。その中でも特に力を持っていたのが、寧々と茶々でしたね。
今回の内容をまとめると、
- 豊臣秀吉はたくさんの妻がいた
- しかしながら、あまり子どもには恵まれなかった
- 妻たちの中でも力を持っていたのは、寧々と茶々であった
- 正室である寧々は、天下人としての秀吉を支え、いなくてはならない存在だった
- 茶々は側室であるにも関わらず、世継ぎを生んだため実質第二の正室のような扱いだった
- 寧々と茶々は不仲であったとされているが、実は仲が良かった説も存在する
豊臣秀吉にとって、最愛の伴侶である茶々、最高の伴侶である寧々、どちらも欠かせない存在であったことは間違いないでしょう。今の時代ではこんなにたくさんの妻を持つということは考えられないですが、一人の同じ男性を愛した者同士、豊臣秀吉を天下人として立たせるためにうまく関係を保っていたのかもしれませんね。